日本再生「劇薬作戦」の検証
国民の多くが熱狂した「郵政改革」とは何だったのか?改革以後の10年間の軌跡をたどり、その功罪を徹底検証。

1章 構造改革路線

宮沢内閣の郵政相

 小泉が二〇〇一(平成一三)年四月の総裁選で唱えた数々の主張の中で、本人が最も意欲を燃やしてきたのが年来の持論の郵政民営化であった。首相就任後に打ち出した「骨太の方針」でも、経済再生プランとして「規制改革と民営化による需要刺激」という言い方で、郵政民営化を改革プログラムの一つとして取り上げようとした。

 「郵政三事業の民営化について私が公に提言したのは、平成七年の自民党総裁選挙のときである」

 小泉は一九九九年一二月に民主党の衆議院議員だった松沢成文(後に神奈川県知事を経て参議院議員)との共著で出した『郵政民営化論』の冒頭で書き記している。

 九五年九月、小泉は党内や所属する三塚派の反対を押し切り、持論の郵政民営化の旗を降ろさずに総裁選に出馬した。相手は後の首相の橋本で、負け戦覚悟の選挙だったが、選挙戦では果敢に論争を挑んだ。

 「行政改革をやりますか。郵政民営化はどうですか」

 小泉は郵政民営化をアピールする絶好の機会ととらえ、勝敗を度外視して総裁選に名乗りを上げたのだ。

 四二年生まれの小泉は、六七年に慶応義塾大学経済学部を卒業してロンドン大学に留学した。

 六九年八月、衆議院議員だった父親の小泉純也(元防衛庁長官)が急死する。一二月の衆院選に後継候補として出馬したが、落選した。福田赳夫秘書を経て、七二年の衆院選に再挑戦し、初当選した。

 八八年、当選六回で厚相となる。九二年、宮沢内閣で郵政相として三度目の入閣を果たした。

 郵政民営化が持論の人物が郵政事業の本丸に大臣として乗り込んだのだ。「郵政大臣とは想像もしなかった」と小泉自身が驚いた人事だった。

 反郵政省の小泉になぜ郵政相のいすが回ってきたのか。

 宮沢政権は九一年一一月、竹下派の全面支援を得て誕生した。特に竹下派会長の金丸信(元自民党副総裁)と事務総長だった小沢一郎(後に民主党代表)の力を当てにした。そのために政権発足後の内閣と党の人事では竹下派の要求を全面的に受け入れた。

 ところが、九二年一〇月、巨額脱税事件で金丸が失脚する。直後の一二月の内閣改造で、宮沢首相は政権運営と人事で初めてフリーハンドを握った。

 そこで小泉は郵政相に起用された。郵政族のボスの金丸が政界を去ったのを見て、宮沢は主導権の確保を狙って、反郵政族の急先鋒だった小泉を郵政相に送り込んだのだ。

「改革派・小泉」のデビュー

 郵政省に乗り込んだ小泉はいきなり挑戦的な行動に出た。

 「今、引き上げる必要はない」

 就任が決まった一二月一一日の夜、報道陣に向かって言い放った。郵政省(後に総務省)が要求していた高齢者の少額貯蓄非課税制度(老人マル優)の限度額の三〇〇万円から七〇〇万円への引き上げについて、白紙撤回を打ち出した。

 「民営化を含めた郵便事業の見直しを多角的に検討するために行革審に相談したい」

 小泉は四日後、持論の郵政民営化論を持ち出した。

 臨時行政改革推進審議会は八六年六月の答申で郵便貯金の商品性の見直しを唱えて以来、郵貯見直しを提言してきた。小泉は行革審との連係プレーが視野にあった。

 小泉発言は郵政省と郵政族の猛反発を浴びた。そのとき、郵政政務次官の座にあった笹川堯(後に自民党総務会長)が辞表を提出した。笹川が振り返って顚末を語る。

 「郵政相に決まった小泉さんは新聞記者に『郵政省は解体するみたいな気持ちで乗り込む』と口走った。それで私は小泉さんに会って『みんなぶった切るって言ったら収拾がつきません』と言った。小泉さんも納得して、翌日の記者会見はスムーズにいった。ところが、夜、記者から『話が違う』と突き上げられて元に戻ってしまった。職員が三〇万人もいるのに、解体するような話だから、私も困って『ころころ変わる人にはおつきあいできない』と言って辞表を出した」

 郵政省は事務次官以下、そろって小泉に背を向けた。笹川が続ける。

 「老人マル優とか、そんな小さな話ではない。事務次官以下が辞表を出すという騒ぎになった。それでみんなを呼んで、私が辞表を出すから、君たちは粛々と務めてくれと説得した」

 小泉は郵政民営化について「将来は必要だが、私の在任期間にできる問題ではない」と割り切っていたようだ。

 宮沢内閣は選挙制度改革問題で立ち往生して九三年八月に崩壊する。小泉の郵政相在任期間もわずか八ヵ月足らずで終わった。

 一年後、小泉は政権を降りたばかりの細川、田中秀征と三人で、超党派の行政改革研究会という勉強会を作って活動を始めた。自民党の外で行動を起こした理由を、小泉はインタビューで説明した。

 「最初は自民党の中で民営化の運動をやっていたけど、あまりにも抵抗が強くて取り入れられないので、枠を広げて、細川さんや田中さんとやることにした。党内だけでは限界がある。党外に出て行って変化球を投げながら改革を進めていくということで始めた」

 小泉、細川、田中の連携は将来の政界再編をにらんだ動きではないかと注目を集めた。その点についても、九六年当時、小泉は否定も肯定もせず、含みを残した。

 「これがどういう形になるか分からない。政界は今、民営化について全部、反対だけど、ある日、一挙に全部、賛成に変わるのではないか」

 こんな予言を口にした。

 田中が振り返って語る。

 「行革を一緒にやろうと言って始めたけど、小泉さんは、会えばあらゆる機会に『財政投融資に関心がある』と言っていた。そこは全然変わっていない。非常に具体的で、郵便事業への民間参入を最初に言った。一石を投じるというか、議論をリードしようという気持ちがあった。あの人は絶対に逃げない。その場その場で対応の変わる人とは政策のテーマでは一緒にできない」

 小泉は九四年、経営評論家の梶原一明との共著で『郵政省解体論』という刺激的な表題の本を出している。翌九五年、総裁選に初出馬する。「改革派・小泉」のデビューであった。

竹下との地下水脈

 政権は羽田の後、村山、橋本と目まぐるしく交代した。橋本首相は九六年一〇月の衆院選を乗り切ると、小泉との論戦以来の懸案であった行革への取り組みを表明した。

 内閣直属の行政改革会議を設置して自ら会長に就任した。同時に、第二次内閣の組閣で厚相に小泉を起用した。

 橋本は「六大改革」の旗を立てて突っ走った。九七年九月、行革会議は省庁改革案の中間報告を取りまとめた。

 ここで郵政民営化に関して画期的な方向が打ち出された。三事業のうち、簡易生命保険は民営化、郵貯は早期民営化のための条件整備という方針が採用されたのだ。

 当時、橋本に直言できる立場にあった加藤寛(元慶大教授)が語る。

 「中間報告で郵政改革を打ち出すために、瀬島龍三さん(元伊藤忠商事会長)たちと一緒に、小渕恵三さん(後に首相)や森さんら、郵政の実権を握っている政治家を説得した。小渕さんたちは改革案を納得してくれた。橋本さんは『ここまでやれるとは思わなかった』と喜んでいた。これで行けると思ったんだが……」

 中間報告が出る五ヵ月前の九七年四月初め、竹下登(元首相)をインタビューした。竹下は自分から郵政問題を持ち出し、話を始めた。

 「郵政民営化問題だが、郵便事業は過疎地や離島の問題もあるので国営で行かなければならないが、郵貯と簡保は民営化する。全国を分割するのに、九つにするのがいいか、一一にするのがいいか、今、考えているところだ」

 郵貯と簡保の民営化に踏み出すのがいいと注目すべき主張を口にした。

 郵政民営化となれば、小泉が代表選手である。竹下に小泉との連携について尋ねると、「純ちゃんとも、ときどき話をしている」と打ち明けた。

 竹下と小泉は、表向きは政治的立場が相反しているかのように映った。小泉は加藤紘一(元自民党幹事長)や山崎拓(後に自民党副総裁)と「YKK」を組んで共同行動を取った。竹下派支配の打倒が共通目的の一つだったが、竹下とは地下水脈でつながっている部分があった。

 小泉は初当選から七年が過ぎた七九年一一月、大蔵政務次官となった。このときの蔵相が竹下だった。

 八七年一一月、竹下内閣が発足する。小泉は渡部恒三委員長(後に衆議院副議長)の下で自民党の国会対策副委員長となった。渡部が振り返った。

 「竹下内閣で消費税法案を通すとき、当時の安倍晋太郎幹事長(元外相。安倍晋三首相の実父)の強い推薦で筆頭副委員長を務めたのが小泉さんだった。消費税を通すために、朝早くから夜遅くまで、実によく協力してもらった。当時の国対委員長は与野党からいじめられたが、たった一人、私をサポートしてくれたのが小泉さんだった」

 その後、小泉は八八年一二月の改造で竹下内閣の厚相となり、初めて大臣のいすを射止めた。

 それだけではない。大蔵政務次官の時代、小泉は蔵相の竹下を会長に担いで自由経済懇話会という会を旗揚げしている。この会はアンチ郵政族の集まりだった。

 そのころ、小泉は自民党の郵政族の牙城である政調会の通信部会に乗り込み、郵貯問題で反対論をぶって注目を集めたことがあった。

郵政民営化だけは譲れない

 九七年九月、橋本内閣の行革会議の中間報告は、民営化の方向に踏み出す郵政改革案を打ち出した。ところが、日の目を見なかった。

 金丸の後に郵政族のボスとなった野中広務(当時は幹事長代理。後に幹事長)を始めとする族議員と郵政省の巻き返しにあった。

 一二月に出た最終報告では、郵政事業の国営維持、三事業一体の新型公社化、郵政職員の国家公務員の身分保障などが実現した。橋本内閣の厚相だった小泉は、郵貯の資金運用部への預託廃止と自主運用を条件に、しぶしぶながら閣議決定に署名した。

 翌九八年七月、小泉は厚相の最後に二度目の総裁選に挑んだ。だが、予想外の大敗を喫し、三位に終わった。

 「私を受け入れる自民党ではなかった。自民党の前途は暗い」

 ため息をついた。時間をかけて賛同者を増やしていくしかないと思った。

 数ヵ月後、小泉に援軍が現れた。「党派を超えて郵政民営化の勉強会を作りませんか」 民主党の松沢が呼びかけたのだ。九九年五月、小泉を会長とする超党派の郵政民営化研究会が発足した。

 事務局長を引き受けた松沢が経緯を述べる。

 「小泉厚相時代に予算委員会で質問した。『小泉さんは郵政民営化を言っているけど、橋本内閣の堀之内久男郵政相(元農林水産相)は民営化大反対と言っている。内閣の不一致ではないか』とやった。そのときに『もし新進党が郵政民営化の法案を作ったら、あなたは賛成しますか』と小泉さんに質問した。そしたら、『そんな法案が出てきたら、とても日本にいいことだ。自民党がどうであろうと、私は一人でも賛成する』と言い切った。そんな経緯があったから、研究会を、と誘った」

 誘いを受けた小泉は松沢に告げた。

 「議員全員に声をかけても、最初はおれとあんたの二人だけかもしれんぞ」

 だが、最終的に小泉と松沢を含めて一七人が参集した。党派別の内訳は自民党二人、民主党一〇人、改革クラブ二人、自由連合、参議院の会、無所属が各一人であった。

 二〇〇一年四月、小泉は森首相退陣を受けて行われた総裁選に三度目の出馬を決めた。ところが、持論の郵政民営化について、応援団の二人の人物が注文をつけた。

 一人は森である。松沢らの郵政民営化研究会でチューターを引き受けた東洋大学教授の松原聡が明かした。

 「総裁選の最中に、森首相とのやり取りで、森派が一致団結して応援するために、補正予算など、森政権の政策を全部、継続するという話になった。それから郵政公社も認めると……」

 もう一人は、小泉の総裁選出馬の立て役者だった田中眞紀子であった。最初、小泉は出馬に消極的で、一度、見送りを決めていたが、最大の応援団長の田中が強く促して翻意させたのである。

 田中とともに小泉擁立に一役買った自民党の平沢勝栄(衆議院議員)が証言する。

 「小泉さんに出馬を迫ったとき、眞紀子さんが言ったのは、『派閥を出なければ応援できない』と『郵政の民営化ばかり言いなさんな』ですよ。山村、へき地の郵便局もある。『郵便局の民営化ばかり言う小泉さんではなく、もうちょっと大きな視点から国民に訴えたほうがいい』と小泉さんに言った」

 小泉はどう返答したか。

 「ほかはともかく、派閥を出て無派閥になる。二度と派閥には戻らない」

 派閥離脱は了承したが、郵政民営化だけは譲らなかった。

第1章 構造改革路線(2)

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