「丸島さんが日本の特許の歴史を開いたんだよ」
特許で守り、特許で攻める。キヤノンの卓抜した技術力の背景には絶妙な特許戦略があった。キヤノン入社以降、特許一筋の人生を歩んだ丸島氏が語る。
← 左にスクロール
シェア ツイート

プロローグ

 一九六〇(昭和三五)年五月のある日、おおしもまるの工場で実習に励む一人の青年が突然人事部から呼び出された。彼は新人の配属が決まるのは七月と聞いていたので、一体何のことかと首をひねりながら廊下を歩いた。

 人事部で渡されたのは、一通の辞令だった。

「技術部特許課に配属を命ず」

 技術部まではよかった。三月に早稲田大学の電気工学科を卒業し、電気技術者を目指してキヤノンカメラ株式会社に入社したのである。技術部に配属されるのなら、もちろん本望だった。しかし「特許課」とはどういうことか。思わず青年は尋ねた。

「僕は技術屋です。どうして特許課なんですか」

「先月、急に二人退職してな。その補充だ。すまんが、しばらく辛抱してくれ」

 二一世紀最も成長が期待される、日本を代表するエクセレントカンパニーの一つ、キヤノン。そのキヤノンの根幹をなす世界規模の独自技術を、卓抜な特許戦略で要塞のように固め、わが国最強の特許マンと呼ばれたまるしまいちの、これが生涯の「仕事」との出会いだった。

 一九六八年キヤノンは、当時不可能といわれたゼロックス方式によらない普通紙コピーの技術を発表した。それは、世界を驚嘆させた産業界の一大事件であった。それを特許から支えたのが、丸島である。その後もキヤノンは、強力な開発陣が生み出す技術を特許で守り、あるいは特許で攻めるという独自の企業戦略で多角化を進め、急成長を続けた。

 もちろんキヤノンが特許だけで成り立つ企業でないことは、言うまでもないことである。しかし今日のキヤノンを支える大きな柱の一つを、丸島は確かに作り上げた。そしてまた同時に、丸島儀一という人物を作り上げたのは、キヤノンという企業であった。丸島とキヤノン、そして特許ビジネスという仕事。この三者が四〇年にわたって繰り広げてきたドラマは、日本の企業風土のなかでは極めてユニークなものに見える。それはさながら、絡まり合いながら旋回して上昇する、竜巻トルネードの運動のようである。このトルネードは実に興味深い行跡を残して、二〇世紀後半の産業界を巡ったのである。

 一九五〇年代にはいまだカメラ専業メーカーであった、キヤノンの奇跡ともいえる六〇年あまりの歴史に、丸島の展開してきたビジネスはどのような役割を担ったのか。企業戦略として特許を活用するとは、具体的にどのようなことなのか。昭和九年生まれの日本人が、朝からステーキを喰うアメリカのビジネスマンたちとどのように渡り合ってきたのか。そして私たち日本のビジネスパーソンは、特許あるいは知的財産権をどのように考え、仕事に生かすべきなのだろうか。

 実はいま、特許、発明、知的財産という言葉が私たちの周囲を飛び交っている。

 ノーベル賞級の発明によって企業に多額の利益をもたらした研究者が、報われぬ処遇や報酬に憤り、訴訟などの逆襲に出た事件は大きな話題となった。このとき巻き起こったわが国マスコミの論調は、本当に世界の常識なのか。

 アメリカがレーガン政権以来、世界を巻き込んで押し進めてきたプロパテント(特許重視)政策の本質とは何なのか。わが国はアメリカの政策に追随していくだけで本当によいのか。この問題について国家戦略の不在を嘆き、警鐘を鳴らす丸島の真意はどこにあるのか。

 インターネット時代を迎え、コンピュータとその周辺機器は標準化というあらたな課題に直面している。これまでいくつかの分野で優れた技術を持ち、世界シェアを握ってきたわが国IT業界も、いま重大な岐路に立たされようとしている。ここでの判断の過ちは、企業の存在そのものを左右すると言われているからである。果たしてこの問題は、個々の企業戦略で乗り越えられるのだろうか。それとも、あらたな国家戦略が求められているのだろうか。

 四〇年にわたり特許畑一筋に歩いてきた、元キヤノン専務丸島儀一が自らのビジネス経験を語りながら、日本企業を取り巻く知的財産戦略の課題について持論を展開したのが、本書の成り立ちである。特許を巡って世界のガリバー企業と闘ってきた男の背後には、私たちがこれまで気付かずにいた巨大な世界が見えるだろうか。

取材・執筆・構成 福井信彦

シェア ツイート
第一章 巨人ゼロックスとの闘い(1)

この作品では本文テキストのコピー機能を無効化しています

01