毎年100兆円、GDPの2割を占める「社会保障」の全体像を知る
制度の成り立ちから、我が国の問題点、改革の方向まで、「ミスター年金」と言われた元大物官僚が解説する格好の入門書。

第Ⅰ部
社会保障とは何か~制度の基本を理解する

1章【系譜、理念、制度の体系】ギルドの互助制度を手本としたビスマルク

(1) 社会保障の系譜

──近代産業社会とともに生まれ、それを支えてきた社会保障制度

 為政者が困窮する民を救うという行為は、古今東西、太古の昔から行われてきました。日本でも正倉院に残された古文書の中に、6世紀、飢饉に際して老人や寡婦、障害者などに朝廷が食料を配ったという詳細な記録(どんな基準で誰にどれくらい配ったかまで書いてある、なかなか立派な記録です。昔から日本の役人は生真面目で優秀だったのかもしれません(笑))があります。

 江戸時代の小石川養生所の話は皆さんもご存知でしょう。ヨーロッパにも、現在の病院・介護施設の原型と言われるHospices de Beauneという施設がフランスの古都ボーヌに今も残っています。

 近代以前の社会にも救貧という考え方はありましたし、実際この種の救貧や施しのような行為はいつの時代にもどの国でも統治者は行っていました。では、現代の社会保障はこれらといったい何が違うのでしょうか。

■近代社会保障の始まりはビスマルク

 社会保障の中心的な仕組みである社会保険制度は、19世紀ドイツの政治家、ビスマルクがつくったのが始まりと言われています。社会保険の原型はギルドの互助制度(養老制度)と言われています。弟子たちがマイスター(師匠)の老後の面倒を見るということを順々に繰り返してきた制度で、社会保険の仕組みはそれの近代版としてつくられたと言われています。

 国家が担う制度としての社会保障は、産業革命を契機に生まれたとされています。非常に大雑把に言うとこうです。産業革命によって社会は劇的に変わりました。飛躍的に生産力が高まり、工業化と都市の出現で急激に近代化が進んでいきました。農村から大量の労働力が都市に流入して社会の構造が大きく変化します。産業革命後の社会では、農村から労働者として都市に移動してきた人々が過酷な労働と貧困に苦しみ、格差の拡大・富の集中、治安の悪化、衛生水準の低下など様々な社会問題が噴出しました。それを解決していくシステムとして登場したのが、社会保障制度です。

 社会保障の考え方が生まれた背景には、マルクスとエンゲルスが唱えた社会主義思想の登場もあります。近代資本主義社会が形成されていく過程で、社会の公正が著しく害される。一方に資本家、他方に大量の賃労働者が生まれ、労働者階級、つまり階級という概念が生まれ、革命思想が伝播し、社会が不穏化する。資本家階級と社会保障制度の誕生にはそうした時代背景もありました。

 社会保障が国家の機能として普遍的に位置付けられていくのは、第二次世界大戦後です。イギリスでは有名な『ベバリッジ報告』で福祉国家の理念が語られ、「揺りかごから墓場まで」のスローガンのもと、福祉国家への道を歩み始めました。日本でも、1950年に当時の総理府に設置されていた社会保障制度審議会から社会保障制度に関する勧告が出され、後に詳述しますが、1961年に国民皆保険・皆年金が達成されました。

(2) 福祉国家の理念

■民生の安定を図る

 近現代国家の社会保障の機能をひとことで表現するとすれば、「民生の安定」ということになろうかと思います。民生の安定とは、国民の生活・生計の安定を守る、ということで、人々が生活に困ることなく安んじて生活できるようにする、ということです。

 産業革命の後、非常に乱暴な形で資本主義が展開していく中で、各国で貧富の差が広がり、貧困問題が生じ、社会不安が大きくなります。当時の労働者は116時間から17時間という過酷な労働を強いられていました。初期の資本主義、言わば剝き出しの資本主義の下で、資本家は労働者を生産手段としか考えておらず、翌日働くために最低限必要な休息以外はすべて労働に使うのが当たり前と考えていました。家に帰ってご飯を食べて寝る以外すべて労働時間という時代だったわけです。もちろん女性も子どもも働かせていました。

 しかし、当然のことですが、労働者は生きた人間です。使い捨てにするようなことをしていると、労働力はすぐに枯渇してしまいます。それでは社会は持続できません。そのことに気が付いて、最初はイギリスで工場法ができ、まず年少労働に関する労働時間の規制が始まります。資本主義社会の持続可能性を考えても、一定の労働力が再生産できるようなルールがなければなりません。それでも1833年に制定された工場法の労働時間規制は18歳未満の労働者で週69時間、というものでした。

 余談ですが、資本主義の祖と言われるアダム・スミスは、「invisible hand (神の)見えざる手」を説いた有名な『諸国民の富』に先立って『道徳感情論』という書を残しています。ご存知の方も多いと思いますが、この書の中でアダム・スミスは、近代社会を成り立たしめている要素(個人と個人の関係をつなぎとめているもの)として「個人の利己心(に基づく競争)」とともに「共感」を挙げています。

 社会は競争だけでは成り立たない。共感が「他者の目」を個人の中に内面化させ、そこに「常識─良心」が形成され、内なる道徳─自己規制としてのフェアプレイ=公正という行動規範が生まれるのだ、と述べています。

 後の章でも述べますが、自由競争・市場競争にもルールが必要で、神の見えざる手が機能するためには、資本主義そのもののロジックからは生まれてこない、社会の構成員=競争に参加する者を律する行為規範が必要だということです。

 日本にもありますよね。近江商人の家訓。「自分よし、相手よし、世間よし」。おそらく同じことを言っているのではないでしょうか。

 近代資本主義と民主主義という枠組みの中で、社会の安定がなければ資本主義も成長していかない、持続できない、という考えから、第二次世界大戦後に福祉国家の理念の下に生まれたのが現代の社会保障です。

 ですから、今の言葉を使えば、「民生の安定」というのが社会保障の基本的な機能ということになります。

■社会の発展を支える

 社会保障のもう一つの機能は、民生の安定の延長線上にあります。社会の分裂を防ぎ、それを通じて社会の発展を支える機能です。

 産業革命の後、資本家と労働者の対立が起こります。持つ者と持たざる者、富める者と貧しき者、労働者、農民と資本家。まさに「階級」が生まれます。そうすると社会が分断されていきます。富が一方に集中することで社会に亀裂が生じ、分裂が生まれます。

 そのような状況下で社会の安定を図るためには、社会の分断を回避し、統合していくことが求められます。民主主義の理念からすれば、構成員の生命・生存と財産、基本的人権を守るということがなければ統治の正統性もありません。そこで、国家の機能として富の集中を是正し、所得の再分配を行って格差をなくし、社会の分裂を防ぐ。人々の生きる権利を保障し統治の正統性を支えるという意味で、社会保障のこの機能は社会の安定にとって非常に大きな意味を持っています。

 そして同時に、所得再分配を通じて中低所得者層の所得の「底上げ」を行うことは有効需要を創出し、消費を支えます。経済成長の果実を広く国民に分配することで分厚い中間所得層が形成され、彼らの消費がさらなる経済成長を支えます。実際、第二次大戦後、1960年代の欧米諸国の経済発展は社会保障の充実と機を一にしていましたし、日本の高度成長もまた同じような形で実現されました。

■相互扶助の機能を代替する

 さらにもう一つ加えると、社会保障は、近代化によって失われた社会=コミュニティーの相互扶助の機能を、国家が代替・補完するという形で生まれてきたと言えます。つまり、失われた相互扶助システムの代替が社会保障の機能ということになります。

 産業革命によって、工場には大量の工場労働者が必要になりました。そこで、大量の農民を労働者として地域社会から都市に持ってきたわけです。結果として、多くの人々が、農村社会が持っていたインフォーマルな相互扶助のシステムから切り離されました。そういった人々は、賃金、と言っても必要最小限の僅かな賃金でしたが、それを対価に、故郷を離れて、いわば裸で都市で生活することになる。その居住地としてスラムが生まれます。元気に働いているうちはまだいいのですが、怪我をしたり病気になったり、年老いてしまったら、誰も助けてくれる人がいない。これでは、社会の安定は保てません。そこで、社会全体のリスクを小さくする、近代社会になって失われた相互扶助の機能を国家が代替するという形で生まれてきたのが社会保障であると言えます。

 このようにして、近代に生まれた社会保障は、社会の安定と発展を支え、社会の統合を保持し、統治の正統性を裏付ける機能を持つものとして、近代社会の発展をささえ、近代社会とともに発展してきたのです。

(3) 社会保障は壮大な制度の体系である

 さて、今日、社会保障は国の大きな機能の一つになっています。後に詳しく触れますが、社会保障は、医療、介護、年金、失業、子育て、公的扶助、社会福祉、公衆衛生(疾病予防、伝染病予防・衛生水準の確保)、健康増進などなど生活万般のリスクを補うものですから、それ自体が壮大な制度の体系です。

 動いているお金の規模を見てもそのスケールが分かります。生活万般に関わることですからその額は実に巨額です。日本では毎年100兆円を超えるお金が動きます。GDPの約20に相当する額です。そして、それは私的市場でのやりとりではなく、国家の関与する制度の中で──「官製市場」なんていう言い方もされます──行われています。つまり、自由市場でお好きにどうぞ、という世界ではなく、一つひとつ制度をつくって、制度に基づいてお金を集め、制度に基づいて現金を給付したりサービスを提供したりしているわけです。

 さらに、制度運用の主体となるのは国だけではありません。自治体であったり、健保組合であったり、自治体の中でも国保、介護保険、福祉、生活保護、公衆衛生など様々な部署が関わります。さらに、サービスそのものの提供には公的団体だけでなく、民間の病院や福祉施設、介護サービス会社、保育園、分野によっては普通の営利企業など、例を挙げれば切りがないほどの企業・団体が携わっています。そして、それを動かしているのは、それぞれに詳細に設計された「制度」です。結果、社会保障は壮大な制度の塊だということになります。

 国でも地方自治体でも、公務員にとって自分の担当する行政を勉強する上で、社会保障ほど大変な世界はそうありません。制度や政策が詳細かつ膨大で、頭に入れておかなければならないことが、おびただしくあるからです。

第1章【系譜、理念、制度の体系】ギルドの互助制度を手本としたビスマルク(2)

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