「資生堂の赤い水」薬学から生まれた企業誕生物語
世界の資生堂を作った男・福原有信。薬師として実業家として、己の力を存分に発揮した男の人生を描く著者渾身の評伝小説。

第一章 幕末の章

■私塾入門

   一

 ふくはらありのぶは先導する福原代二郎の背中を見つめながら、大きな屋敷の廊下を進んでいた。磨きのかかった板敷きの廊下は、裸足の足裏に吸いつくようで気持ちよかった。四月半ばのやわらかい春風が頰を撫でて、その意味でも気分はよかった。

 ──細い背中だ……。

 何年か振りに会った代二郎へ有信が感じた印象だった。案内役の代二郎は福原家の遠縁にあたり、五十歳を間近に控えている年回りだった。

 この日──、幕末のげん元年(一八六四)、有信は江戸・本郷きんすけちょうにある私塾を訪ねていた。神田明神や湯島天神からも近い場所だった。

 厳しい指導で知られる高名な学者に会うので、緊張はしていたものの代二郎の案内もありそれほど不安はなかった。

 子どものころ、隣村に住む代二郎のもとへよく遊びに出かけたものだった。歳は三十以上も離れているので親子のような関係ながら、有信の問いかけには面倒がらずに付き合い、また、一緒に遊んでもくれた。父親のゆうりんとどこか風貌も性格も似ていた。有信にとって、大きな人、父のような人というのが代二郎だった。その背中は広くたくましかった。それが今、細く映り、小さくさえ感じられた。

 ──どうしてなのか。

 代二郎の背中はもっと大きなはずだった。結った髷が薄くなっているせいか。あるいは、さして上等とはいえない薄茶の着物のせいかとも思えた。

 考えをめぐらせているうちに、あるひとつの結論に至った。

 ──成長したのだ。

 自分が成長したのである。今、十七歳になっていた。郷里の野山を迷子になるのが怖くて、代二郎につき従って駆け回っていたころの自分ではなかった。

 これまで、幼名・金太郎できていたが、つい先日、江戸入りを前に元服式を済ませ、「有信」と名乗るようになっていた。

 昨日、有信は両親ともども郷里の安房・松岡村を発ち、海路で北上し、夕刻に江戸・両国橋の船着場に上陸した。そして、ひとまず両国広小路のそばの宿に荷をほどいたのであった。

 江戸入りは学問の場を確保するためだった。父、有琳と親しい代二郎は幕府直轄の医学所で教師をしていて、まさに勉学の中枢部に勤めていた。その代二郎の世話で、この日、蘭方医、けんさいを紹介してもらえる段取りになったのだった。

 研斎のもとで門人として長く学んでいた代二郎からは、

「研斎先生は厳しいお方だ。とりわけ時間には厳格だ」

 と伝えられていた。

 そこで、有信は明六つ(午前六時)には起きて身支度を整え、さらに地図も入念に確認した。はじめて歩く江戸の町である。遅刻だけは避けたくて早めに宿を出立したのだった。お蔭で予定していた時刻のほぼ半時(約一時間)前には邸宅の門前に到着した。

 有信は代二郎の背中を見つめて歩きながら、一方で、かすかに匂ってくる甘い香りが気になっていた。

 どこかで嗅いだ匂いだった。

 ──どこだろう?

 懐かしい香りであった。やがて、郷里、松岡村で子どものころに山野で嗅いだ香りだったと思い至った。

 ──どこから匂ってくるのだろう?

 そう思いつつ中庭にふと目をやると、さほど広くはない庭に見覚えのある花が咲いていた。その花は大小の石や庭木と同化して可憐に咲いていた。

「あれか……」

 有信は小さく口にして思わず足をとめた。

 代二郎も立ち止まり振り向いた。

「どうした?」

「あそこにしゅんらんがあります」

 有信はよく手入れされた一画を指さした。

「おお、気づいたか」

 代二郎は感心したようだった。

 細長い葉の密生しているなかから真っ直ぐ伸びた茎の先に蝶形の花が一輪ずつ咲いていた。淡黄緑色の花には紅紫色のまだらがあった。

「良い匂いです」

 早春が開花時期だったが、四月半ばなのにまだ咲いていて、芳香を発していた。

「松岡村の山野を思い出します」

 春蘭は郷里に自生して咲き乱れていた。代二郎とも一緒に摘んだ日もあった。

「研斎先生は蘭学に傾倒するあまり蘭類の草花に親しんでおられる。春蘭ばかりか、しゅうらんも栽培されている」

「熱心ですね」

「うむ、蘭と名のつくものにひときわ愛着を感じておられるようだ」

 有信と代二郎──二人は春蘭に見入り、松岡村の山野で採取した思い出話に浸った。

 しばらくして、代二郎は急に我に帰り、

「少し時間を使ってしまった。行くぞ」

 遅れてはならないと代二郎はやや硬い声で促した。

   二

 それから廊下の角をふたつほど折れたあたりで代二郎は足をとめた。そこが研斎の部屋のようだった。

 代二郎は障子戸の前で、

「失礼いたします」

 とひざまずきながら声をかけた。

 が、中から返事がない。

 代二郎は表情を少し曇らせた。春蘭に気をとられて話し込んでいて約束の時間に遅れてしまったのか。まさかとは思ったが、もしそうであったならかつであった。

 今一度、代二郎は声をかけた。

 すると、中から、

「どうぞ」

 と渋く、落ち着いた声がきこえた。

 代二郎が障子戸を開けると、部屋に和綴じの書物を三、四冊手にした細身の中年男性が立っていた。研斎だった。長くのばした髪を後ろでちゃせんふうに束ねている。黒い紋付きの着物にせんだいひらの袴を身につけていた。

「ちょうど書庫に入っていた」

 待たせたかなときいた。

「いえ、それはありません」

 そう言いながら代二郎は有信を促し、部屋に入って有信を紹介した。

 有信は代二郎の隣に座り、畳に両手をついて、ていねいにお辞儀をした。

 代二郎はさらに有信の出自や生い立ちを伝えた。

 有信は嘉永元年(一八四八)四月、安房国(千葉県)松岡村(現・館山市りゅうおか)に父・有琳、母・の四男として生まれた。幼少時は父親から四書五経を習い、また、菩提寺に通い住職より仏典の講義を受けた。さらに、漢方医の祖父・ゆうさいに薬草やその処方の手ほどきを受け、漢方医学を習った。

 研斎はときおり頷きながら学者風の落ち着いた態度で有信のほうを見つめた。

 研斎は文政七年(一八二四)に武蔵国・府中に生まれた。大国魂神社の職の家の長男だった。蘭方医、伊東玄朴に付いて医学を学び、長崎でシーボルトにも師事した。

 このとき四十歳代はじめの働き盛りで、幕府医学所で蘭方医学を教えるかたわら、私塾を開いて後進の育成にあたっていた。弟子の代二郎もまた幕府医学所で教授を助けて生徒を教えていた。

「先生、途中、中庭で気になることに出会い時間を使いましたので、もしや遅刻してしまったのかと肝を冷やしました」

 代二郎はひと通り有信を紹介してから言った。

「遅刻? まだまだ時間前だ。何がそんなに気になったのだ」

「いえ、今この有信が中庭に咲いた春蘭に気がついて、思い出話に浸ってしまい、つい話し込んでしまったものですから」

「ほう、春蘭に……。春蘭の何を話したのだ」

 研斎は興味を覚えたようだった。蘭の話となると放っておけないらしい。

「春蘭の香りに、採取した思い出がよみがえってきました」

 有信は答えた。

「採取? 栽培したのではないのか」

 研斎がたずねた。

「採取です。祖父とよく山野に分け入りさいやくに出かけたものです。そのとき春蘭も採取しました」

 祖父の有斎は松岡村では知られた漢方医だった。だが、父の有琳は医者を継がず、有信の長兄・陵斎が蘭方医となった。しかし、薬草採取となると、祖父はなぜか有信を同行した。有信は自然と生薬の知識を身につけたのだった。

「採取した春蘭は桜湯風に?」

 研斎はきいた。

「はい、祖父に手伝わされました」

 春蘭の花を桜と同じように塩漬けにしたものを湯に浮かべて飲むのだった。福原家ではらんちゃで通っていた。

「そうか、よほどお様は植物を好んでおられる」

「春蘭を採取する一方、祖父はらんそうを大事に育てていました」

 有信は言った。

「なに、蘭草を」

 研斎は驚いたようだった。

「蘭草を庭で栽培していました」

「これはまた本格的だ」

 研斎はしきりに感心した。

「わたしはあの蘭草の甘い香りが好きでした」

 蘭草は蘭の名が付いているが蘭ではなかった。名はふじばかまで、キクの仲間だった。秋の七草のひとつでもある。秋の終わりころに咲いて、花が枯れたあと芳香を発する珍しい花だった。有信にとって秋の香りだった。祖父は茎や葉を乾燥させて胃腸を整える漢方薬に用いていた。

「春蘭をで、薬用にも資するとは、お祖父様はよほどの生薬の使い手だ」

 研斎はまだ感心していた。

 有信は自分が誉められたようで照れくさく、どんな顔をすればよいのかわからなかった。細面で細い顎の自分の顔がゆるんでいるのを感じた。

「ところで」

 と研斎は改まった口調になり、

「そなたたちは遅刻はしなかったが、もし、わしが入門を断ったらどうする?」

 ときいた。

 この問いかけに驚いたのは代二郎だった。

 代二郎が大きく息を呑むのが有信にきこえた。

「見通しが思い通りにならないことはおうおうにしてありうる。代二郎殿の紹介なので人物は間違いはないと思うが……」

 と研斎は言った。

 有信は戸惑っていた。

 ──入門させてもらえないのか……。

 背中に冷や汗が流れた。

「先生、入門させてください。このまま引き下がるのはいやです」

 と有信は強く訴えた。

「いや、そなたたちを少し驚かせてしまった。入門の意志の強さを確かめたかったのだ。いや、いや、今のそのほうの反応で強い想いを知った」

 そういう心がまえでこれから励んでほしいと研斎は有信にやさしい眼差しを向けた。

「すると、わたしは先生のもとで学んでよろしいのでしょうか」

 有信は塾への入門が許可されたと確信した。

「もちろんだとも。お祖父様からそのような医学の手ほどきを受けている。間違いなく蘭学を習得できるだろう。明日、いや、そなたがよければ今日からでも学ぶがいい」

 研斎はおだやかに口にした。

 有信はあらためて礼を言って、

「今日は何の準備もしてきていません、明日からとさせてください」

 と深く頭をさげた。

 それから両国広小路の宿までの帰り道、有信の心は浮き立った。かつて味わったことのない喜びを感じていた。両親にこの歓喜をどう伝えようか、考えただけで頰がゆるんだ。

 有信の心と体はどこまでも軽かった。

   三

 翌日から有信の研斎塾通いが始まった。

 研斎塾に通うため有信の父、有琳は本郷一丁目に家を借りた。呉服屋を営む大店の離れだった。幕府医学所で教師をしている親戚筋の代二郎が当たりをつけておいた家だった。有信と両親の三人は両国広小路の宿屋から早々にこの家に移り、初日、有信はあわただしく金助町の研斎塾に向かった。

 塾までの道は十分ほどの距離で武家屋敷や町家が細い路地を隔てて建てこんでいる。地図を手にして目指したが、そうでもしなければ迷いそうな道のりだった。

 この日の朝、有信が研斎塾に赴くと代二郎が教学場の大部屋に案内した。

「今日からここで学ぶ福原有信だ。安房国出身で、歳は十七」

 よろしく頼むと一段高い演壇上から紹介した。

 塾生は十五人ほどだった。二十畳ほどの広さの板の間にそれぞれが文机に向かい、えん(注・いぐさで渦巻状に編みあげた座布団)に座っている。部屋は掃除が行き届いていて、雑巾がけも念入りにされていた。

 塾生の多くは医者の子息で、一部に蘭方医をめざす武家の子弟も含まれていた。年齢は二十歳を過ぎた若者がほとんどで、中には三十過ぎの塾生も見受けられた。有信のような十代は一人、二人いる程度だった。

 ──ここで学ぶのか……。

 高い演壇から教学場を見渡すと、学問への意欲とは別に急に心細さに襲われた。

 ──できるだろうか。

 代二郎からも、

「おまえ一人を特別扱いはできない」

 と釘を刺されていた。

 これまでは郷里の松岡村に暮らし、その周辺で学んでいた。しかし、ここは江戸、それも江戸城からほど近い、いわば江戸の真ん中である。これからは新天地での学習になる。

 今回の有信の江戸行きは、ある意味で福原家の将来がかかっていた。有信の成功が、また、医者としての自立が福原家を救うのである。

 福原家の維持──。

 これが十七歳の有信に課せられた命題だった。

 有信の両親も大成してもらいたいという思いで連れ立って来たのだった。有信の上三人の兄たちはそれほど体が丈夫ではなかった。長男の陵斎は蘭方医になったものの前年の文久三年(一八六三)七月に急死している。次男、栄蔵は学問になじめず家屋を守って畑仕事に従事していた。三男の善平は信心深く仏道に入り江戸の寺で修行中である。

 さらに、この年──元治元年四月に漢方医だった祖父、有斎が七十七歳で死去した。

 福原家は代々医者を家業としてきたが、父、有琳は漢籍に長け、その研究と教育に没頭して医者は継がなかった。

 福原家の家業を継ぎ、経済的に支えるのは医者の長男、陵斎のはずだった。が、不運にも急逝してしまった。この事態に、頭脳的に、また、性格、体力、適性などを考慮すると、有信が医者になり家の基盤を固めるのが最適だった。

 祖父も失った今、福原家の再興は有信の双肩にかかっていた。

 有信に期待が集まり、両親の応援があった。弱音を吐いてはいられないのである。

 ──学ぶしかない。

 と有信は心に決めた。入塾は許され、両親も安堵しているのである。ここで甘えは許されなかった。

 代二郎に促され、有信も塾生に向かって簡単に挨拶して席に着いた。一番前の真ん中があてがわれた。

 いよいよ蘭方医学を学ぶのである。

 研斎塾では織田研斎自身が講義をする日もあるが、それはまれだった。研斎は幕府医学所の教授の職に就いていて、これが主な仕事であり、私塾の主宰は余技だった。教壇には代二郎ほかの教師陣が立った。

 講義されたのは西洋医学の基本だった。医学一般や薬物の概要を学び、他に、オランダ語の基礎が講じられた。蘭方で用いる医学用語の解説だった。

 あとは、もっぱら書籍の書写である。

 毎朝、邸内を掃除して教学場の席に就くと、まず墨をたっぷりすった。そして、毛筆を持って蘭書の翻訳本を書き写すのだった。毛筆で横文字のオランダ語を筆写するのは少し厄介だった。

 有信がしばらく通っているうちにわかったのは研斎塾の方針だった。

 自習──。

 自分で学ばなければ何も得られなかった。日々が書籍の筆写で過ぎたといっても過言ではなかった。

 これは研斎塾ばかりでなく他の蘭学塾も同じような教授方法だった。

 豊富な蔵書数が研斎塾を成立させていた。この時代、書籍は貴重品であり、まして蘭学書となると国内に数冊しかないものも珍しくなかった。それを研斎塾は保有していた。

 蘭方医学は有信にとって新鮮だった。人体の仕組みや働きが学べ興味をそそられた。祖父から教えられた漢方医学にはない発想と理論があった。漢方では患者自体の症状の見きわめが重要で、人体構造を追究したり、処方薬の作用を分析するなどは二の次だった。一方、蘭方医学では解剖学や生理学が重視され、治療や投薬にあたって科学的な理由が求められた。

 連日、有信は家に帰って筆写した資料を夜が更けるまで見直した。蘭方で使用される語句を習得しなければ先に進めなかった。

「どうだ、研斎塾は」

 と父、有琳にきかれ、

「ためになる毎日です」

 と有信は答えた。研斎塾通いが楽しくもあった。未知なる学問に接することがこれほど心をとらえるとは知らなかった。

「そうか。励め」

 と父は満足そうだった。

第一章 幕末の章(2)

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