精神科病院は、なぜ認知症老人の「収容」へと走り出してしまったのか
20万人とも言われる“治療の必要のない入院者”は、いかに生み出されたか? 自らの入院体験を基に綴る、衝撃のルポ

1章 四十年の病院暮らし

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 そこは、静かな〝病〟の吹き溜まりだった。

 小奇麗なホールのあちらこちらに、男たちの孤独な後ろ姿があった。テーブルをめるように、折り紙に夢中になっている中年男性がいた。テレビの前で数人の男たちが機械のように突っ立ち、バラエティらしき番組を無表情に見上げている。

 椅子にだらしなく腰掛けたままうつろな目を床に投げかける者、その近くには両腕を投げ出してテーブルに顔をうずめる男の姿もあった。

 ホールの右隅にあるガラス張りの喫煙室に、柔らかな春の陽が差し込んでいた。八畳程度のその密室の中で、男たちが紫煙をくゆらせながら窓外の新緑をぼんやりと見つめている。

「こちらです。どうぞ」

 若い男性看護師が私のバッグを手にしていた。促されるように看護詰め所を出て、病棟に足を踏み入れた。

 ホールの左側に光沢のある廊下が伸びていた。その右手に病室が続いている。私が案内されたのは、手前から三番目の四人部屋だった。ちょうど真向かいにトイレがあった。

 部屋に入ると、すぐ右手に私のベッドが用意されていた。病室は背の低いタンスで四つに区切られている。一人の居住空間は、三畳程度にすぎない。

 窓側のベッドに目を向けた。二人の初老男性が互いの足の裏を見せ合うように横たわっていた。看護師が二人に私を紹介し、「どうぞ、よろしく」と私は軽く頭を下げた。

 病室の簡単な説明を終えると、ほどなく看護師は出ていった。それを見届けるように、左のベッドの男性が丸顔をこちらに向けた。

「しばらく入ってるのかい?」

 返答に窮した。「しばらく」という言葉の尺度が分からなかった。

「たぶんそれほど長くは……」

 曖昧に言葉を返すと、右側の男性がおそろしく甲高い声で私の言葉を引き取った。

「そう心配しなくても、そのうち慣れてくるさな。おれもなあ、最初の頃はこんなところで寂しく暮らさなければならないと思ったらゾッとしたもんだよ。ところが、人間というのは不思議な生き物だよなあ。いつのまにか、ここの生活が当たり前になっちまった」

 丸顔はSさん、甲高い声はKさん。ともに六十歳を超えている。後で知ったことだが、二人はもともとアルコール依存症者で、「二十年ぐらい」もこの病棟で暮らしているという。

 この「二十年ぐらい」が、どれほど長い歳月なのか。私がもう一人の「住人」の自己紹介を受けなければ、「二十年ぐらい」という歳月も、おそらく未来永劫に等しいほどの絶望的な印象を私に与えていたかもしれない。

 私が病室に入ったとき、その「住人」はいなかった。が、まもなくして戻ってきた。

「おれ、一郎って言うんだ」

 彼は方言混じりの多弁で話し始めた。

「〝一〟の〝郎〟で一郎。単純で分かりやすい名前なんだよな。おれ、頭も単純だからなあ。けど、川柳はいつも入選してるよ。地元の新聞社に毎週投稿してるんだ。ほれ、見てみる? 最近入選したやつ。『リサイクル〝もったいない〟に助けられ』。おれ、頭悪いけど、こういうのはすぐ考えられるんだな。

 あっ、今日お風呂入れるな。あんた、洗面器ある? ああ、忘れたの? だったら、おれの一つ貸すよ。二つ持ってっから。よかったら、ポータブルのテレビも貸すよ。これも二つ持ってっから。おれ、『親切だなあ』ってよく言われるんだなあ。『一郎さんは面倒見が良い』って、昔からみんなに言われてんだ。だから、なんか分からないことがあったら、いつでもおれに聞いてきていいよ。なんでも知ってっから。

 なんたって、おれ、ずいぶん長いこと入院してっからなあ。十六歳で発病して、病院転々として、脱走したこともあった。この病院? 二十二歳のときからずっといっから、もう三十五年も経っちゃった。全部合わせたら四十年ぐらい病院で暮らしてっかな」

 四十年の病院暮らし?

 三十五年の継続入院だって──?

 私は頭がクラクラするのを感じた。

*誤診

 平成十九年、その年の後半、私の体調は優れぬままだった。肉体に明らかな異常が見え始めたのは、暮れも押しせまった頃である。

 頻脈と指先の小さな震え、そして息苦しさ。膝関節には力が入らず、りなしでは階段も下りられなくなった。体力も衰え横になることが多かったが、食欲は増進した。にもかかわらず、六十三キロあった体重は、五十六キロまで激減した。

 私にはうつ病の既往歴がある。平成十年の十二月から一カ月の退院を挟んで、計四カ月も入院していた。しかし、今回の症状は、倦怠感と無力感に襲われたその頃の症状とは、どうも質が違うような気がした。

 思考はむしろこうしんしていた。あれこれと取りとめのないことを考えた。無用なことばかりに気が向き、理解できそうもない難解な本を買いあさった。果ては、購入して一年にも満たない自家用車を他の中古車に買い替えた。

 イライラ感がつきまとっていた。寝付きが悪く、かといって朝は起きられない。それでも、日中は急き立てられるように行動し、最後は何も得るものなく、ぐったりと疲れだけを溜める。

 精神的な初期症状は、「うつ」というより「そう」だった。ただ、躁状態の結果として心身がヘトヘトになる。

 私は近所の精神科クリニックを訪ねた。

 この時点で、私は他の病気の可能性をまったく考えていなかった。医師にも私の既往症にうつがあることへの先入観が働いたのかもしれない。

 診断は「うつ病」だった。医師はそのうつ感が、頻脈や指の震えなどの肉体的症状を引き起こしているのではないか、と私に告げた。

 私は処方された抗うつ薬と抗不安薬、さらに睡眠薬に頼った。約八年ぶりの服薬だったが、症状が緩和されることはなかった。

 そこで、次に心療内科専門の漢方医を訪ねた。診断は最初の医師と同じくうつ病だった。私は別種の抗うつ薬と精神安定作用のある二種類の漢方薬を処方された。しかし、ここでも薬物は何の効力も発揮せず、今度は地方に住む友人の精神科医の紹介で、別の精神科クリニックを受診した。

 このときの精神科医とのやりとりは、奇妙なものだった。医師は私の訴えをパソコンに早打ちしながら、こちらの顔も見ずに「フムフム」とうなずくだけだった。

 頷くだけで何も言わないので、私のほうから聞いた。

「やはりうつですか?」

「そうでしょう」

「抗うつ薬が必要ですか?」

「必要ですね」

「それじゃお願いがあります。SSRI以外の抗うつ薬を処方してください」

 SSRIとは平成十一年に認可された抗うつ薬である。「副作用が少ないこと」が〝売り〟で、現在最も多く処方されている抗うつ薬だが、一部では衝動性の副作用が問題視されてもいる。

「なぜ?」

 医師がチラッと私に顔を向けた。

「昔、パニックになったことがあるんです。当時服用していたSSRIの副作用としか考えられないので」

「そうですか」

 医師は頷いた。それから「しばらくこれで様子を見ましょう」と、薬物に関するなんの説明もなく処方せんを差し出してきた。

 診察室を出ようとした。医師が顔を向け「ちょっと」と、私を引き留めた。

「会計はここです」

 受付係がいるにもかかわらず、医師自らがレジを叩き、診療費請求の業務に当たる。いや、それより何より、驚いたことがあった。

 処方箋の抗うつ薬。そこにあったのはあろうことか、私があれほど使わないでほしいと懇願した、「ジェイゾロフト」という薬名の新種のSSRIだったのである。

 医師への不信感を拭い去ることができず、結局、私はこのジェイゾロフトのみならず、処方されたすべての薬物の服用をやめてしまった。こうして私は原因不明の肉体異常を抱えたまま、暗中模索の日々を過ごすしかなくなった。

 その過程で、素人療法も試みた。力の入らない膝でジョギングを敢行したこともあれば、地方の湯治場で温泉療法に時間を費やしたこともある。すると、頻脈がますますひどくなり、寝床から出られないほど衰弱した。

 息苦しさと焦燥感に駆られ、私は再び友人の精神科医にSOSを送った。友人は入院治療を私に勧め、とある地方の精神病院を紹介すると言った。

 精神病院にはやや抵抗があったが、この苦しさから解放されるのならばと、私は友人にその病院への入院手続きを頼んだ。

 同じ頃、妻の勧めもあって、自宅近くの総合病院の内科を受診した。その病院での血液検査の結果、抗うつ薬や精神安定剤が症状の改善に何の役にも立たなかった理由が判明した。私の病はバセドウ病だった。症状が出てから三カ月後にようやく確定された診断である。

 バセドウ病とは脳下垂体の異常によって、甲状腺が刺激され、甲状腺ホルモンが過剰に分泌される甲状腺機能障害の一つである。女性の罹患率が高く、歌手のあやや女優の夏目雅子(故人)などもこの病にかかっている。頻脈、手の震え、膝の脱力、体重の著しい減少、息切れ、疲れやすさなどが主な肉体的症状で、感情の不安定、イライラ感、倦怠感、睡眠障害、知的機能障害などの心理的な症状も出る。病状が重くなると、眼球の突出が見られることもあるという。

 私に眼球の突出はなかった。しかし、長く苦しめられてきた症状は、バセドウ病のそれとほとんど一致していた。にもかかわらず、私を診察した三人の精神科医は、みんながみんな他の病気の可能性を模索することなく、血液検査もせずに私を「うつ病」という精神疾患の枠に押し込めている。

 いずれにしても、このバセドウ病の発覚で、私には精神病院に入る理由がなくなった。ただ、睡眠障害や心身の倦怠感、イライラ感などの精神症状が続いていたことに変わりはない。

 私は「休息のつもりで」という友人のアドバイスに従い、紹介された精神病院に予定通り入院することにした。

 平成二十年三月十一日、私は妻に付き添ってもらうと、JR線に揺られて、息絶え絶えにG病院へと向かった。下車駅から歩いて約二十分。住宅街から離れた雑木林の一角に、その病院がひっそりと建っていた。

 ここでの当たりにした光景が、冒頭のシーンである。すなわち、病棟を終の住処とする長期入院者たちの孤独な背中だった。

1章 四十年の病院暮らし(2)

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