イスラーム国すら、殺戮の残忍さゆえに手を焼く武装組織
世界中で無差別テロを繰り返すイスラーム国(IS)すら、殺戮の残忍さゆえに手を焼く武装組織、それがナイジェリア発のボコ・ハラムだ。ISを上回る犠牲者を出し、女性や子供に自爆を強いる残虐な手口から、史上最悪のテロ組織と言われる。彼らはいかに生まれ、拡大したのか。何が目的なのか。謎に覆われた実態に迫る。

1章 女子生徒集団拉致事件の衝撃

事件の発生

「ナイジェリア北東部ボルノ州の学校で14日、イスラーム過激派組織『ボコ・ハラム』の重武装集団が、女子生徒100人以上を拉致する事件があった。治安筋や目撃者らが15日、明らかにした」

 時事通信社がフランスのAFP通信の報道を転電する形でこのような記事を配信したのは、日本時間の2014416日早朝のことだった。後に世界中のメディアが飛びつくことになった女子生徒集団拉致事件が発生したのは、現地時間の414日深夜から15日未明にかけての時間帯である。ボルノ州のチボクという町にある公立の中高一貫制女子校の寄宿舎を武装集団が襲撃し、寄宿舎内にいた多数の女子生徒をトラックに押し込めてどこかへ連れ去った。記事にある通り、当初は拉致された生徒の数が分からず、第一報では単に「100人以上」となっていた。

 被害者の正確な数は、本書執筆時点の176月においても完全には特定されていない。人数については諸説あるが、276人が連れ去られたという説が比較的有力である。このほかにも連れ去られたのは234人という説もあるが、国際人権団体などの調査を総合すると200300人の間であることは間違いなさそうで、被害者の年齢は1618歳の間とみられている。

 ナイジェリア政府との水面下の交渉に応じたボコ・ハラムが1610月に21人、175月に82人を解放するという明るいニュースもあったが、残りの被害者の安否や居場所については、残念ながら信頼に足る情報がない。日本のように、たとえ巨大地震によって万単位の犠牲者が出るような事態でも、警察や行政機関によって犠牲者数を正確に記録することが常識の国では想像もつかない事態だが、これがナイジェリアという国の現実であることを最初に押さえておきたい。

 女子生徒たちが連れ去られた直後、犯行声明は出なかったが、章冒頭の記事の中に「『ボコ・ハラム』の重武装集団」と明記されていることが示しているように、現地の事情に通じている人々の間では、ボコ・ハラムの犯行であることは火を見るより明らかであった。事件のあったボルノ州では既にこの4年ほど前から、ボコ・ハラムによる住民襲撃や拉致事件が相次いでいたからだ。

女子生徒の救出を求める世論

 ボコ・ハラムによる民間人を標的にした拉致や殺害の頻度が著しく増加し、ナイジェリア国外でも多少はその名が知られるようになったのは、10年から11年にかけてであった。019月に発生した米国同時多発テロ911テロ)後に世界規模の「テロとの戦い」を主導してきた米国では、連邦議会の下院国土安全保障委員会の対テロ・情報小委員会が1111月に、ボコ・ハラムに関する調査報告書を公表している。

 手前味噌で恐縮だが、筆者はボコ・ハラムに関する論考を日本国内で早い時期から発表していた数少ないジャーナリストだった。その私が、新潮社の国際情報ウェブサイト「Foresight(フォーサイト)」に「ボコ・ハラム」という解説記事を初めて執筆したのは、米議会の調査報告書が公表される9カ月前の112月のことだった。執筆を思い立ったきっかけは、前年の12月のクリスマスイブに、ナイジェリア国内でキリスト教会が襲撃され、犯行声明を出した組織が「ボコ・ハラム」だったからである。この教会襲撃事件については後に詳しく説明するが、筆者はその主張を聞き、彼らがイスラーム武装主義組織の一つではないかと推測した。彼らの登場により、それまでジハード・テロ組織とは比較的縁のなかったナイジェリアを中心とする西アフリカ地域にテロが拡散していく予兆を感じずにはいられなかった。

 だが、当時、先進諸国でボコ・ハラムの動向に関心を抱いていたのは、テロ対策に当たる情報当局者、研究者などの専門家に限定されていた。日本のメディアは全く関心を示しておらず、ましてや一般市民がその名を耳にするような状況ではなかったと言って差し支えないだろう。当時、筆者は毎日新聞東京本社の外信部の記者であったが、解説記事を執筆しようにも十分な紙面を確保することが困難であったため、外部媒体の「Foresight」に記事を書いたというのが実情であった。

 やがて12年、13年と時間が経つにつれて、ボコ・ハラムによる暴力は激しさを増し、ナイジェリア北部のボルノ州では住民が一度に数十人単位で殺害される事件が頻発するようになった。だが、欧米の国際メディアの関心は極めて低く、ましてや日本メディアがこの組織に関心を向けることはほとんどなかった。

 ところが、144月に女子生徒集団拉致事件が発生し、これが報道されると、状況は一変した。インターネット空間には生徒たちの無事を願う書き込みが溢れ、過激派から銃撃された後も女性や子供の権利を訴えているノーベル平和賞受賞者のパキスタン人女性マララ・ユスフザイさんや、米国のオバマ大統領(当時)夫人のミシェルさんのような国際的に著名な女性たちが、拉致された少女の解放を訴え始めた。先進諸国のメディアが、こうした「セレブ女性」たちの訴えを一斉に取り上げたことによって、被害者の救出を求める世論が世界中に広がった。

 事件発生からおよそ3週間後の55日、ボコ・ハラムの指導者であるアブバカル・シェカウという男が、犯行を認めるビデオ映像をインターネット上に公開した。映像には黒い布で全身を覆うことを強要された女子生徒たちの姿が映され、シェカウは女子生徒たちを前に「こいつらは奴隷だ。奴隷市場でこいつらを売る」などと得意顔で演説をぶった。

 世界各国のメディアがこの映像を伝えたことで、欧米を中心とする先進社会ではボコ・ハラムに対する怒りが頂点に達した。生徒の救出を求める米国内世論の高まりを受けたオバマ大統領は翌56日、米国のテレビ各局とのインタビューで救出に協力する考えを表明し、米軍や情報機関の専門家で構成する救出チームをナイジェリアに派遣する構想を明らかにした。米国の政府と議会はそれまで、ボコ・ハラムに関して情報収集は続けていたが、米軍の投入はこれが初めてであった。こうしてナイジェリア北東部の武装組織ボコ・ハラムは、瞬く間に国際的な注目を浴びることになり、遂には日本の民放テレビのワイドショーまでもが、ボコ・ハラムの極悪非道ぶりを報じることになった。

 女子生徒集団拉致事件が発生したころ、私は長年勤めていた毎日新聞社を中途退職し、民間シンクタンクの三井物産戦略研究所へ移籍したばかりであった。新たな仕事はナイジェリアを含むサブサハラ・アフリカ(サハラ砂漠以南のアフリカ。アフリカの地図は次を参照49カ国の政治経済情勢の調査・分析であり、事件の第一報が報道された416日は、研究所への出勤2日目だった。仕事の立ち上げ作業に忙殺される中、突如として連日報道されるようになったボコ・ハラムのニュースを聞き、戸惑いを感じずにはいられなかった。

世界が「傍観」した大虐殺

 ボコ・ハラムという組織の特質や成立の経緯については順次説明していくとして、最初に考えたいのは、先進国の大衆社会において、ボコ・ハラムがこのように高い注目を浴びることになった理由である。ここからしばらく話はボコ・ハラムから逸れるが、まず次の文章を読んでほしい。

80万人以上の罪のないルワンダの男たち、女たち、子供たちが情け容赦なく殺されるのにちょうど100日が費やされたが、その間、先進世界は平然と、また明らかに落ち着き払って、黙示録が繰り広げられているのを傍観するか、そうでなければただテレビのチャンネルを変えただけのことだった」(ロメオ・ダレール:金田耕一訳『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』風行社、2012年)

 この文章を記したのは、1994年にアフリカ中部の小国ルワンダで展開していた国連PKO部隊の司令官だったロメオ・ダレールというカナダの元軍人である。

 ナイジェリアの女子生徒集団拉致事件から遡ること20年の944月から7月にかけて、ルワンダで少なくとも80万人以上の市民が組織的に虐殺される惨劇があった。後に「ルワンダ大虐殺」として知られることになった民間人の大量殺戮である。

 ルワンダはドイツ、ベルギーによる植民地統治を経て62年に独立した小国である。国内には植民地統治によって多分に人為的に形成された「フツ」と「ツチ」という二つの大きな民族集団があり、独立時から両者は緊張関係にあった。

 大虐殺の発生した94年時点では、両民族を基盤とする政治勢力のうち、フツ系の政治勢力が政権を掌握していた。これと対立するツチ系武装勢力「ルワンダ愛国戦線RPF」は隣国ウガンダに拠点を構えており、RPFの越境攻撃によってルワンダは90年から本格的な内戦状態に突入した。

 944月から7月の大虐殺は、この内戦の最終段階で起きた惨劇であった。虐殺を首謀したのは政権内のフツ強硬派とフツ系の過激派民兵組織であり、被害者の多くはツチ系国民であった。ルワンダには当時、国連PKO「国連ルワンダ支援団」が展開しており、ロメオ・ダレールは、そのPKO部隊の司令官であった。ダレールはフツ系政権側の密告者から「ツチ系国民を絶滅させる極秘の計画が政府内で進められている」との情報を事前に入手し、PKO部隊を使って、虐殺に使用される可能性が高い武器を事前に押収してしまう軍事作戦をニューヨークの国連本部に提案した。しかし、国連本部はダレールにその権限を与えず、ついにルワンダ全土で虐殺が始まった。

ルワンダ人の絶望と憤怒

 ダレール司令官と部下たちは、虐殺の手から逃れてPKO部隊の基地に押し寄せる人々を保護し、一人でも多くの命を救おうと孤軍奮闘した。しかし、ダレールが率いるPKO部隊の規模は300人弱に過ぎなかった。さらには、彼が率いていたPKO部隊には、国連憲章7章に基づく平和強制執行の権限が付与されておらず、市民を虐殺者の手から保護するために必要な武力行使が著しく制限されていた。

 ダレールは国連本部に切迫した現場の状況を再三にわたって報告したものの、事態は改善されず、彼とその部隊はルワンダ全土で繰り広げられる空前の規模の大虐殺を前に為す術もなかった。当時のルワンダの推定総人口約750万人の1割以上が殺害される大虐殺はおよそ3カ月にわたって続き、最後は隣国ウガンダに拠点を置いていた反政府武装組織RPFが政権に総攻撃を仕掛け、政権崩壊によって事態が沈静化したのであった。

 ダレール司令官は帰国後の2000年、心的外傷後ストレス障害PTSDを発症して自殺を図ったが、幸いにして未遂に終わり、一命を取り留めた。そして、自殺未遂から3年後の03年、PKO司令官としてのルワンダでの壮絶な体験を一冊の本にして出版した。先に紹介した文章は、その回想録の一節である。

 ルワンダ大虐殺が起きた理由と背景は、その説明だけで大著が一冊完成してしまうほど複雑であり、本書のテーマであるボコ・ハラムとは関係ないので、これ以上深入りしない。ここで注目してほしいのは、空前の大惨劇にほとんど反応しない先進社会の無関心ぶりだ。ダレールが回想録で記した一節からは、何十万人もの一般市民が虫けらのごとく殺害されているにもかかわらず、ニューヨークから遠く離れたアフリカの小国の大惨劇に一向に関心を示さない国連本部や先進諸国に対する痛烈な怒りが伝わってくる。先述した通り、ダレールは現地駐在のPKO司令官として、組織的大量虐殺が計画されている兆候を事前に国連本部へ報告し、虐殺が始まってからは何度もPKO部隊の任務拡大や応援を要請したが、ことごとく却下されていたのであった。

 こうした国連の消極的対応を促した理由の一つは、欧米を中心とする先進諸国の世論がルワンダの武力紛争にほとんど関心を示しておらず、虐殺の阻止に向けた迅速な対応を自国政府に求める世論が湧き上がらなかったことにある。当時、欧州では東西冷戦終結に伴って解体した旧ユーゴスラビア連邦を舞台にした大規模な紛争が続いており、欧米の主要メディアや有識者の関心は、アフリカではなく足元の欧州に向いていた。旧ユーゴスラビア連邦を舞台にした紛争に関する報道の分量と比べれば、ルワンダ内戦に対する国際メディアの関心の低さは明らかであった。20世紀も残り数年で終わろうかという時代に、3カ月間で80万人以上が組織的に抹殺される惨劇が進行しているにもかかわらず、欧米を中心とする主要国の政府、そして日本を含む先進社会のメディアや市民がこれに関心を寄せていたとは言えない状況にあった。それが当時の国際世論の現実であった。

 ルワンダ大虐殺については現在、ダレールの手記以外にも、虐殺を生き延びたルワンダ人による回想録などが複数出版され、日本語に翻訳されたものもある。それらの著作に概ね共通していることは、虐殺の首謀者たちに対する怒りとともに、世界の無関心に対する憤怒や絶望の念である。ルワンダ内戦の最終段階で発生した大虐殺に世界が見せた無関心は、その20年後に世界のセレブ女性たちが主導した「少女たちを救え」という国際世論の対極にあった。

第1章 女子生徒集団拉致事件の衝撃(2)

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