決断するまでには、「本当にこの結論でよいのか」ととことん真剣に考え悩み苦しんできた
在職中いくつもの無罪判決を出し、その全てを確定させた裁判官は、いかにして無罪を見抜いたのか。

第一章 古里と疎開──囲碁棋士・木谷實、父からの期待

父は囲碁棋士・木谷實

──木谷先生は、神奈川県平塚市のお生まれです。少年時代のご記憶は、どういったものですか。

木谷 私の家は大家族です。両親と子どもが八人。きょうだいが多いので、お手伝いさんもいました。両親には、子どものことまで、あまり目をかけてもらえないから、お手伝いさんに遊んでもらった、という記憶があります。

 父は、囲碁棋士の木谷みのる(一九〇九(明治四二)~一九七五(昭和五〇)年、神戸市出身)です。戦前は実力第一人者のような感じでしたが、ちょうど戦争が挟まって打ち盛りの時に碁を打てませんでした。戦後はだいぶ頑張ったんですけど、途中で病気になってしまって……。昭和三〇年代に最高位戦で二期、高松宮賞で一期タイトルを取った以外、大きなタイトルには縁がありませんでした。しかし、戦前に、後で触れる新布石を呉清源さんと二人で開発したことと、自宅に「木谷道場」を開き、数多くの弟子を養成した点で評価されています。門下には、大竹英雄、加藤正夫(二〇〇四年没)、石田芳夫、武宮正樹、小林光一、趙治勲らがいます(一門のプロ棋士は現在五〇人以上おり、木谷實は「現代囲碁界の父」と呼ぶべき存在とされている)

 その「木谷道場」を実際に切り盛りしたのが母・はるです(一九九一年没。遺著に『木谷道場と七十人の子どもたち』日本放送出版協会)。父より一歳年下で、現在の長野県山ノ内町、信州地獄谷という温泉の出身です。地獄谷温泉は当時、訪れる人も少ない秘境で、そこで若き日の父が呉清源さん(日本棋院名誉客員棋士)と、いわゆる新布石を研究したんです。

 碁の戦法は、最初の段階はこういう風に打つものだと体系が完全に出来上がっていました。江戸時代からずっとやってきた碁の戦法、いわゆる旧布石ですが、それを打ち壊すような新しい碁の打ち方を二人で研究し、開発した、ということになっています。その研究結果を大手合(日本棋院の当時の唯一の公式戦)で使って、二人とも勝ち続けた。これで一挙に新布石が大流行した、ということなんです。もっとも、それは一時的でした。その後、新布石に対する対抗手段も現れて、結局、新布石と旧布石を止揚するような形の碁の打ち方(いわゆる「現代碁の打ち方」)ができていった、と言われています。私も碁はあまり強くないから、詳しいことは分かりませんがね。

 きょうだいは、合計八人ですが、二番目の姉が夭折し、私が生まれた年にはもういなかったので、実際に、私が知っているきょうだいは、私を含めて七人で、私は、その三番目です。私と一番関係が深いのは、兄・健一とすぐ下の妹・礼子です。

 兄の健一(元・東大医学部教授。老化研究で知られた。二〇〇八年没)は、何をやっても一番になるような、とても頭のいい人だったんですね。これが結構、弟をいびるわけですよ。兄とは二歳違いで、口では完全にやられます。いびられて、私はいつも兄に反抗して、最後は泣きながら、むしゃぶりついていく……。兄は知能犯だから、その段階では手出ししないで、私に殴られたみたいな感じになるんですね。そのあと母が現れて、「健ちゃんはいつもおとなしいのに、明ちゃんは一体なんです」と怒られる訳ですよ。そこで、「犯罪には必ず動機がある」と。動機や背景を解明しないで、現象だけ捉えて、評価するのは非常に良くないと、あとあと思いますね。それは、後の裁判に影響します(笑)。母は、後年、そのことが分かったようで、最晩年になってからですが、「すまなかったね。よく分かりもしないで叱ってしまって」と謝ってくれましたけどね。私はむしろいい経験をさせてもらったと思っています。後の裁判に非常に役に立ちました(笑)

 礼子は、二歳違いの妹です(一九九六年没。夫は小林光一九段)。これは後に「碁打ち」(プロの囲碁棋士)になりました。その下に、後に毎日放送のアナウンサーになった妹・吉田とも(二〇〇九年没)らがいます。

古里の記憶

──古里の平塚について、語っていただけますか。

木谷 実家から二〇分も歩けば海、相模湾です。平塚は良いところです。気候が温暖で、東京にもそう遠くない。自然がいっぱいです。家の近くは住宅街ですが、西に花水川、東に相模川(の下流の馬入川)があります。川には、父がよく投網を打ちに連れて行ってくれました。でも、父が投網をいつ、どこで覚えたのか分からないんです。私と同様、何をやっても非常に不器用な人で、機械ものは全然ダメでしたが、投網だけは、どこかで習ったんです。

──お父さまは少年時代に、碁の修業のため上京されたんですね。

木谷 八歳くらいの時、関西で入門しています(久保松勝喜代八段に入門)。その後、先生が何人か変わって、東京へ出てきたのは一二歳です(鈴木為次郎名誉九段の内弟子に)。どこかに投網を教えてくれた人がいたんでしょう。不器用な父にしては意外と上手に網を打つ。投網は難しいんです。網がなかなか開かない。うまく腰を使って、ヒュッと投げなきゃいけない。ただ、父が投網をしても、私は、やりませんでした。見ているだけです(笑)

 父の趣味は、投網のほかは、卓球とマージャン、将棋などの勝負事です。お酒、煙草は一切やりませんでした。祖父が大酒飲みだったらしく、「自分は苦労したから、俺の代で酒は断つ。酒と煙草は自分の代で絶つんだ」と言っていました。「禁酒禁煙我が家の宝」と書いた色紙を額に入れて、茶の間にかけてあるんです。だから、父が健在のうちは、お弟子さんが来ても、お酒は絶対飲ませてもらえませんでした。私も二〇歳になるまでは、つまり父の目が届かなくなるまでは絶対に飲まなかったですね。お酒というのは、非常に良くないものだと、すり込まれていたのでしょう(笑)。煙草は今でものんだことがありません。お酒も大学に入ってコンパなどで最初は飲んだ真似をしたり、一口なめてみたりしたことはありましたけど、ほとんど飲んでなかったですよ。大学三年くらいから次第に飲むようになりましたが。

国民学校に入学

──終戦の前年、一九四四年(昭和一九年)四月、平塚市立第一国民学校に入学されます。小学生時代は、どういう少年でしたか。

木谷 軍国少年です。先生に、「君は大きくなったら何になりますか」と聞かれ、「強い軍人さんになって、御国のために尽くします」と答えて、えらく褒められた。当時は完全にすり込まれていました。教育は恐ろしいですね。

 遊び相手は、だいたい家では兄です。二人で紙飛行機を作ったりチャンバラごっこをしたりして遊んでいました。昭和一九年の確か運動会の時に空襲が来たんです。それからは、どんどん空襲が来るようになりました。一年生の頃の遊びというと、戦争ごっこをよくやったのを覚えています。

 私は、とりわけボヤっとしていたんです。ぼんやりした子で、ひ弱でした。勉強でも、兄は何も勉強しなくても全優をもらって学年で一番になるような人で、いつも褒められるけど、弟はイマイチだと思われていましたね。

父の応召と空襲

木谷 この年(一九四四年)には、父の応召もありました。父が兵隊に行ったんです。私も詳しいことは分からないんですけど、教育召集だったということです。朝鮮半島へ行き、六か月くらい教育を受けて帰ってきました。

 父は私よりもさらに要領の悪い人ですから、いろんな訓練でしょっちゅうヘマをやったそうです。一番よく聞かされたのは、機関銃を持って走る「二人搬送」のことです。機関銃は相当重いのに、「碁石より重い物を持ったことのない」人が機関銃を持って走らされ、すぐへたりこんでしまった。そうすると、連帯責任で相棒も一緒に殴られる訳です。随分と殴られたらしい。だけど、それはうまい具合に半年で解除されて、その後、戦争に行かずにすんだんです。後年、兄が「(軍隊の)上司の人が親父のことを分かっていて、才能がもったいないから、早く除隊できるような方法をとってくれたらしい」と言っていました。どこまで本当のことか知りませんけどね。そんなことで、昭和一九年の秋には、父は帰ってきました。だから、その後は家族と一緒の生活でした。

──で、だんだん空襲が激しく……。

木谷 防空壕に逃げ込んでも、バリバリバリと機銃掃射がありました。日本軍は高射砲を撃っているけど、全然当たらないようでした。ビューンという飛行機の音とか高射砲の音とか、バリバリバリという機銃掃射の音が耳に残っています。怖かった。必死になって逃げていました。学校で授業を受けていても、警戒警報、空襲警報が鳴ると、「授業やめて帰れ」と言われるんです。防空頭巾をかぶって自宅に帰される。ところが、途中に踏切がある。その踏切が閉まっていると、いっぱい子どもが並んでしまう。そんな所へ帰して本当にいいのかなと今思うんですが、「帰れ」と言うから一生懸命に防空頭巾をかぶって帰っていました。そんなことは、しょっちゅうでした。

 そんな中、自宅の庭に防空壕が掘られました。自宅は借地なんですが、敷地五五〇坪、建坪一〇〇坪ほどの大きな邸宅でした。そこで大勢の人が生活していました。空襲が来て警戒警報が空襲警報になると防空壕に逃げ込む、という生活です。ところが、小さい妹が三人いて、連れて逃げるのが大変なんです。防空壕に入るのも容易なことではありません。ある時、「そら逃げろ」と防空壕に入ったことがあります。ハッと気がついたら、妹三人の真ん中がいない。外を見ると、屋敷の縁側でワアワア泣いている。でも、「ババババッ」と機銃掃射の最中ですから、助けに行く訳にもいかない。みんな息を潜めて飛行機がいなくなるのを待って、ようやく連れ戻しました。母方の祖母が信州地獄谷から出てきて、母に「お前は自分の子どもを殺す気か」と言った、と後から聞いています。

 それで、昭和二〇年初め頃、乳飲み子であった末の妹(信子)を除く妹二人は、疎開のため地獄谷の母の実家に預けられました。五歳と二歳です。残りの家族は五月末頃、山梨県の山中湖畔へ疎開しました。湖畔の旭が丘というところに、父の後援会の会長さん──後の日興証券会長の遠山元一さん──の別荘があり、その別荘を借りられるということで、一家で引っ越したんです。その後、父は、地獄谷から妹二人を連れて帰り、ようやく家族で生活できるようになりました。

疎開暮らし

──疎開暮らしは?

木谷 疎開当時の良い思い出は全然ありません。そりゃ、みじめなものです。大体が田舎ですし、まるで言葉も違います。なかなかなじめませんでした。

 学校は、湖畔を四分の一周くらいした山中村という所にありました。普段はバスで行きます。確か、転校初日だったと思いますが、母が学校に連れていってくれて、帰りのバス代として五銭玉か十銭玉を渡してくれたんですけど、帰ろうと思ったらお金がない。途方にくれて、トボトボと歩いて帰りました。その間中、心細くて、家に帰り着くなり、母に「わあ」と泣いて抱きついた。その時だけは、私は母に抱いてもらった記憶があるんです。その後は、母に抱いてもらったという記憶はありません。父が「大竹七段」としてモデルになっている川端康成の小説『名人』では、私は母に抱かれているんですが、この時はゼロ歳児ですから記憶がありません。その後は、子どもがいっぱいいて、ちょっと大きくなった子どもを抱いて可愛がってくれるような状況じゃありませんからね。そういう意味では、親の愛情には飢えて育ちました(笑)

 食べるものは、本当にありませんでした。火山灰地帯で作物ができず、配給も届かない。母は一生懸命に野菜を作ろうとしていましたが、うまくできなくて、だいぶ焦っていました。だから、その頃、ろくなものを食べていません。

──疎開中のお父さまは、どういうお暮らしを?

木谷 対局などはほとんどできませんから、食糧を確保するため、平塚方面と疎開先とを一生懸命に往復していたんでしょうね。食糧を買い出しに行っては持って帰ってくる。一番大切なタンパク源として、その頃からヤギを飼っていたんです。ヤギを何匹も仕入れて、お弟子さんの筒井さん(筒井勝美三段)と二人で平塚からずっと歩いて、山中湖まで二、三匹連れて来た。ヤギが来てからは、その乳が飲めるようになりました。ある時、二人がヤギを連れて歩いている間に空襲が来て、夜でしたが、ヤギは白いから標的になるんです。父が「心配した」と言っていました。

──お弟子さんは一人だけですか。

木谷 いっぱいいましたが、戦争が激しくなった段階でみんな実家に戻してしまって、その頃は、当時一五歳くらいの筒井さんが一人だけでした。

第一章 古里と疎開──囲碁棋士・木谷實、父からの期待(2)

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