「あまり厳しくやると白川総裁は辞任するぞ」
水面下でうごめく当局者たち
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1章 解 散

二〇〇九年九月に発足した民主党政権はピンチに立たされていた。総選挙があれば自民党の勝利はほぼ確実とみられ、衆議院解散もタイミングの問題というところまで追い詰められていたのだ。霞が関の官僚機構は選挙後の展開を見通してかなり早い段階から自民党への接触を始めていた。現代日本の議院内閣制の下で、政権与党ではなく、野党の首脳たちのところに足しげく通う官僚たちは、政治的中立性よりも自らの政策実現を重視していた。

突然の宣言

 国会の委員会室は満員だった。

 二〇一二年一一月一四日。午後三時から始まったのは国家基本政策委員会合同審査会、いわゆる党首討論だ。

 衆議院の解散を明言しよう──。テーブルを前に、首相の野田佳彦は心に決めていた。

 政治情勢は緊迫している。解散を求める自民党に対し、消費税引き上げをめぐり党内が混乱に陥っていた与党・民主党は防戦一方だった。

 野田は解散の時期を「近いうちに」とまで譲歩したが、野党の攻勢は続いた。この日の党首討論もその問題が大きなテーマになることは、会場にいる者すべてが理解していた。

 もちろん野田も漫然と日を過ごしていたわけではない。ずっと解散の機会をうかがいながらタイミングをはかってきた。決断は数日前だ。

 赤字国債の発行根拠となる特例公債法案が国会を通過せず、予算のやりくりも限界に近づいていたが、ここにきて法案成立への展望も開けてきた。尖閣諸島を国有化したことに端を発した中国の反日暴動も何とか鎮静化した──。そういう諸々のことを考えての決断だったと野田は言う。党首討論は、自らの決断を伝える絶好の場だ。

 野田によると、この日解散を宣言することを知っていたのは、輿こしいしあずま・民主党幹事長、岡田克也・副総理、藤村修・官房長官の三人だけだったという。

 首相には各省庁からの出向で秘書官がつく。彼らはこのとき自分たちのボスがこの場で何を言おうとしているのか、つかんでいなかった。三人以外の民主党幹部たちも、ましてや討論相手の自民党もまったく知らない。

「これより国家基本政策委員会合同審査会を開会いたします」という声を合図に始まった討論は、拍手と歓声、そしてヤジが飛び交うものとなった。

 自民党総裁の安倍晋三は「一日も早く国民に信を問え」「この混乱した状況に終止符を打つべきだ」などと迫り、対する野田は「一票の格差と議員定数削減の実現を約束してもらえば、具体的に提示する」と応じた。

 消費税引き上げをめぐっては、その年の六月に、民主、自民、公明による「三党合意」ができている。同時に、国民に負担をお願いするなら国会議員にも身を切る改革が必要ということで、定数削減などが議論されていたのだ。

 その間も双方のヤジは激しさを増し、野田も安倍も声を張り上げなくてはならなかった。終盤に差しかかったとき、野田はこう言った。

「一六日に解散してもいいと思っております」

 一同はこの一言に耳を疑った。一六日といえば翌々日だ。野田の後ろで、今首相は何を言ったのかと隣に確認しようとする民主党関係者の姿もみられた。しかし討論相手の安倍は議員定数削減の話で応じるなど頓珍漢な対応。「なんでピンとこないのかな」と思った野田は、もう一度「一六日に解散をします」と語気強く言い切らねばならなかった。

「今、総理、一六日に選挙をする、それは約束ですね。約束ですね。よろしいんですね。よろしいんですね」

 慌てた安倍の対応がどうあれ、解散・総選挙の実施が確定した。

 このころ、解散は時間の問題だと思われていた。しかし、どの世論調査をみても、いま選挙をやれば民主党は負けると出ている。まさかこのタイミングでと誰もが意表を突かれた。

 野田の秘書官だった官僚はこう振り返る。

「まったく予想外だった。えっ、という感じだった」

 解散表明のニュースはあっという間に霞が関にも伝わった。財務省では事務次官の部屋に幹部たちが集まってきた。テレビでみていた官僚もいれば、外出先から呼び戻された幹部もいた。そのうちの一人は、「わらわら」と古典的な言い回しでそのときの様子を表現した。

 選挙の結果次第では予算編成時期が大きな影響を受けるだけでなく、政権政党が代われば編成方針も見直しが必要になってくる。事務次官の真砂ま な ごやすし、主計局長の木下やすらは情勢を分析し、対応を協議した。

 外務省も大慌てで情報を収集した。保守的といわれる安倍が首相の座に就けば、中国や韓国などとの外交にどう影響が出るのか、各局は地域政策についての再検討を行い、幹部会議でプレゼンテーションするよう要求された。ちょうど二〇一三年は中国、韓国などで首脳が交代時期を迎え、米国のオバマ政権も二期目を迎える。日本の首相が交代すれば変数が増え、方程式は複雑になった。

 選挙があれば政権交代は確実だとして、ほかの省庁でも準備が怠りなく進められた。省庁再編により様々な案件を抱え込んでいた内閣府でも、総選挙が確定した後、事務次官の松元たかしが幹部会などで「引継ぎが生じる場合は抜かりないように」と話をした。

 ただ、どこの省庁も選挙のタイミングはもう少し先だと思っていた。「年明け」「来春」など様々な憶測が飛び交っていた。

「少なくとも民主党内では来年春に予算が上がってからと思っている議員が多かった。そういう情報を聞いていたので、野田首相の決断は意外だった」

 財務省の高官がこう振り返るように、一一月一四日の解散宣言は多くの驚きを呼んだ。しかし、官僚組織がどう反応しようが、事態は大きく動き出していた。

目立つ経産省

 もともと霞が関の官僚たちは民主党政権に対して良い感情をもっていなかった。初期の「事業仕分け」もそうだし、政務三役ですべて決めていくという形で役人を排除する姿勢には多くの関係者が違和感を抱いていた。それは、のちに首相になった菅直人が「官僚主権から本来あるべき国民主権へ」(『大臣 増補版』岩波新書、二〇〇九年)と書いた理念の実行だったのだが。

「うんざりしていた。おれにやらせろと微妙な交渉に首を突っ込んでくる。格好をつけたがってどんどん外部に漏らすので、情報をすべては上げられなくなってしまった」と、ある外務官僚は話す。また財務省の幹部も、「民主党に飽き飽きしていたというのが、霞が関の正直な感覚だろう」と話す。

 いずれにしても、一一月一四日の野田発言を受けて、一一月一六日解散、一二月一六日投開票と、その日のうちに日程は決まった。与野党の政治家たちは選挙区に戻り「清き一票を」と声を張り上げねばならない。

 官僚機構は違った。選挙では自民党が大勝するだろうという予測のもと、準備を加速させた。

 彼らは早い段階から「解散はそう遠くない」とみて、静かに波立っていた。

「有権者は民主党に再び政権を任せるだろうか。答えは明らかにノーだ。それは世論調査をみても明らかだし、政治家たちから入ってくるきめ細かな情報も自民、政権復帰を示していた。もちろん解散のタイミングはわからない。年明けの可能性が大きい。しかし、自民党勝利が確定してから動き出しては遅いと思っていた」と、ある省庁の次官経験者は話す。

 この時期での野田の決断は意外だったが、「早期解散」の予想が外れたわけではない。有力官庁は動き始めていた。新しくできる政権──よほどのことがない限り、それは自民党総裁である安倍を首班としていただくことになるが──の政策に自分たちの意思を反映してもらうために。

 特に目立ったのは経済産業省だ。しかし動いたのは事務次官や官房長などではなく、このとき製造産業局長だった菅原いくろうら特定の幹部たちだった。

 経産省には危機感があった。国民が政権交代を選択した二〇〇九年以降、民主党政権が経産省の基本政策と合致するところはあまりなかった。

 ある幹部はこんなシーンを覚えている。「あなたたちの成長戦略とは何か」と聞かれた民主党の幹部の一人が「子ども手当だ」と答えた。

「これは分配の政策だ。民主党内に成長戦略はなかった。円高は仕方がないとか、成長は不要だなどという意見もあり、日本の産業にとってマイナスの影響が拡大していった」

 当時経産省は、円高、高い法人税率などを「六重苦」と呼んでいた。これらが日本の産業を傷つけているのだと。自民党も医師会や農協など利害関係者とのしがらみで規制改革に踏み切れなかったが、民主党はもっと頼りにならない──。こんな思いが経産省には広がっていた。

 皮膚感覚で危機感を覚えたのは産業の空洞化だった。統計を調べると、二〇〇七年度から一一年度までの輸出は二一兆円を超える額で減少していた。急激な円高により、成長するアジア市場で競争力が失われているとみられた。経産省の幹部はこう話す。

「民主党に対する期待が幻滅に変わるのにそう時間はかからなかった。成長に関心は薄いし、改革もできないし、TPP(環太平洋連携協定)もやれない。一部には成長論者もいたが、広がらなかった」

 彼らは九月の自民党総裁選挙で安倍が勝利した前後から関与を本格化させた。自民党本部や議員会館の自民党幹部の部屋に出入りする経産官僚の姿がよく目撃されるようになるのは、このころからだ。

再生本部と諮問会議

 自民党も早くから動き出していた。早期解散を求めながら、同時に、選挙がいつあってもいいように政策づくりを急いだ。特に安倍が九月の総裁選で公約に掲げた「デフレ脱却と成長力の底上げ」の具体化は急務だった。

 本来は政権奪還後に設置するはずだった「日本経済再生本部」も前倒しで党内に設置、一〇月二四日に初会合を開いた。安倍が本部長、総裁選挙で安倍の選対本部長を務めた甘利明が本部長代理、そして茂木敏充が事務総長に任命された。茂木は総裁選挙で安倍と戦った石原伸晃の参謀を務めていたが、「放っておくのはもったいない」として引っ張り出された。

 経産官僚たちは、この「再生本部」の場を利用して「縮小均衡の分配政策から成長による富の創出」とか「失われた国民所得」などといった表現を、政治家たちに献上した。政調会長として政策全般を取り仕切る甘利が「産業投資立国」という表現を主張するなど、自民党側もそれに応じた。

 キャッチボールをしながら、経産官僚たちは「成長重視」の甘利たちとの親和性を感じていた。ある幹部がこう話す。

「甘利さんがよくこう言っていた。自分は政治家として分配政策には関心がない、富をつくることが政治家の役割だと思っている、と。これは僕たち経産省の本質にかなり近い」

 民主党政権が続いているときではあったが、来たるべき総選挙、そしてその後の政権復帰を視野に入れ、経産省官僚のゲリラ的な支援を受けつつ、甘利を中心とする「成長重視派」は「日本経済再生本部」の基本方針を固めていった。この方針が選挙後には第二次安倍政権の経済政策立案の中核に位置づけられることは、関係者がみな確信していた。

 経産省の狙いは日本の産業競争力をどう復活させていくかだった。そのためには様々な政策が必要になるが、何らかの「場」をつくり、そこで方向性を打ち出してもらうというのは非常に便利なやり方だ。それは、たとえば小泉純一郎政権のときに有効活用された経済財政諮問会議のようなものだ。

 この会議は二〇〇一年に内閣府設置法を根拠につくられ、小泉時代ここでの議論が政策策定への近道となった。この場を司令塔にして課題を明確化すれば、政権の求心力を高められる。

 民主党政権下でまったく活用されず、休眠状態だった諮問会議は、しかし、経産省にとって「政策を打ち出す場」としては使い勝手の悪いところだった。この会議の事務局的な仕事は内閣府が所管している。しかし、その後ろには財務省の影がはっきりと見える。

「諮問会議を復活させるのはいいが、あそこは実質的には財務省のコントロール下にあるとみていた。そんなところに法人税減税の議論を預けたら前に進まないと考えた」

「もう一つは、諮問会議でどこまで競争力強化が図れるかということだ。諮問会議は財政や金融にも話が及ぶ。競争力の問題を考えれば諮問会議は完全ではなかった」

 この問題に関与した経産省の官僚はこう振り返る。

 そこで考えたのは、新たな場をつくることだった。それが日本経済再生本部だ。諮問会議が使えないなら、新しく別の組織をつくればいい。そこで様々議論していけば、というわけだ。

 一方、諮問会議を復活させずに再生本部だけにすると、そこには必ず財務省も入ってくる。しかも全力で主導権をとりにくる。それでは意味がない。

 財務省を諮問会議に閉じ込めておこう──。経産省の幹部官僚たちを中心とした「別働隊」は、諮問会議・再生本部並立型の方向で話を進めることにした。

 第一次政権時代に内閣広報官を務めた長谷川榮一も諮問会議再開を進言した。安倍が首相を辞した後も付き合いを続け、厚い信頼を得ていた長谷川は経産省出身。

「日銀総裁をわざわざ官邸に呼びつければ面倒です。諮問会議なら日銀総裁もメンバーだし定期的に会えますよ」

 安倍はこんなアドバイスに耳を傾けた。

 また、長谷川は「経済を重視するべきだ」と忠告した。二〇一一年三月の東日本大震災直後には、安倍を私邸に訪ねて震災からの復興を説くと同時に、「美しい国もいいけれど、打ちひしがれた日本を立て直さないと憲法改正と言ってもだめ。やはり経済をやらないと。そしてそれを発信する必要がある」と話した。

 長谷川は、安倍が自民党総裁選挙出馬を決める直前にも助力を要請され、第二次政権発足後は政策企画担当の首相補佐官に就任。さらに内閣広報官も兼務するようになった。

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第1章 解 散(2)

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