歌舞伎町近くの保育園、原発に負けない「米」づくり――自分の道を生きる7人
「日本でいちばん大切にしたい会社」の個人版。逆境に屈せず、周囲に流されず、自分の務めを果たしてきた普通の日本人7人の物語。
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第1部 他人のために生きる

1 眠らない街の小さな灯火

駆け落ちから始まった

 1983323日昼すぎ。東京は薄曇りだった。山手線の新大久保駅前にある喫茶店に片野清美さん64はいた。当時32歳。一番奥の席にボストンバッグ一つ携えて。

「さあて、今日からどうしたもんかねえ」と向かいの男性が腕を組む。6歳下の仁志さん。現在の夫だが、当時はまだ結婚していない。福岡県北九州市の実家には、前夫との子を3人置いてきた。小学校3年生と5歳と2歳。全員、男の子。前夜遅く、何も言わずに家を出た。駆け落ちだった。

 所持金は、九州の友人たちから借りてかき集めた11万円。新宿駅の荷物預かり所へ布団一組とトースター、ラジカセを送ってある。それが全財産。喫茶店のすぐそばにあった小さな旅館に15000円の宿を2泊分取ると、仁志さんが「住む部屋を探してくる」と出かけて行った。大学時代、東京に住んでいた彼はこの界隈に土地鑑があるらしかった。1時間ほどして戻って来ると、北新宿に部屋を見つけたという。2畳半一間で家賃9000円。布団を敷くのがやっとだが、贅沢は言っていられない。

 その晩、寝ていると揺り起こされた。「おい、仕事探しに行くぞ」。夜中の3時。当時はまだ個人商店が大半の、寝静まった大久保通りから5分も歩くと、ネオンの灯が無数に浮かぶ夜の街に出た。新宿歌舞伎町。煌々と照らされた通りを着飾った女たち、酔った男たちが行き交う。「ここで待ってろ。絶対動くなよ」と仁志さんは言って、どこかへ行ってしまった。池のほとりにたたずんでいると、次々と男が声をかけてくる。「仕事あるよ」「今から遊ばないか」。生まれて初めての東京で、いきなり放り込まれた巨大な不夜城に、ただただ圧倒された。

 仁志さんはクラブの厨房に仕事を見つけてきた。店は別々だが、ビルは隣どうし。「ホールには絶対出るなよ」と釘を刺され、働き始めた。厨房だから夜は食事が出るが、2畳半の部屋へ帰れば段ボール箱を机にして、ひたすらトーストを食べた。食パンはもう見るのも嫌になった。昼間はベビーシッターの仕事をした。北九州で保育士をしていたから自信はあった。そうして2人でがむしゃらに働き、5ヵ月で180万円貯めた。

「このお金で何をしたい?」。仁志さんに聞かれて即答した。「保育園!」。上京する時、ひそかに抱いた夢だった。

 838月、歌舞伎町から職安通りを渡ってすぐの、通りに面した雑居ビルの4階に「ABC乳児保育園」を開設した。24時間・年中無休にしたのは、歌舞伎町で働いて、夜の保育を必要としている母親がいかに多いかを知ったからだ。当時はベビーホテル全盛だったが、そこではベッドを並べて寝かせるだけ。目が行き届かず事故も多かった。夜でもちゃんと愛情をかけて育てる「保育」をしようと保育士を1人雇い、畳を敷き、ベッドを10台ほど置いた。壁には折り紙で作った季節の花や木々、動物たち。同じ階に雀荘がある、くすんだビルの一室を02歳児を迎えられる部屋にしようと、精いっぱい明るく飾った。

 しかし、赤ちゃんは一向にやって来なかった。駅前や周辺のアパートにチラシをまき、電柱にビラを貼って歩く日々が続いた。仁志さんも手伝ってくれた。2人は北新宿の2畳半を引き払い、保育園の向かいのマンションに移っていた。

 ようやく赤ちゃんを抱いた若い母親がドアを開けたのは開設から3ヵ月後。冬になろうとしていた。園児第1号は生後5ヵ月の女の子。嬉しくてたまらなかった。だがそれも束の間、「仕事を探すので夜12時まで預かってほしい」と出かけて行った母親は、その日戻らなかった。2日経ち、3日経ち……「お母さん、どうしちゃったんだろうねえ」と、思わず女の子の寝顔につぶやく。言ってから胸が締め付けられた。自分だって同じだ。九州の両親は途方に暮れ、息子たちの寝顔に言っているだろう。「お母さん、どこにおるんやろねえ」と──。

 32年前、片野さんの東京生活はそんなふうに始まった。同時に、日本で初めて行政が認可する24時間保育園となった「エイビイシイ保育園」の歩みも。

 園は最初のビルから何度か移転したが、現在も新大久保駅の近くにある。今や韓流ショップや焼肉店が鈴なりのコリアンタウンとなった大久保通りから少し外れれば、意外なほど静かな住宅街が広がっていて、その一角に自前の園舎を構えている。近くに分園と学童保育所があり、全部合わせて150人の子供たちを預かる。職員は50人あまり。

 その園舎の地下1階、乳児を預かる保育室の隣のスペースで、私は片野さんの話を聞いた。波瀾万丈というしかない半生を20年近く前、自著『「ABC」は眠らない街の保育園』に綴り、新聞や雑誌、テレビの取材もたびたび受けてきたせいか、語り口に臆するところがない。

「波瀾万丈とよく言われますけど、自分ではあんまりそう思わんでね。ようあんなことできたとは思いますけど。まあ若かったし、アホやったんやねえ」

 サバサバと明るい口調。過去の傷や痛みも包み隠さぬ率直さ。言葉の端々に交じる九州訛りも相まって、細かいことを気にしない楽天家の印象を受ける。親にとっては安心感があるだろうな。子を保育園に通わせる親の一人として、ふとそんなことを思う。

子供たちとの別れ

 片野さんは福岡の小倉市(現在の北九州市小倉北区)で生まれ育った。父は国鉄労働組合の支部委員長。母は国立病院の看護師で、夜勤や泊まり勤務がある多忙な人だった。幼い頃から2歳下の弟と一緒に保育園に預けられた片野さんの最初の記憶は、5歳頃のこと。1950年代、製鉄業が栄え、国鉄や大企業の工場も多かった小倉では保育園へ通う子供も少なくなかったが、夕方になると1人帰り2人帰り、最後は弟と2人だけになる。

「あの頃は5時すぎると、もう誰もおらんようになりましたからね。『かおるちゃん、お迎え来んね。でも、もうすぐやけんね』と弟に言いながら、自分も心細くてね。だいたい父が自転車でお迎えに来るんですけど、姿を見ると走って行って飛びついたもんです」

 放っておかれている寂しさを感じることもあったが、母も特別な時はそばにいてくれた。お祭りの日は薄化粧を施してきれいな浴衣を着せてくれ、授業参観があればいつも一番にやって来た。だから「ふだん忙しいのはしょうがない」と、どこかあきらめていたところもある。7歳下にもう一人弟が生まれて数年後、小学校も高学年になる頃には、弟たちの面倒を見るようになっていた。炊事や洗濯などの家事もこなした。

 といって、母は仕事ばかりしていたわけでもない。いつ頃だったか、家の向かいの母子家庭から突然母親が蒸発し、幼い男の子が2人取り残された。ふつうなら親戚に引き取られるか、児童養護施設に入るところだが、ある程度の年齢になるまで、片野さんの母がその子たちの面倒を見たという。そういうところのある人だった。

「今思えば母には母のポリシーや正義感があったんやと思います。ものすごく忙しい人やったけど、そんなふうにボランティアもするし、わたしの教育にも熱心で、手を抜くところがなかった。母親譲りの性格? それはあるかもしれんね」

 短大の保育科を卒業し、19歳で保育士の資格を取った。これも母の影響か、最初は児童養護施設に勤めたかったのだが、「養護施設はベテランしかおらん大変な職場やぞ。ましてや、おまえはかわいそうな子を見ると一緒になって落ち込むから向いてない」と周囲に言われ、地元の保育園に就職した。今につながる最初の一歩。子供たちはかわいく、仕事は充実していた。

「わたしは運動が好きやったから、子供たちとお散歩によう行きました。野原で花を摘んだり、川でメダカをすくったり、堤防を段ボールで滑ったり。保護者の方々にもかわいがってもらいましたよ。仲良くなると、タケノコや山菜を持ってきてくれたりしてね。

 ただ、なかなか大変な親もいてね。時間になっても迎えに来ないから子供を連れて家に行ってみると、お母さんがお金かけて花札やってるの。『ああ、先生悪かったね。子供はそこへ置いといて』なんて言いながら。別の子に同僚が過って軽いやけどをさせた時は、怒ったお父さんが木刀やチェーン持って園へ押しかけて来たこともあった。びっくりしたねえ」

 そんな保育士生活が始まって2年ほど経った頃、21歳で最初の結婚をした。実は当時、別の人と婚約し、式の日取りや新居まで決まっていたのだが、それを破棄して前夫のプロポーズを受けたのだった。幼なじみだった前夫を選んだ理由を片野さんは自著にこう書いている。「山本」が前夫、「Kさん」が元婚約者だ。

〈山本は親の愛情の薄い人だった。子どもの頃から、いつも私の家に入り浸っては、家族同様に食事をしたり、泊まっていったり、気心が知れていたこともある。可哀想な人だという同情もあったと思う。

Kさんは、私がいなくてもやっていけるしっかりした人だ。でも、この人は、私がいなければやっていけないんじゃないだろうか』

 そんな迷いのあげくに、私は山本を選んだ〉

 3人の子をもうけ、10年あまり続いたこの結婚生活が波瀾万丈の始まりだった。

 当初、会社勤めだった前夫は、次男が生まれると同時に「八百屋をする」と言って、トラックで行商を始めた。片野さんは保育園から帰ると、子供をおんぶしながら、みかんの袋詰めなどを夜中まで手伝った。だが、生活は苦しくなるばかり。もともと計画的に始めた商売ではないうえに、前夫は競艇狂いだった。ちょっと現金ができれば下関の競艇場へ飛んでいく。妻の着物や指輪を質に入れ、子供を連れて行くこともあった。それでも借金をして店を持つことになり、片野さんは7年間勤めた保育園を辞めて手伝うことになった。

 この頃のことをこう書いている。

〈『こんなに競艇が好きだとわかっていれば、この人となんか結婚しなかったのに』

 そう思っても後の祭だ。

 八百屋として出した店も、小倉から香春町、小倉駅前の京町商店街と、場所を変えていった。そのたびに私は、

『心機一転』

『心機一転』

 と、念じたが、山本だけは何も変わっていかなかった。

『私が頑張らなければ、子どもたちを食べさせていけない』

 そこで私は、朝は借りていたビルの清掃をし、昼間は子どもを背負いながら野菜の配達をしたり、御用聞きをしたりした。夜は、子どもが寝てからの12時から朝6時まで、焼肉屋の手伝いにも行った。とにかく働けるだけ働いた〉

 当然、家ではいさかいが絶えなかった。それでも競艇をやめず浪費を続ける前夫に抗議すると、手が飛んできた。片野さんも負けていなかったが、暴力は日に日にひどくなった。疲れ果てて3人の子供を連れ、実家へ帰った。

 仁志さんと出会ったのはそんな頃だった。8212月。友達と気晴らしに行った居酒屋でたまたま知り合ったのだが、若く前向きで、起業への夢を熱っぽく語る青年に惹かれていった。子供がいることを隠し、年齢も偽って付き合い始めた。出会って3ヵ月後、「東京へ行って会社をやる。一緒に行かないか」と誘われた。子持ちであることも、年齢のことも彼には見透かされていた。息子が3人いて、6歳年上と告白すると、さすがに驚かれたが……。

 それから1週間後。小倉駅の喫茶店で未明に待ち合わせた2人は、まず彼の実家がある大分の別府へ車で寄り、荷物をまとめて送ると、東京へ向けて早朝の電車に乗った。「ちゃんと自立できるまで、何があっても1年間は実家へ連絡しない」と約束していた。

 辛い話だろうが、その時の心境はやはり直接聞かざるを得ない。子供を置いて家を出るなどという決断をなぜできたのか。人生を取り戻すようなつもりだった?

「うーん、相当苦労して疲れてはいたけど、人生を取り戻すというのではなくて……それよりも、やっぱり彼に魅力を感じたんですよね。若くて、お金もなんもないのに、夢だけ持ってね。この人を支えたい、一緒に行きたいと思った。冒険したかったのかなあ、わたしも」

 別府駅のホームを出る時は子供たちの顔が浮かび、「ほんとうにこれでいいんだろうか」と迷った。新幹線が関門トンネルを抜ける時は写真を握り締め、涙が止まらなかった。それでも次々と変わる車窓の風景を眺めるうち、隣にいる仁志さんとの「冒険」に賭ける気持ちが強まっていった。

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1 眠らない街の小さな灯火 片野清美(エイビイシイ保育園園長)東京都新宿区(2)

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