アントニオ猪木をひと言で表現すれば、プロレスの妖怪だ。アンチ猪木派の記者、つまり私が私的アントニオ猪木論を展開してみたい。
猪木との取材で直接ナマの声に触れたのは、1966年(昭和41年)の夏である。豊登・猪木の新団体、東京プロレスの旗揚げ準備に追われている頃だ。以来、アントニオ猪木と猪木寛至、二つの顔を持つ男を遠からず、近からず一定の距離を置いて取材、そして、傍観してきた。
リング上の猪木はアスリートとして素晴らしい。強くて、凄くてシャープなレスラーだ。リングを降りた猪木は危険過ぎる。そう結論付けている。
猪木の凄さってなんだろう、とよく聞かれる。私の見るところ、身体機能がズバ抜けていたことだ。なで肩で、身体が柔かく、ヘビー級の領域を越えた身のこなし。ナチュラルな強さである。天賦の才能だ。
猪木のピーク時の体格は191センチ、112キロ。日本人でこれほどバランスのとれた大型選手はいない。なで肩で、同じような体形の外国人レスラーに〝不滅の鉄人〟ルー・テーズ(191センチ、110キロ)がいた。1980年代までの主なNWA世界ヘビー級王者のサイズをみると、身長が183センチから195センチ、体重が110キロから130キロぐらいだ。レスラーとしては理想的な体形だ。猪木が力道山の付き人だったころ、米国の代表的なテクニシャン、サニー・マイヤースが「いい体をしている。アメリカに連れて帰りたい」と惚れ込んだほどである。
全盛時の猪木の佇まいを見てほしい。黒のタイツに黒のリングシューズをつけ、テーピングやサポーターなど余計なものを何ひとつ付けていない素の体だ。戦う男の心意気を感じる。私の知る限り'98年4月に引退するまで、このスタイルを貫いた。観客に失礼のない戦いの姿勢である。そう簡単に出来ることではない。だから、他のレスラーにない緊張感と〝殺気〟が伝わってくる。
もうひとつの強みは相手を目で「殺す」ことだ。アニマル浜口は「アントニオ猪木の目は怖い。鳥肌が立つような殺気を感じる」と語る。戦った者にしかわからない証言だ。つまり、相手を刺し殺す目だ。浜口の目も怖かったが、怒った時の猪木の目はなお怖い。目だけで勝負出来るプロレスラーはザラにいるものではない。
忘れかけていたが、目を見ただけで身がすくんだ凄い奴、いた、いた。底光りする青い目、本物のキラーだった。猪木の東京プロレス時代の好敵手〝金髪の妖鬼〟ジョニー・バレンタイン、日本プロレスで力道山と戦ったことのある〝海坊主〟スカル・マーフィ、そして、〝インドの猛虎〟タイガー・ジェット・シンは怖かった。この3人のそばには、絶対に近づかなかった。従って挨拶も言葉も交していない。
いま、なぜか「金曜夜8時の新日本プロレス」がスポットを浴びている。日本プロレスを離脱した坂口征二が若手3選手を引き連れて猪木と合体し、新日本が旗揚げされた翌年、'73年4月6日、NETテレビ(テレビ朝日)が新日本プロレス中継「ワールドプロレスリング」を開始する。日本プロレス時代、人気を博した猪木・坂口の黄金コンビがブラウン管に再登場したことによって、プロレスが輝き出し、'75年からの新日本ブームにつながる。〝燃える闘魂〟アントニオ猪木の絶頂期である。
ところで、猪木の絶頂期とは、いつ頃までなのだろう。振り返って見ると、大雑把に3つの時代に区分出来る。'66年10月に東京プロレスを旗揚げした後の3か月間。'67年4月の日本プロレス復帰から'71年12月までの約5年間。'72年3月の新日本旗揚げから'76年6月にかけての、異種格闘技路線の幕開けとなるウィレム・ルスカ、モハメド・アリ戦頃までだろう。
ここで、アントニオ猪木のこの目で見た記憶に焼きつくガチンコ「10番勝負」をピックアップしてみよう。
① '66年10月12日、東京プロレス旗揚げ戦 東京・蔵前国技館 時間無制限1本勝負
アントニオ猪木(31分56秒 リングアウト)ジョニー・バレンタイン
② '69年5月16日、日本プロレス第11回ワールド・リーグ戦 東京体育館
アントニオ猪木がクリス・マルコフを破ってジャイアント馬場の4連覇を阻止。ワールド・リーグ戦初優勝。
③ '71年12月7日、日本プロレス インター・タッグ選手権試合 札幌中島スポーツセンター
ドリー・ファンク
テリー・ファンク
(2-1)
ジャイアント馬場
アントニオ猪木
ドリー(16分5秒 体固め)猪木
馬場(5分34秒 逆エビ固め)テリー
テリー(4分12秒 体固め)馬場
馬場・猪木組が王座転落、ザ・ファンクスが第15代王者チームとなる。
④ '72年3月6日、新日本プロレス旗揚げ戦 東京・大田区体育館 カール・ゴッチとの時間無制限1本勝負
15分10秒、ゴッチのリバース・スープレックス、体固めに敗れる。
⑤ '73年10月14日、新日本プロレス 東京・蔵前国技館
世界最強タッグ戦と銘打って坂口征二とコンビを組み、ルー・テーズ、カール・ゴッチ組と激突。猪木は3本目、ゴッチから初フォールを奪い、2対1の勝利。
⑥ '74年3月19日、新日本プロレス NWF世界ヘビー級選手権試合 東京・蔵前国技館
王者アントニオ猪木が挑戦者ストロング小林を29分30秒、ジャーマン・スープレックス・ホールドに破って初防衛に成功。国際プロレスのエースだった小林との戦いは、力道山木村政彦戦以来20年ぶりの日本人大物同士の対決として話題を呼んだ。
⑦ '74年4月26日、新日本プロレス 第1回ワールド・リーグ戦 広島県立体育館 坂口征二と30分1本勝負で初対決
時間切れ引き分け
⑧ '76年2月6日、新日本プロレス 格闘技世界一決定戦 東京・日本武道館
ミュンヘン五輪の柔道金メダリスト、オランダのウィレム・ルスカをバックドロップ3連発で20分35秒、TKO勝ち。
⑨ '76年6月26日、新日本プロレス 東京・日本武道館 プロボクシングの世界ヘビー級王者モハメド・アリと格闘技世界一決定戦
3分15R 引き分け
⑩ '79年8月26日、東京スポーツ新聞社 東京・日本武道館
プロレス夢のオールスター戦でジャイアント馬場と8年ぶりのコンビ結成、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組と激突。猪木がシンを13分3秒、逆さ押さえ込みに破った試合だ。
①は猪木の出世試合として高く評価された一戦だ。一介の若手選手に過ぎなかった猪木が、2年半に及ぶ米国武者修行でどれだけ成長したのか、しかも新団体のエースとしてどのぐらい活躍出来るのかが見所だったが、知名度の低さが危惧された。
しかし、その不安をぶっ飛ばすような暴れっぷりだ。スピーディな試合運びとシャープな技の切れ、凄い。日本の大型選手でこれほど動けるレスラーは見たことがない。プロレス担当になって2年足らずの筆者にとって、新鮮な驚きだった。
対戦相手もよかった。〝金髪のジェット機〟ともいわれた毒針殺法、エルボードロップの名手で、金髪を逆立てエルボーで襲いかかるバレンタインである。半失神状態に追い込まれながらも喧嘩ファイトで反撃する猪木、満員の観客席は迫真のファイトにしびれた。場外戦になった。猪木は気力をふりしぼってアントニオ・ドライバー(脳天杭打ち)2発でバレンタインを場外でKO、流血の大逆転勝ち。それまでにいなかった、技も使える本格派の喧嘩屋だ。一夜にして新しいスターが誕生した。
23歳という若さには無限の可能性が秘められていた。豊登・猪木の東京プロレスは3か月で破綻したが、その失敗をバネに「へこんでたまるか」と持ち前の反骨心で、新たなリングにチャレンジする。
②の、第11回ワールド・リーグ、クリス・マルコフとの決勝戦は、プロレスラー猪木を位置付ける上で、重要な意味を持った。
決勝戦は馬場、猪木、ボボ・ブラジル、マルコフの4選手が同点で首位に並ぶ大混戦となり、クジ引きで決勝トーナメント1回戦(30分1本勝負)は馬場ブラジル戦、猪木
マルコフ戦に決まった。馬場とブラジルの戦いは時間切れ引き分けで両者失格となり、猪木
マルコフ戦が優勝決定戦となった。
〝狂乱の流血王〟マルコフは場外戦で勝負を挑んでくる。凶器で猪木の額をメッタ刺しにした。しかし、猪木はこの凶器を奪って猛然と報復に出る。両者血ダルマとなるが、猪木がよろめくマルコフにコブラツイストをかけ、それでも逃げようとするマルコフに今度はガキッと卍固めを決めた。17分45秒、ギブアップを奪っての勝利だった。コブラツイストを進化させた新しい技「卍固め」が人気を呼んだことでも意義深い。
当時、水面下では、日本プロレス内の我欲に絡んだ派閥争いがあった。NETテレビが日本テレビの独占放送に割って入り、この年の5月12日、都内で記者会見。猪木、大木金太郎(キム・イル)らを看板に有望なスター選手を育てたい、と新たなテレビ放送開始を発表したのだ。
7月2日、NETは「ワールドプロレスリング」を毎週水曜午後9時から1時間枠でスタートさせ、1団体2局放映という異様な事態を招く。団体に亀裂が生じたのは当然の成り行きだった。馬場、坂口に与する日テレ派と猪木のNET派である。猪木を擁護したのは遠藤幸吉、ユセフ・トルコの日本プロレス両取締役だった。
③の史上最強といわれた馬場・猪木組のインター・タッグ王座転落は、2人(BI砲)の完全な決別を意味した。猪木の日プロ最後の試合である。言ってみれば、日プロ崩壊を暗示するインター・タッグ決戦だったといえる。
ここで特筆すべきは、猪木の日プロ追放劇につながる猪木派によるクーデター未遂事件が表面化したことだ。
猪木は11月、日プロの放漫経営とフロントの腐敗を批判し、経営健全化策を提言した。馬場も「会社がよくなるなら……」と最初は賛成していたらしい。上田馬之助ら選手会も猪木の改革案に賛同していた。
しかし、猪木が会社の不正をチェックするためと、自分の後援会長である税理士、木村昭政を使って、会社の経理帳簿を持ち出した。馬場は、この猪木らの荒っぽい行動に不信感を抱き、上田の口から猪木側の内情を知らされるに及び、「これは危険だ、会社の乗っ取りじゃないか」と見なし、猪木と別行動を取ることになる。
日プロが猪木を「会社の乗っ取りを策した」として除名処分したのは12月13日だ。インター・タッグ決戦の6日後のことである。選手会長であった馬場は、この猪木追放騒動の責任をとって選手会長を辞任している。代って大木金太郎が選手会長代行になった。
④の旗揚げ戦と⑤の世界最強タッグ戦、⑥のストロング小林戦については、多くの出版物で書き尽くされているので省略させて頂く。
⑦の試合については、次のような経緯がある。
猪木が東プロの旗揚げに参加した際、日プロは打倒猪木のために〝柔道日本一〟の坂口をスカウトしたといわれる。そして、猪木が新日本を旗揚げした時、日プロのエースになった坂口に対し「坂口なら片手で3分だ」と挑発している。お互い意識しないといったらウソになる。猪木は3月、ストロング小林との一騎打ちに勝ち、日本人対決を興行の軸にするという、プロモーターとしての意気込みもあった。
剛の坂口はアトミックドロップ、得意のスリーパーホールドで猪木を追い詰める。猪木はバックドロップ、コブラツイストで坂口をゆさぶる。125キロの坂口が手四つ(両手の力比べ)で押し潰しに出た時に、猪木が額をキャンバスにめり込ませ、ブリッジで耐えたシーンは圧巻だった。小林を1発で沈めたジャーマン・スープレックスと同じ見事なブリッジだ。しかし、坂口に粘られ、勝負は30分フルタイム戦って決着つかず、時間切れの引き分け。超満員の館内から一瞬、タメ息ともつかぬどよめきが起こった。小林戦と並ぶ猪木の日本人対決ベストバウトだ。
⑧のルスカ戦は、猪木の異種格闘技戦の出発点となった試合である。〝武道の殿堂〟でプロレス対柔道という世紀の一戦、これほど刺激的なイベントはない。相手はミュンヘン五輪柔道2階級制覇の〝オランダの赤鬼〟ウィレム・ルスカである。こいつは強い、金看板に偽りはなかった。
柔道着のルスカは猪木を投げ技で翻弄、そして腕ひしぎ逆十字固めを決める。さらに送り襟絞めとたたみかけた。粘る猪木はコブラツイストで反撃、チョップの連発で序盤の劣勢を挽回する。
すると、どうだ。ルスカは道着を脱ぎ捨てた。オウッ!! 見事な上半身だ。裸になったルスカは、ギリシャ彫刻のアポロ像のようだ。競泳選手に筋肉の鎧をつけたようなナチュラルな男性美である。
ルスカの裸絞めに苦しめられていた猪木が、ドロップキックの奇襲に出た。ここからチャンスをつかんだ猪木は、バックドロップの3連発でルスカをキャンバスにはわせた。猪木は20分35秒、戦慄のTKO勝ちで、他流試合のスタートを飾った。
ここで猪木が失敗していれば、次のモハメド・アリとの異種格闘技戦がどう転んでいたかわからない。このルスカ戦こそアントニオ猪木の真骨頂、ベストマッチだった。
⑨のモハメド・アリとの世紀の一戦は、アントニオ猪木のその後の半生を決定付けた。〝鉄人〟ルー・テーズに「一度会ったら忘れられない顔」と言われた男は、アリに「ペリカン野郎」と呼ばれたことによって、世界に喧伝された。これは大きかった。
アリのファイトマネーが約18億円、猪木が約9億円、NETのテレビ放映料が約1億5000万円と、空前の興行スケールである。ちなみに最前列ロイヤル席は30万円という破格の料金だった。
もっとも、格闘技世界一決定戦と銘打ったこの試合(3分15R)は、プロレスのヒジ、ヒザ、頭による打撃技禁止というルールで興味が半減。しかも両者に決定的なポイントがなく、引き分けに終わった。試合後、〝世紀の茶番〟とか〝世紀の凡戦〟と酷評されたものだ。
しかし、アリ効果は絶大であった。スーパースター、モハメド・アリを新日本のリングにあげたことによって、〝世界の猪木〟として売り出すことになった。衛星放送、クローズド・サーキットで知名度を得たことは、プロレス&総合格闘技の海外進出に強力な武器となった。
もっとも、「絶対やれっこない」といわれたアリ戦を可能にしたリスクは、あまりにも大きかった。新日本が背負った負債は十数億円だったといわれる。
アリ戦から4か月後の10月7日、猪木は蔵前国技館でアンドレ・ザ・ジャイアントと格闘技世界一決定戦、その年12月、パキスタン・カラチ遠征(アクラム・ペールワン戦)、'77年8月2日、日本武道館で全米プロ空手王者ザ・モンスターマン戦など一連の異種格闘技戦を強行する。さらに'78年11月には、初めて欧州に遠征し、「欧州世界戦シリーズ」に出場、西ドイツで強豪ローラン・ボックと3度にわたる死闘を繰り広げるなど通常では考えられぬハードスケジュールをこなしている。すべては無理を承知の借金返済のための試合だった。
このルスカ、アリ戦以後、筆者は上司から「なかに入れ!」とデスクを命じられ、新日本の試合を見るチャンスは少なくなった。従って、'77年以降の猪木のファイトについて語る資格はない。
本来なら、'70年代のものとして、'75年12月11日、蔵前国技館における〝人間風車〟ビル・ロビンソンとのNWF世界ヘビー級決戦も、10番勝負に入れたいところである。60分フルタイム戦って引き分け、猪木が2度目の王座防衛を果たした一戦は「これぞ名勝負」と語り継がれているが、残念ながら私は見ていない。
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