国際養子縁組は「暗黒時代のカネもうけ」
スウェーデンに養子に出されたマリア・ディーマーは実母を探し出すためチリに飛び立った。しかし、そこで知ったのは自分が「盗まれた子ども」だったという、衝撃の事実だった。1970~80年代、国際養子縁組によって大勢の子どもがチリから欧米に渡っている。累計で8千~2万人。生みの母親の多くは非常に若くて貧困に苦しんでいた。その背景にあるピノチェト独裁政権時代の「政策」、そして国際養子縁組を舞台にしてうごめく「ビジネス」。盗まれた赤ちゃんのその後は支援できるのか。「ガーディアン」発、国際調査報道。
← 左にスクロール
シェア ツイート

家族を見つけたかっただけ

チリで盗まれた子どもたち

 生後2カ月でマリア・ディーマーはスウェーデンへ養子に出された。大人になって実の母親を探し出したところ、「養子に出すつもりはなかった」と告げられた。国際養子縁組を名目にしてさらわれる子どもは何千人にも上る――。ディーマーもその中の一人だ。

(取材・執筆 アーロン・ネルセン) 

生みの母親を探してチリへ飛び立つ

 物心付いたころからマリア・ディーマーは「自分は養子」と思っていた。第一に、スウェーデン人の両親から常にチリで生まれたと聞かされていた。第二に、197080年代のストックホルムで生活していればいや応なしに目立った。褐色の肌と黒い髪の毛は珍しかったのだ。

 11歳になって両親に呼ばれ、1975年に生後2カ月でチリからスウェーデンに渡った当時の養子縁組文書を見せられた。ティーンエージャーの母親は生まれたばかりの女の子を養子に出し、地球の裏側に住む見知らぬ人に育ててもらうことにした――。文書は実の母親について簡潔に淡々と説明していた。

 ディーマーは文書の内容を今も覚えている。「実の母親は住み込みの家政婦だった。両親に息子を預けて働いていた。貧しかった」

 20代になり、実母を見つけ出そうと決意した。まずはスウェーデンのNGO(非政府組織)「アダプションセンター」に連絡を入れた。アダプションセンターは彼女の養子縁組を斡旋した団体であるから、何か糸口を得られると思ったのだ。しかし何の情報ももらえず、徒労に終わった。

ストックホルム Photo/Getty Images

 人口1人当たりで見ると、スウェーデンは国際養子縁組に最も積極的な国の一つである。1990年代に入り、アダプションセンターは養子と実親(生みの親)を引き合わせるプログラムも立ち上げている。

 1998年になってディーマーはチリへ飛び立ち、実母を探して現地で奔走した。実母を支援した児童福祉施設、養子縁組を認めた家庭裁判所、自分が生まれた病院、出生届が提出された戸籍課――。しかしどこへ行っても壁に突き当たった。出生地に最も近いチリ南部テムコの家裁では、古い書類を手にした係官が彼女の前に現れた。書類をぱらぱらとめくりつつ、「内容を見せるわけにはいかない」の一点張りだった。

 結局、ディーマーは何の成果も得られないままで帰国した。ただし、さじを投げたわけではなかった。「いろいろな疑問で頭の中がいっぱいになった。でも、一歩前進できたのは間違いなかった。いつか必ず本当の家族を見つけ出す――こんな思いを一層強めた」

生まれた直後に盗まれた

 数年後の2002年冬、新たな展開があった。まず、チリの政府機関「全国子ども支援会(SENAME)」から「生みの母親の住所が分かったかもしれない」との連絡が入った。続いて、スウェーデンのテレビ局が国際養子縁組のドキュメンタリー番組を放送し、チリで実親を探している2人の養子を取り上げた。

 ディーマーは直ちに動いた。ドキュメンタリー番組に協力したチリ人ジャーナリスト、アナ・マリア・オリバーレスに接触して助けを求めたのだ。

 SENAMEによれば、実母はチリ中部の小村に住んでいるはずだった。オリバーレスは2週間にわたって小村を数回訪問し、聞き込み調査を実施。しかし、正確な住所を割り出せないまま、調査を終えなければならなかった。ただし、首都サンティアゴへ戻る際に、自分のおじにフォローアップを依頼した。おじは小村の住民だった。

 20031月になって光明が見えた。おじの努力が実り、養子縁組文書に記載されている名前と一致する女性が浮かび上がったのである。ところが、女性はディーマーとの面会を拒否した。今は結婚しているし、長い間行方知れずの娘と会って現在の夫を驚かせたくない――これが理由だった。

 それでも女性は重要な事実を一つ教えてくれた。赤ちゃんを養子に出すつもりはなかったというのだ。つまり、ディーマーは生まれた直後に盗まれたというわけだ。

養子縁組文書は誤りや手抜きでいっぱい

 これを聞いてディーマーはひどく落ち込んだ。スウェーデンのようしんは何も悪いことはしていないとはいえ、仲介業者にだまされていたのではないか、と思った。そこで20033月にアダプションセンターの理事長に会い、疑問を直接ぶつけてみた。

 理事長は彼女に対して落ち着くよう促した。「子どもを捨て去った母親は自分の行為を恥じている。だから子どもがさらわれたというストーリーをでっち上げる傾向がある」

 ディーマーは理事長の説明に疑問を抱きながらも、問い詰めなかった。「当時はどうしたらいいのか、皆目見当も付かなかった。行動を起こす勇気を持てたのは何年も後になってからのこと」

 大きな転機は20179月になって訪れた。きっかけになったのは、チリ人映画監督のアレハンドロ・ベガが製作したドキュメンタリー映画だ。ここで登場する女性は低所得者層・マイノリティー(少数民族)出身。表面的には国際養子縁組に同意しているものの、実際にはだまされたり強制されたりして子どもと離れ離れになっている。

 2018年に続編を製作中、ベガは養子が集まるフェイスブックページを経由してディーマーとつながった。彼女の求めに応じて養子縁組文書を調べてみて驚いた。至る所に誤りや手抜きを発見したのだ。養子縁組そのものに根本的な問題がある、と結論せざるを得なかった。

 ディーマーはうろたえた。それまで「養子縁組はきちんとした手続きを経て成立している」と信じるようにしていた。そのように信じないと心が折れてしまうと思っていたからだ。だが、真実を告げられ、突如として奈落の底に突き落とされた。「体の震えが止まらなくなり、涙があふれ出てきた」

「貧困は犯罪」と見なす軍事独裁政権

 197080年代、国際養子縁組によって大勢の子どもがチリから欧米に渡っている。累計で8千~2万人に上るといわれている。生みの母親の多くは非常に若くて貧乏であるという点で共通している。

 ここには国家戦略も絡んでいる。1973年、民主的選挙で誕生した政権が軍事クーデターによって倒され、軍人のアウグスト・ピノチェトが実権を握った。軍事独裁政権誕生とともに国際養子縁組は加速したのである(ピノチェト登場以前にも数十年にわたって国際養子縁組は行われていた)。

アウグスト・ピノチェト Photo/Getty Images

 なぜなのか。1978年に軍事独裁政権が国際養子縁組を正式な国家戦略として採用したからである。名目は子どもの貧困撲滅だ。恵まれない子どもをどんどん海外へ養子に出していけば、自動的に国内の貧困問題も解決していく、という論理が展開されたのだ。その結果、貧しい母親に対するプレッシャーは一気に高まり、国際養子縁組は急増した。

 言い換えれば、ピノチェトは国家権力を駆使して、貧困家庭が子どもを育てられないようにしていたといえる。支援団体「チリ人養子ワールドワイド(CAW)」の創設者であるアレハンドロ・ケサダの表現を借りれば、「貧困は犯罪」を前提に強権を振るっていたのだ。母親の抵抗に遭えば暴力的行為に訴えた。

 国家戦略の犠牲にされたのが貧困家庭だ。とりわけ厳しい状態に置かれたのは、長らく迫害されてきた先住民族のマプチェ族である。軍事独裁政権にしてみたら、貧しくて自立できない女性は進歩の妨げでしかなかった。

 肌が茶色い赤ちゃんは、養子としてチリ国内では敬遠されたものの海外では歓迎された。チリ・オーストラル大学の歴史学・地理学教授カレン・アルファロによれば、チリ政府は一石二鳥の戦略として国際養子縁組を位置付けていた。第一に、豊かな国々を受け入れ先にすることで、貧しい子どもたちを救済するとアピールできる。第二に、1973年の軍事クーデター後に多くの国々との関係が悪化するなか、「養子の輸出」を材料にして外交関係を再構築できる。

 アルファロは次のように分析する。「軍事独裁政権は国際養子縁組をテコにして有利な外交関係を築こうとしていた。実際、チリ政府が養子の受け入れ先としてターゲットにしていたのは、チリ人の政治亡命者を積極的に受け入れ、人権侵害に批判的な国々だった」

 一方、基本的人権に敏感なスウェーデンでは国際養子縁組は人道的な行為と見なされるようになっていた。海外から積極的に養子を受け入れるスウェーデン人夫婦の第1世代が現れたのは1960年代だ。スウェーデンのカールスタード大学准教授で異文化教育の専門家トビアス・フビネットは「国際養子縁組は時流に乗っていた。スウェーデン政府が進める人道的な外交政策と第三世界への開発援助と合致していたから」と指摘する。

国際養子縁組は「暗黒時代のカネもうけ」

 1970年代に入り、チリ人女性が児童相談員に事実上強制され、自分の意志に反して子どもを手放すケースが出てきた。国営病院で出産し、医師や看護師から「死亡」と報告を受ける母親もいた。死亡診断書を交付されないばかりか、自分の赤ちゃんを見る機会も与えられずに、である。母親は不審に思っても、警察への通報やマスコミへの垂れ込みになかなか踏み切れなかった。暴力的な脅しを受けたり、「精神的に不安定」とのレッテルを貼られたりするからだ。

 10年ほど前からマスコミや司法当局が動き始め、197080年代の国際養子縁組に絡んだ問題にようやく光が当てられるようになった。アルファロの調べによれば、欧米の養親希望者が国際斡旋団体に対して支払う謝礼金は子ども1人当たり650015万ドルに達し、このうちの一部はチリ国内の協力者の手に渡っていた。協力者は「養子適格」の子どもを見つけ出し、極貧で無教育な実親から「救い出す」役割を担っていた。

Photo/Getty Images

「チリ国内には国際斡旋団体の代表者が常駐し、国際養子縁組のためのネットワークを築いていた」とアルファロは解説する。「ネットワークを構成しているのはチリ人の協力者であり、大半は医療従事者や公務員。偽の親権放棄書類を発行する児童相談員、死亡診断書を偽造する医師・看護師、実親の同意なしに親権者の変更を認める裁判官――。みんなカネ欲しさに犯罪に加担していた」

 ベガが2017年に製作したドキュメンタリー映画が本質を突いている。197080年代の国際養子縁組を取り上げ、「暗黒時代のカネもうけ」と断じている。ベガは私とのインタビューで「独裁政権誕生後、チリは非常事態下に置かれていた。そこでは産婦人科病棟もカネもうけ目的に利用されていた」と指摘する。

 チリ国内の「カネもうけネットワーク」について国際斡旋団体はどこまで知っていたのだろうか。真相はやぶの中だ。一つはっきりしているのは、「赤ちゃん泥棒」の実態について真相究明に乗り出す国際斡旋団体はほとんど存在しなかったということだ。

暗躍する「マフィア」のネットワーク

 20189月、チリの議会は重い腰を上げ始めた。非人道的な国際養子縁組によって苦しめられてきた家族から突き上げられたからだ。具体的には、下院議会が特別委員会を立ち上げて調査に乗り出した。委員会が開いた公聴会では何人もの実母と養子が登場し、衝撃的な証言を行った。

 例えばマリア・オレリャナ。1985217日に陣痛が始まったため、翌18日(妊娠396日目)の朝にサンティアゴ市内の病院に駆け込んだ。同日中に帝王切開で赤ちゃん――男の子――を無事出産した。ところが、すぐに赤ちゃんから引き離され、放置状態にされた。何度も「赤ちゃんを返して」と要求したのになしのつぶて。結局、3日後になって病院側から「死亡」と伝えられた。

「ならば赤ちゃんを見せてください」

「駄目です。見たらトラウマになりますから。出産直後の赤ちゃんをいい思い出として残しておきましょう」

 オレリャナは今でも息子との再会を夢見て祈り続けている。

 20197月、特別委員会は144ページの報告書をまとめて「マフィア」の実態を浮き彫りにした。マフィアとは、医療従事者や公務員で構成されるネットワークのことだ。非人道的な手法で母親から子どもを引き離し、十分な「赤ちゃん在庫」を常に確保しておくことで「おいしいビジネス」を展開していたという。

 軍事クーデター前には政府の規制を受けずに民間ベースで行われていた国際養子縁組。クーデター後には国際養子縁組の名を借りた「赤ちゃん泥棒」が事実上合法化され、悲劇を引き起こしていたのだ。報告書は「当時の国際養子縁組は基本的人権を蹂躙する犯罪」と結論している。

シェア ツイート
家族を見つけたかっただけ チリで盗まれた子どもたち(2)
01