「この案は殺さねばならぬ」
米軍人が罪を犯しても日本の捜査当局はすぐに手出しができない。その源流となる「日米行政協定」が結ばれたのは、1952年4月。アメリカと日本、各地に散らばった公文書を重ね合わせ見えてきた緊迫の「日米交渉」、独自調査による70年目の新事実。

「この案は殺さねばならぬ」

 米国の元陸軍大佐、アン・ライトさんは、「地位協定」の存在を知ったときのことをよく覚えている。初年兵としての訓練中のことだった。

「教官に言われました。海外で何をしても、その国の司法制度で裁かれることはない。君は地位協定で完全に守られているんだ、と」

米陸軍の元大佐、アン・ライトさん。取材はオンライン(撮影:大矢英代)

 米国は現在、世界各地に800以上の軍事基地を展開しており、基地の受け入れ国とは例外なく地位協定を締結している。地位協定とは、米軍の兵士や施設などに関する法的な取り決めを指す。米国防総省によると、その数は現在100以上。日米地位協定もその一つだ。

 ライトさんは1967年に米陸軍に入隊した。オランダやドイツなどNATO(北大西洋条約機構)諸国の米軍基地で任務に就いた後、大佐で退役。外交官に転じて、ニカラグアやソマリア、シェラレオネ、アフガニスタンなどの米国大使館で勤務した。戦争や内戦、紛争の途切れない地域ばかりで、いずれも米国が大きく関与している国々である。その後、20033月、ブッシュ政権のイラク侵攻に抗議して外交官の職を辞した。

 この1年、米国はコロナ禍で苦しんだ。感染者は3040万人以上、死者は55万人以上。筆者の住むカリフォルニア州ではロックダウン(都市封鎖)と自宅待機指示が続いた。オンライン取材で向き合ったハワイ在住のライトさんも、不自由な生活を送ってきたようだ。

 画面の向こうのライトさんには、30年以上も軍事と外交の最前線をくぐり抜けてきたとは思えない柔和さがある。そして、柔らかな口調で「米国がなぜ地位協定をつくったか、分かりますか? 米国の軍人に特権を与えるためです。それ以外の理由はありません」と語り始めた。

「米軍が日本駐留を始めたのは、1945年です。あれから時は流れましたが、地位協定の目的自体は変わっていません。つまり、基地の内外にかかわらず、米国がどんな時も裁判権を確保できるようにすることです」

 どんな時であっても米側が裁判権を確保できるように、とは?

 それは、いったいどういうことだろうか?

オンラインで取材中の筆者。米国カリフォルニア州ではロックダウンが続き、この1年、ほとんど外出できなかった(撮影:タノス・パナゴポウロス)

米国にとって“逃げ得”の協定

 米軍人が女性を暴行したり、酒酔い運転で人身事故を起こしたりしても、彼らが米軍基地内に逃げ込めば、日本の捜査当局はすぐに手出しできない。場合によっては、本国へそのまま戻ってしまう。“逃げ得”である。

 著しく不平等な日米の関係。

 その源流となる「日米行政協定」(現在の日米地位協定の前身)が結ばれたのは、19524月である。今から69年前のことだ。

 当時交渉にあたった日米両国の代表者たちは、実は、膨大な記録を書き残していた。米側公文書の多くは国務省や国立公文書館の手でデジタル化され、インターネット上で公開されている。米情報公開法(FOIA)を使って入手できるものもある。一方、日本の外務省も、十分とは言えないものの、当時の交渉記録を保管し、一部を公開している。

 あちこちに散らばった公文書を集め、読み解く。すると、これまで語られてきた歴史とは違う姿が見えてくる。

 政治家や官僚たちが記録を残していたからこそ、検証できる本当の姿。

 公文書で日米の過去を読み解く旅は、まず、A41枚のペーパーから始めよう。

A4判の米公文書「行政協定裁判権小委員会 刑事部会」

「SUB-COMMITTEE ON JURISDICTION ADMINISTRATIVE AGREEMENT MATTERS CRIMINAL PANEL」

 その表題で始まる米公文書は19531028日に作成された。タイトルを日本語に訳せば「行政協定裁判権小委員会 刑事部会」となる。

「行政協定」とは、現在の日米地位協定の前身となる日米間の約束事であり、19522月に締結された。日米安全保障条約の運用に関する法的事項などを取り決めている。「協定」の名は付いているものの、国際法上は「条約」と等しい。この文書が記録された当時、日米両政府は在日米軍の裁判権をどうするかについて、秘密裏に話し合っていた。

 文書によると、刑事部会の席上、日本側代表だった法務省刑事局総務課長のみのるは、こう発言している。

 日本が裁判権を持っている場合でも、特別な場合をのぞいて、裁判権を行使しない(放棄する)。

 米軍人に関する裁判権を日本は放棄する、すなわち、治外法権を認めるという発言だった。日本の主権を自ら手放すような発言だ。

 21世紀の現在も、沖縄や神奈川両県など米軍基地の多い地域では、事件を起こした米兵の“逃げ得”が、しばしば問題になる。基地内に逃げ込まれたら、事実上、日本の捜査当局はお手上げだ。それは今も変わらない。

 “米の属国”とも言えるこの取り決めは、この津田発言が起点になっている。

 この歪んだ関係は、どのようにしてできたのだろうか。津田発言に至る道筋はどんな姿だったのだろうか。

“属国”とも言える対米関係の源流

 外務省のウェブサイトでは『平和条約の締結に関する調書第五冊』が公開されている。全579ページにわたる膨大な史料だ。全てのページに「極秘」の押印がある。

 序章を開くと、こんな記述があった。

 交渉経緯を、当時第一線で衝に当たった西村熊雄元条約局長がまとめたものであり、わが国戦後外交史を研究する上で第一級の史料である。

 米側と膝を突き合わせて交渉にあたった外交官の西にしむらくまが、自身の視点で書き残した記録である。

 記録の始まりは195110月であり、この時から本格交渉が始まったことを意味する。今から70年前だ。

 過去の歴史を振り返るとき、しばしば「激動」という言葉が使われる。1951年の日本も、まさにそれにふさわしい年だった。

 国内では経済の混乱が続き、各地で激しい労働争議が続いていた。街にはまだ、戦争でけがをした傷痍軍人や戦災孤児があふれている。海の向こうでは朝鮮戦争が激しくなり、日本の基地から次々と米軍機が朝鮮半島に飛び立つ。米軍絡みの犯罪や事故は全国で多発し、東京都内でも大型の爆撃機B29が墜落事故を起こすなどした。

 他方、娯楽に興じる余裕も国民の間に生まれ始めていた。プロ野球のオールスター戦が初めて行われたのも、プロレスの力道山がデビューしたのも、この1951年である。

 当時はまだ、第2次世界大戦の敗戦国として連合国の占領下にあった日本は、この年の98日、2つの歴史的な条約にサインをした。連合軍の撤退と日本の独立を約束するサンフランシスコ講和条約、そして占領軍撤退後も米軍の日本駐留を認める日米安全保障条約だ。

 講和条約は半年後の19524月に発効する。待ちに待った「独立」までのカウントダウンが始まった。

 前掲の『平和条約の締結に関する調書第五冊』の第一章を見ると、その冒頭で西村はこんな決意を書き残している。

 日本人全体としては平和条約の署名、やがてくるであろう条約発効にともなう独立自由の回復にたいし絶大な希望をいだき期待に胸を弾ませていたといってよいであろう。政府・為政家としてはこの一般国民の期待を裏切るようなことがあってはならない。

 日本敗戦の直後から「連合国軍」として日本に駐留していた米軍は、日本の「独立」と同時に、今度は「在日米軍」として日本に居残ることになる。その運用方法を定めた「ルールブック」である行政協定を早急につくらなければならない。

 しかし、その核である裁判権をめぐって、日米両国は揉めていた。

 占領下の日本では、米軍人による犯罪は公務中か公務外かを問わず、全ての裁判権は米側にあった。日本が「独立」したとしても、裁判権すらない状態では主権国家とは言えない。米国と対等な関係を築くこともできない。

 日本側の交渉担当者たちにとって、裁判権の回復は悲願だった。西村の言う「国民を裏切れない」には、そうした流れの中で出た言葉である。

ところが、米側の姿勢は硬い。すでに日本側に渡されていた行政協定の草案は、日本の官僚らをがくぜんとさせるものだった。「裁判権はすべて米国が持つ」という、占領時代と何も変わらない米軍の特権を保護した内容だったからだ。

 西村はこう記している。

(米側が提案した)協定案が駐軍協定の彩色がつよく集団安全保障体制下の外国軍隊の駐留には適切でないことをいよいよ痛切に感じさせられて「この案は殺さねばならぬ」と心中ひそかに決するところがあった。

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