「平成流」とはなんだったのか
平成とは天皇制の新たなスタイルが確立された時代だった。日本中をくまなく訪ね歩き、自らの思いを国民に直接語りかけてきた天皇明仁と皇后美智子。二人が生み出した「平成流」は退位後も受け継がれていくのか。

1章 「おことば」を読み解く──現在編

1 「おことば」の背景

「譲位は何度もあった」

 天皇明仁は、「おことば」が発表される約二〇日前の二〇一六年七月、学友の明石元紹もとつぐと電話でやりとりを交わしたとき、こう話していました。

 今度の(退位の)話については、僕は随分前から考えていた。天皇の在り方は歴史上いろいろな時代があった。特に明治以前の天皇については途中で譲位をしたり、いろんな形でいらした天皇はたくさんいる。それが、いろんな結果を生んだのは確かだ。けれど、譲位は何度もあったことで、僕が今、そういうことを言ったとしても、何もびっくりする話ではない。(『京都新聞二〇一六年一二月一日

 序章で明治以降、天皇の退位はなかったことを述べました。しかし天皇明仁は、「明治以前の天皇については途中で譲位をしたり、いろんな形でいらした天皇はたくさんいる」と発言しています。退位の意向を表明した「おことば」の背景に、「譲位は何度もあった」明治以前の天皇の歴史があったことがわかります。

 具体的に見てみましょう。

 宮内庁ホームページにある「天皇系図」や「歴代天皇陵一覧」を見ると、初代神武から一二四代昭和まで、歴代天皇にすべて番号が振ってあります。天皇明仁は一二五代ということになります。ただし北朝の五人の天皇はカウントされていません。

 九八代の長慶天皇(一三四三~一三九四)の実在が確認されたことで、すべての代数が確定したのは大正最後の年に当たる一九二六(大正一五)年でした。宮内庁はいまもそれに従っています。しかし今日の学界では、二六代の継体以前の天皇、正確に言えば大王おおきみは、古代中国の歴史書に登場する倭の五王のうちの武に比定される雄略を除いてはっきりせず、多くはフィクションの可能性が高いとされています。ここでは便宜上、実在しないと見られる天皇も含めて二六年に確定した代数を用いることにします。

 『日本書紀』によると、初代神武から三四代舒明じょめいまでは全員が終身在位です。けれども三五代の皇極こうぎょくから一一九代の光格までは、半数以上に当たる五八人、南北朝時代の北朝を含めれば六三人が退位しています(三五代皇極と三七代斉明、四六代孝謙と四八代称徳は同一人物ですが、ここでは別々に数えています)。つまり天皇明仁が述べた通り、飛鳥時代(七世紀前半)から江戸時代(一九世紀前半)までは、退位が当たり前だったのです。

 四一代の持統からは、退位すると太上天皇となります。上皇とは、この太上天皇の略称にほかなりません。奈良時代(八世紀後半)の孝謙から江戸時代(一八世紀前半)の霊元までの間には、北朝の天皇を含めて出家する上皇も三五人いました(『皇室制度史料 太上天皇三、吉川弘文館、一九八〇年)。平安時代(九世紀後半)の宇多から江戸時代の霊元までは、出家すると法皇と呼ばれるようになります。

式年祭に際しての講義

 それにしても、なぜ天皇明仁は「譲位は何度もあった」という認識をもつことができたのか。一九七七(昭和五二)年一二月一九日の会見で、皇太子明仁は学習院中等科、高等科時代に歴史学者の児玉幸多こうた一九〇九~二〇〇七)から天皇の歴史につき学んだと述べています(薗部英一編新天皇家の自画像 記者会見全記録、文春文庫、一九八九年)。さらにさかのぼれば、学習院初等科時代にも鈴木弘一こういち一九〇〇~一九八九)から天皇の歴史につき学んでいます(『読売新聞二〇一八年一二月一七日)。

 しかしそれ以上に重要なのが、歴代天皇の区切りのよい命日に行われる式年祭の直前に必ず設定される講義です。専門の学者を宮中に呼び、式年祭の対象となる天皇について学ぶのです。これは宮内庁のホームページに出ています。

 ホームページによると、天皇明仁は即位して以降、宮内庁が歴代天皇に含めていない北朝の天皇(後円融、崇光)も含めて、以下のような天皇の講義を受けています。このうち、退位した天皇には傍線をつけてあります。

 一九九〇年 七月二六日 成務
 一九九一年 一月 五日 安寧
       三月 五日 円融
 一九九二年 四月二八日 後白河
      一二月 七日 崇峻
 一九九三年 二月 二日 正親町
       六月 七日 後円融
 一九九四年 八月一七日 長慶
 一九九六年一一月二九日 明正
 一九九八年 二月 四日 崇光
       九月 一日 仁賢
 一九九九年 二月 三日 仁徳
 二〇〇三年 一月一四日 持統
       五月一六日 開化
 二〇〇四年 八月一九日 後深草
 二〇〇五年 四月二七日 履中
       九月二六日 亀山
 二〇〇六年 四月 五日 桓武
      一二月一一日 武烈
 二〇〇七年 七月 二日 文武
       八月一三日 堀河
 二〇〇八年 三月一三日 花山
       八月一八日 孝昭
       九月一一日 後二条
 二〇〇九年一二月二四日 東山
 二〇一〇年 二月 八日 反正
       二月一六日 孝安
       三月一八日 応神
 二〇一一年 七月二五日 一条
 二〇一二年 一月一一日 冷泉
 二〇一三年一二月一三日 後桜町
 二〇一五年 三月二九日 神武
 二〇一七年 六月 七日 三条
       九月一一日 後陽成
      一〇月一〇日 伏見

 初代神武から一二四代昭和まで一二二人、北朝を含めれば一二七人の天皇がいることになっているわけですから、ほぼ毎年のように歴代天皇の式年祭があることがわかります。そのたびに、専門の学者から詳しい講義を受けているのです。

 二〇一八年二月二三日の誕生日を前に、皇太子徳仁は記者会見でこう述べています。

 昨年は、三条天皇、伏見天皇、後陽成天皇の三方の歴代天皇が崩御されてから、それぞれ、一〇〇〇年、七〇〇年、四〇〇年という年に当たり、式年祭が行われた関係で、各天皇の御事蹟を伺う機会があったほか、秋に訪れた醍醐寺では、後奈良天皇を始め、多くの宸翰しんかんを拝見することができました。(宮内庁ホームページ

 「各天皇の御事蹟を伺う機会があった」のは、皇太子だけではありません。天皇、皇后もそうです。天皇明仁は、皇太子時代を含めれば何十年にもわたって式年祭の直前に歴代天皇に関する講義を受け続けることで、多くの天皇が退位しているという史実をしっかりと把握するようになったのではないでしょうか。

明治以降の法制化

 序章で触れたように、一八八九(明治二二)年に制定された旧皇室典範の第一〇条には、「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」とあり、天皇の終身在位を正式に規定しました。実際には光格の次の仁孝から終身在位の天皇が続いていましたが、それを近代の法によって初めて規定したのが旧皇室典範でした。

 井上毅(一八四四~一八九五)が起草し、伊藤博文著の形をとる大日本帝国憲法と旧皇室典範の逐条解説書『帝国憲法皇室典範義解』(国家学会、一八八九年)には、旧皇室典範第一〇条につき、次のように解説されています。

 神武天皇ヨリ舒明天皇ニ至ル迄三十四世かつテ譲位ノ事アラス譲位ノ例ノ皇極天皇ニ始マリシハけだし女帝仮摂ヨリ来ル者ナリ(中略)聖武天皇光仁天皇ニ至テ遂ニ定例ヲ為セリ此ヲ世変ノ一トス其ノ後権臣ノ強迫ニリ両統互立ヲ例トスルノ事アルニ至ルしこうシテ南北朝ノ乱また此ニ源因セリ本条ニ践祚ヲ以テ先帝崩御ノ後ニ即チ行ハルヽ者ト定メタルハ上代ノ恒典ニ因リ中古以来譲位ノ慣例ヲ改ムル者ナリ

 神武天皇から舒明天皇までは譲位がなかった。女帝である皇極から譲位が始まったが、それはあくまで「仮摂」、つまり中継ぎの摂政だった。ところが聖武や光仁以降、男性も譲位することが「定例」となり、鎌倉時代には持明院統と大覚寺統が交互に皇位につく「両統互立」が常態となって南北朝の動乱を招いてしまった。譲位は本来の姿でないのだから、もう一度「上代ノ恒典」、つまり原点に戻って、七世紀の中古以来、譲位が行われるようになった慣例を改めるのだと述べています。

 東アジアのなかで見ると、中国の歴代王朝をはじめ、中国の影響下にあった朝鮮王朝や琉球王国は、いずれも皇帝や国王が終身在位するのが原則でした。退位を繰り返す日本の天皇制は、むしろ例外でした。天皇の終身在位を定めたことは、終身在位が続いた三四代までの時代に戻すだけでなく、天皇が在位している間は元号を変えない一世一元の制とともに、中国にならったと見ることもできます。

 終身在位の規定は戦後も受け継がれました。皇室典範の第四条「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」がそれです。日本国憲法の第二条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と皇室典範の第四条を根拠として、戦後の政府は天皇の退位は認められないと解釈してきました。

昭和天皇と退位問題

 敗戦直後の昭和天皇は、退位すべきかどうか迷っていましたが、マッカーサーの意向で退位を封印されます。 昭和天皇の退位問題については、すでに前掲『昭和天皇』『「昭和天皇実録」を読む』に記しています。ここでは、一九六〇年代から七〇年代にかけて昭和天皇が退位を否定した発言だけを見ておきたいと思います。

 一九六七(昭和四二)年四月五日、侍従長の稲田周一(一九〇二~一九七三)に対して「占領期の退位問題について御回顧」になり、「御退位の意思がなかった理由」を挙げています(『昭和天皇実録同日条)。六八年の四月二四日も再び稲田に、「御退位の意思がなかった理由」を挙げて、退位の意思をきっぱりと否定しました(『昭和天皇実録同日条)。つまり、これだけを読むと、まるで昭和天皇は最初から退位などは考えたこともなかったかのように見えます。

 一九七一年の訪欧中に退位の噂が流れますが、外国人記者の質問に対して「日本の憲法及び皇室典範においてその規定はないと思うので、そういうことはないと信じている」と答えています(『昭和天皇実録七一年一一月一六日条)。訪米を控えた一九七五年九月二二日にも、米国メディアの在京外国人記者から退位について聞かれますが、「憲法や他の法律が認めていないので考えたことがない」と繰り返し述べています(『昭和天皇実録同日条)。

 つまり一九六〇年代以降、政府も昭和天皇も、退位については現行の皇室典範や憲法を根拠に、繰り返し否定してきたわけです。天皇明仁は「おことば」を通して、こうした考え方をさらに否定したことになります。

「おことば」と勅語、詔書

 一般に天皇のおことばというのは、明治から昭和初期までの勅語や詔書に相当します。これは、天皇が国民に向かって直接語りかけるものです。ただ、明治から昭和初期にかけては、天皇は基本的に公共の空間で多くの臣民に向かって語るべき言葉を持ち合わせておらず、勅語や詔書もめったに発せられないものでした。

 そのなかには、帝国議会の開院式に際しての勅語のように毎年恒例のものもありますが、一回限りのものもあります。前掲『「昭和天皇実録」を読む』でも触れていますが、一回限りの場合には重い意味を持ちます。

 一回限りの勅語や詔書で有名なものとしては、一八九〇(明治二三)年一〇月三〇日に発布された「教育勅語」があります。これは三一五字です。それから、一九四五(昭和二〇)年八月一四日に作成され、一五日にラジオで放送された、いわゆる「終戦の詔書」もこの例と言えるでしょう。これは本文で八〇二字、原盤で四分三〇秒になります。天皇が詔書を朗読し、ラジオを通して臣民に直接語りかけたのは、もちろんこれが初めてでした。

 国会開会式では、帝国議会の開院式同様、天皇が毎回恒例のおことばを読み上げます。日本共産党は、この点を問題とし、開会式に欠席し続けてきましたが、二〇一六年一月の開会式から出席するようになりました。八月一五日にも天皇は、全国戦没者追悼式でおことばを述べます。これは、昭和天皇の時代に一九六三年から始まり、平成になっても受け継がれたものです。

 恒例のおことばの場合でも、多少の変化が起こることがあります。

 例えば阪神・淡路大震災発生直後に当たる一九九五(平成七)年一月二〇日の国会開会式では、「地震による被害は、きわめて甚大であり、その速やかな救済と復興は現下の急務であります」と述べたことがありました。また戦後七〇年にあたっての安倍談話が発表された翌日に当たる二〇一五年八月一五日の全国戦没者追悼式でのおことばでは、「積極的平和主義」を強調する安倍談話に対抗するかのように、今日の平和が「平和の存続を切望する国民の意識」によって支えられてきたという一節が加わりました。平成最後となった二〇一八年八月一五日の全国戦没者追悼式のおことばでは、「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」という新しい表現が盛り込まれました。前侍従長の川島裕によると、こうしたおことばは天皇明仁と皇后美智子が「様々なやり取り」をしつつ準備するようです(川島裕・保阪正康両陛下最後の815文藝春秋二〇一八年九月号所収)。

 平成になってからの一回限りのおことばの例としては、東日本大震災が起こった五日後にあたる二〇一一年三月一六日にビデオメッセージとしてテレビで放送された「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」が有名です。これは五分五六秒でした。本章で取り上げる二〇一六年八月八日の「おことば」は一一分二秒もあり、今までで最も長いものです。

第1章 「おことば」を読み解く――現在編(2)

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