ごく普通の若者たちは、なぜレイシストに豹変するのか
反ヘイトスピーチはこの本から始まった! 在日コリアンを誹謗差別する「ネット右翼」の実態に初めて斬り込み、日本ジャーナリスト会議賞、講談社ノンフィクション賞を受賞した衝撃作の文庫版。

文中敬称略

1 在特会の誕生

過激な〝市民団体〟を率いる謎のリーダー・桜井誠の半生

 2両編成のちくほう電鉄は起点の黒崎駅前駅(北九州市)を出ると、じきにどうかいわんに面した工業地帯と並行するように走り、途中で南に大きくそれて筑豊方面へ向かう。車窓越しに見えるのは、低い山並みと住宅地からなる退屈な風景だけだ。停車するたびに「チン、チン」と小さく響く鐘の音が眠気を誘う。

 無人駅をいくつかやり過ごし、なか市に入ったあたりで下車すると、駅前から伸びる緩くて長い坂道の両脇に、戸建ての住宅街が広がっていた。かつては炭鉱町として栄えたというが、往時の面影はすでにない。

 近くに住む古老によれば、この一帯は旧おおつじ炭鉱の跡地だという。大辻炭鉱は、麻生家、安川家と並んで筑豊御三家の一つに数えられる貝島家が経営していた大規模炭鉱だった。創業者の貝島太助は貧農の出身で、家計を助けるために幼い頃から鉱夫として働き、苦労して財閥を成すにいたった立志伝中の人物であり、「筑豊の炭鉱王」なる異名も持つ。その貝島の飛躍を支えるきっかけとなったのが、明治291896年から経営に携わるようになったこの大辻炭鉱なのである。

 平屋建ての炭住(社員寮)が並び、商店街が活況を見せていたのも、しかし、1960年代前半までの話だ。68年に炭鉱が閉山してから風景は一変し、九州有数の「ヤマ」は北九州市のベッドタウンとして生まれ変わった。それでもかつての活況からは程遠く、どこか間延びしたような風景のなか、70年代から造成されたという住宅街も、すでにくすんだ色彩に変わりつつある。

 そうしたなかにあって、薄れゆく採炭地としての記憶を懸命に守ろうとするかのように、唯一この町で存在を誇示しているのが、町はずれにある捨て石の集積場、つまりボタ山だ。炭鉱全盛期には富士山にもたとえられた円錐形のボタ山は、長年の風雨によってだらしなく形を崩し、いまや雑木に覆われた小高い丘陵でしかない。とはいえ古くから地元に住む人々にとっては〝石炭の栄光〟を振り返るべく、もっともノスタルジックな場所となっている。

 その荒れ果てたボタ山と向き合うように、県立高校の校舎が建っていた。この高校も、地域の衰退を防ぐために、付近の住民が懸命に陳情と誘致運動を重ねて、83年に開校したものである。

 その男──高田誠は、この学校に通っていた。

 1972年生まれの彼が卒業してからすでに20年が経過している。放課後、自転車に乗って校門から勢いよく飛び出してくる生徒たちに高田の名を告げても、誰ひとりとして知る者がいなかったのは当然だろう。

 そもそも、高田は在学中から影の薄い男だった。

「うーん、よく思い出せないんですよ。なんて言ったらいいのかなあ。とにかくおとなしくて目立たない、クラスで最も地味なヤツだったような気がします」

 付近の喫茶店で会った高田の元同級生である会社員は、申し訳なさそうな表情を顔に浮かべた。

「まあ、とりあえずこれを見てください」

 そう言って彼がカバンのなかから取り出したのは、高校の卒業アルバムだった。

 表紙に『希望』と大きく刻まれたアルバムをテーブルの上に置くと、彼はゆっくりページをめくっていく。ページをめくる彼の指先が「CLASS 8 MATES」と書かれたページで止まった。

 男女合わせて47人の顔写真が並ぶ。ページ下段には、全員の名前が写真の順番に合わせ、まとめて記されている。元同級生は、試すような口ぶりで私に言った。

「名前の欄を見ないで、高田を当てることができますか?」

 前髪の一部を額に垂らしたリーゼント風の髪型の者が目立つ。たしか、この時代の流行だった。そんなことを考えながら全員の顔を確認したが、私の知っている高田の顔はない。

「無理ですよ。ぜんぜんわからない」

 私は彼にそう告げると、ゲームを一方的に終了し、ずらりと並んだ名前を一つひとつ確認した。高田誠……あった。すぐに顔写真と照合する。

 そこには短めの髪を左右にきちんと整え、どこか寂しげに微笑む少年の顔があった。高校生にしてはやけに幼く、突けばすぐにでも泣き出しそうなその表情は、私が知っている現在の高田とは大きく違っている。

「これ、本当に高田誠ですか?」

「ええ、地味な顔でしょ」

 私は写真を凝視した。どれほど時間をかけても、幼くて優しい顔つきの少年を、いまの高田に重ね合わせることができなかった。

「友達もほとんどいなかったんじゃないですかね。仲間はずれというわけではなかったけど、いつも一人で行動していたような印象があります。昼休みのときとか、皆がワイワイはしゃいでいても、高田だけはぽつんと一人でいたんじゃないかな」

 彼はそう言いながら、アルバムのページをもう1枚めくった。クラスの集合写真だった。

 直立不動の高田がいる。友人同士でおどけたポーズをとったり、この世代特有の斜に構えた「決め顔」で写真に写る者が多いなかで、高田は恥ずかしそうな表情を浮かべ、周囲とのつながりをまったく感じさせることなく正面を向いていた。孤独な雰囲気を漂わせた少年の姿か、あるいは周囲に流されることのない、芯の強さともいうべきなのか。

 私が話を聞いた元同級生たちは、誰もが同じような印象を口にした。

「無口で目立たない」

「物静か」

「高田? そんな名前の人、いましたっけ」と、存在そのものを疑う者もいた。

 高田は一時期、生徒会の役員を務めたこともあるが、その事実ですら覚えている者は少ない。「ウチの学校では、生徒会なんて誰もやりたがらない雑用係みたいなものだったから、みんなで高田に押し付けたに違いない」と断言する元同級生もいた。ただし何人かの元同級生は、記憶の片隅に、かろうじてぶら下がった小さなエピソードを覚えていた。高田の「家出騒動」である。

3年の夏休み前だと思います。ある日、担任の教師が『高田が家出した。誰か居場所を知っている者はいないか』と皆に聞いて回ったことがあります。母親と喧嘩して家を飛び出したとか、熊本あたりの寿司屋で住み込みで働いていたところを補導されたとか、色々とウワサが飛び交いました。まあ、結果的には1週間くらい欠席しただけのプチ家出だったわけですから、それほど大騒ぎになったわけではありませんけどね」(元同級生の男性)

 そうした話を聞きながら、私はアルバムに残された高田の寂しそうな顔を何度も見つめた。そのたびに気が遠くなるような、現在の彼と過去の彼との「距離感」を覚えた。

カリスマ会長の正体

「ゴキブリ朝鮮人を日本から叩き出せ!」

「シナ人を東京湾に叩き込め!」

「おい、コラ、そこのてい朝鮮人! 日本から出て行け!」

「死ね!」

 カン高い声で絶叫しながら、拳をぶんぶん振り回して街頭を練り歩く「ネット右翼のカリスマ」が、まさかこの写真の男の未来の姿であるとは、誰も想像できないであろう。

 在特会会長・桜井誠──「無口で目立たない」少年だった高田の、現在の姿だ。彼はいま本名を伏せ、ペンネームの「桜井誠」を名乗っている。

 在特会の公式サイトによれば、同会の会員数は111812012210日現在)。北海道から鹿児島まで全国34支部を持ち、海外にも約270人の会員を抱える。会費を必要とせず、クリックするだけで会員資格が付与される「メール(一般)会員」がその大部分を占めるにしても、数ある保守・右翼団体のなかでも最大規模を誇ることは間違いない。

 その名称が示すとおり、同会が最重要の政治課題として掲げているのは在日コリアンの「特権剝奪」だ。日本は長きにわたって在日の犯罪や搾取によって苦しめられてきたというのが、同会の〝現状認識〟であり、日夜、「不逞在日との闘い」を会員に呼びかけている。

 昨今の糾弾対象は「在日」のみならず、外国籍住民全般や韓国、北朝鮮、中国といった同会いうところの「反日国家」、さらには、それらに融和的とされる民主党政権にも及び、日本各地でデモや街頭宣伝といった精力的な抗議活動を展開している。数百人規模の動員力を見せつけることも珍しくない。罵声怒声を響かせながら徹底的に「ハネる」(運動用語で「挑発を繰り返す」)のが彼らの街宣の特徴だ。

「朝鮮学校無償化反対」「外国人参政権反対」「外国籍住民への生活保護支給反対」「領土奪還」──掲げるスローガンはいわゆる右派的な主張であるが、在特会は自らを「右翼」と名乗ることはせず、「行動する保守」だと自称している。実際、会員の多くは右翼・民族派の活動に参加した経験を持たず、ネットの掲示板などで「在日叩き」をしている「ネット右翼」(通称:ネトウヨ)が目立つ。東日本大震災以降は、各地で盛り上がりを見せる「反原発」の動きに対抗すべく、「反・反原発」「核兵器推進」といったスローガンも掲げ、「強い日本」を訴えるデモや街宣も活発におこなうようになった。

 この在特会の生みの親であり、〝理論的指導者〟でもあるのが桜井誠──つまり高田誠だ。

「カリスマ」と呼ばれ、約1万人の会員を誇る保守系市民団体のリーダーであり、複数の著作を持ち、ときに「先生」としてあがめたてられる人物である。その特異なキャラクターはネットを通じて国外にも知れ渡り、ニューヨークタイムズをはじめ海外メディアが、「外国人排斥を主張する、日本の新しいタイプの右派指導者」として彼を取り上げた。

 桜井の元同級生たちはそのことを知ると、誰もが「信じられない」と口をそろえる。

 私の取材を受けた元同級生の一人である自営業者は、家に戻って早速、ネットで「桜井誠」を検索し、動画サイトにアップされた高田の「変わり果てた姿」を確認したという(在特会はデモや街宣の多くを動画サイトに残している)

「いやあ、驚きましたよ」と呆れた口調で彼は私に電話してきた。

 真っ先に目に飛び込んできたのは、在特会の街頭演説を撮影したものだったという。パソコン上の動画では、サスペンダーに蝶ネクタイという出で立ちでマイクを手にした「桜井会長」が、憎悪をむき出しにした表情で、とうとうとまくし立てていた。

「朝鮮人ってのは何でもかんでも差別だと騒いで、日本人に譲歩を迫ってくる。だいたいねえ、日本のヤクザの3割は朝鮮人なんですよ。そして残りのうち6割は部落です。こうした汚物、ゴミ、蛆虫に、我々はいま、恐れることなく声をあげているんです!」

 桜井の口調はよどみがない。じょうぜつで、情熱的で、攻撃的で、そして緩急自在な話法はまるで新興宗教の教祖に通ずるものがある。

 自営業者の彼は、電話口でこう漏らした。

「なんとなく怖かった。何かにかれたかのように話すところが」

 そのうえで、さらにもう一つの動画について言及した。在特会の集会開催をめぐって、公民館の責任者とモメている場面を写したものだ。利用規則に基づいて会議室の貸し出しはできないとする責任者に向かい、「桜井会長」は机をバンバン叩きながら次のように怒声を浴びせていた。

「やかましい! ふざけたこと言ってんじゃないよ。ここは公共の施設だろうよ。ちゃんと説明しろ。あんたは左翼か! 反日極左か!」

 20年もあれば人はいかようにも変わることができる。そんなことは誰もがわかっている。だが、単なる高低差ではすまないような激しい変化は、人に不安と戸惑いを与える。だからこそ元同級生の多くは「桜井会長」の姿を目にすると、最後には言葉を失い、絶句するのだ。

 私は在特会の街頭演説やデモだけでなく、「桜井誠」の講演会にも何度か足を運んでいる。たしかに彼の姿は、ある種のカリスマ性を感じさせる。サスペンダーに蝶ネクタイといったおなじみの姿で桜井が登壇すると、会場からは割れるような拍手と声援が沸き起こる。彼らの信じる「真実」をさらりと流し、話の各所で「朝鮮人の悪行」を叫ぶように訴えれば、聴衆は大いに盛り上がる。桜井の話法は、聴衆の反応を計算したうえで巧みに組み立てられている。

「あなたたちもねえ、朝鮮人と闘うためには覚悟を持つべきなんだよ!」と、ときに子どもをり飛ばすような物言いをしても、言われた聴衆の側は無我夢中で手を叩く。これを「まるでマルチ商法」と評したのは、ある右翼団体幹部だが、少なくとも独特の熱気をかもし出すといった点については、まさにそのとおりだ。

 自分からは本名や経歴を一切明かさず、正体が謎のベールに包まれていることも、なおさら彼の〝神格化〟に力を貸している。

 しかし、昔の級友たちが語る「高田」は饒舌どころか、その存在すら疑われるあやふやな印象しか残していない。当時の高田が外国人の排斥を主張した場面など誰の記憶にもなく、むしろ彼自身が「排斥」されていたのではないかと思わせるような人物像しか浮かび上がってこない。

 そしてそこに──私は自分自身の少年時代を少しばかり重ね合わせてしまうのである。

 転勤族の父親を持つ私は、小中学校で何度も転校を繰り返した。臆病で引っ込み思案で、そのくせ我の強い私は、どこの学校でもクラスに溶け込むことができなかった。級友に媚びて仲間に入れてもらうことは、つまらぬプライドが許さなかったし、かといって孤独が好きなわけでもなかった。誰かに声をかけてもらいたいと、うずくような思いを抱えながら、私の義務教育期間は、あっさり終わってしまったような気がする。高田はどんな気持ちで孤独な時間をやりすごしたのだろうか。あるいは独りでいることのつうようをいささかも感じることはなかったのか。

1 在特会の誕生(2)

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