竹中平蔵――“超格差社会”を作った男の虚実
2013年に第45回大宅壮一ノンフィクション賞と第12回新潮ドキュメント賞をダブル受賞した『市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像』の文庫版

1章 和歌山から東京へ

競争心

 アメリカ軍の爆撃機が和歌山市内に大規模な空爆を行ったのは、日本が降伏する一ヵ月前のことだった。大空襲で市街地の七割が焼失した。敗戦後、和歌山市は戦災都市に指定され、和歌山城をいただく城下町は復興していくことになるが、市内にはわずかながら戦前そのままの風情をとどめる場所もあった。そうした戦災をまぬがれた一画に、戦後まもなく結婚した竹中那蔵・明子夫婦は居を構えた。

 和歌山の南部まで抜ける国道四二号線を、和歌山城から南へ一キロほど下った道路沿いに、古めかしい木造二階建ての建物はあった。住居と店舗がいっしょになったつくりで、隣り合っていくつか同じような店舗が並んでいる。小さな商店が集まった長屋のようでもある。ここで竹中夫婦は履物店を営んでいた。平蔵が生まれたのは一九五一(昭和二六)年三月三日。男ばかり三人兄弟の次男である。

 竹中履物店のすぐ隣の店で育った三瀬博三は、父親の後を継いで帽子店の主をしている。

「ぼくのところは昭和三年から父親がやってたんやが、建物は大正時代ぐらいに建てたものやったんと違うかな。土地はこのへんをもってる地主から借りてね。竹中さんはあとからきたな。鈴木さんという人が靴屋さんをやっておったんやけど、出ていったのでそこに入ってきはった」

 一九三三(昭和八)年生まれの三瀬は、竹中那蔵の仕事ぶりをいまも覚えていた。

「いかにも商売人という人やなくて、どちらかというとおとなしいまじめな人という感じやったな。下駄の裏に通した鼻緒の先が切れたりするから、キリみたいなもので鼻緒を穴に入れ込んで、打って、金具で留めて。そんな工作もせんならんから、やっぱり職人仕事なんやろうね」

 下駄を扱っていたので、竹中履物店は「下駄屋さん」と呼ばれていたという。かつての客が語る店主那蔵の姿も、三瀬が語ったように「実直な商売人」である。「いつもシャツをピシッと着て、少し神経質そうやった」「靴の選び方を丁寧に教えてくれた」

『朝日新聞』に「おやじのせなか」と題した連載シリーズがある。各界の著名人が父親を語る企画である。ここで竹中平蔵は父・那蔵について語っている。(二〇〇七年四月一五日付)

 おやじはゲタの商家に生まれ、でっち奉公に出されて一人前になったそうです。終戦で兵役から戻り、和歌山城を望む商店街に小さな履物店を構えた。

 ボクはまさに、おやじの背中を見て育ちました。いつも店の奥に座り、せっせとゲタの緒をすげていた。商売人だけど職人に近い。朝8時ごろから店を開け、夜は10時過ぎまで働く。「手広く商売を」なんて考えずコツコツとまじめひと筋。「毎度ありがとうございます」ってね、深々と頭を下げていた。

 口数の少ない人です。「勉強しなさい」などと言ったことがない。ボクは小学3年生ごろまで、おとなしくて目立たない子でした。誰も信じてくれないけど。実は今も一人で本を読んだり、思索を巡らせたりするのが大好き。こんな一面は、おやじに似ているのかもしれない。

 ただボク、兄、弟の3人に繰り返し言ったので、強烈に頭に焼きついた言葉があります。「おまえたち、いい時代に生まれたなあ。好きなことを何でも、自由にできるよ」。詳しく語りませんが、戦時中は我慢することばかりで、余程つらかったらしい。「精いっぱい夢を追いかけてみろ」というメッセージだったと思います。

 竹中はインタビューなどで何度か、「父親が一生懸命に働いているのに豊かにならないことに疑問を感じた」と語っている。だが、裕福とはいえないまでも、「貧しい」というほど竹中家が経済的に困窮していたわけではない。隣の帽子店で育った三瀬は、三瀬や竹中が育った土地の風土についてこんな話をした。

「ここらへんは都市でありながら保守的やね。徳川御三家、八代将軍吉宗の城下町やったから。武士ふうというか質実剛健というのか、武士の気風の名残みたいなものが残っておったんやろうね。大地主もおったろうし、大金持ちもおったろうし。近くに武家屋敷みたいなものがあったしね」

 竹中が通った和歌山市立吹上小学校の校区内には、武家屋敷跡に大きな邸宅が並ぶ住宅街があった。国道四二号線の大きな道路をはさんで向こう側、竹中の家からもそれほど遠くない距離である。

 同級生の脇本弘(仮名)は、父親が事業を経営していて経済的には恵まれた家庭で育ったと話した。

「ここで育ったということは竹中君にとっては大きかったんと違うかな。ぼくは小学生のときに竹中君の家に遊びにいったりしていたけど、家の大きさでわかるというのは子供ながらにもありますからね。吹上小学校は名門の、というかお金もちの住まいも多かったから、そういう格差がほかより残っているところだったと思います。お金もちの家に生まれていたら、いまの竹中平蔵はなかったと思うな」

 吹上小学校は公立の学校だけれども、かつては越境して通学する児童があとを絶たないほど和歌山県内での評価は高かった。教師たちも教育に熱心で、職員会議が夜の一〇時や一一時まで長引くこともめずらしくなかったという。

 熊沢芙佐子は小学五年生、六年生と二年間、竹中のクラスを担任していた。

「先生方がみんなで若い先生を教えるんです。私もほんとうに鍛えられました。授業のなかに問題解決学習というのがありましてね。生徒に初めて読ませる文章について、ここに感動したとか、主人公はどうして泣いたのかとか、生徒自らが問題をつくりながらこのテーマで考えましょう、という形で進めます。生徒たちが疑問を出しあうわけです。こういうのがよくできたのが平蔵君でした」

 授業で誰かが意見を発表すると、さっと手をあげ、「ちょっと違うと思います」といって意見を述べはじめるのが竹中だった。

「いつのまにか、へいちゃんが議長みたいになって、みんなの意見をまとめていくんです。ふだんはおとなしい子なんですけどね。勉強するというより、知識を獲得するという言い方がぴったりくるような感じの子供でしたよ」

 小学生のころ、竹中は私塾に通っていた。元小学校教師の坂本三代が個人的に営む小さな学習塾である。

 一九二四(大正一三)年生まれの坂本は祖父の代から続くクリスチャンだった。東京・お茶の水のニコライ堂を本拠とするハリストス正教会の流れをくむ宗派である。ボランタリー精神が旺盛な坂本は、和歌山のガールスカウトを立ち上げてもいる。学習塾を主宰していたのも「人間は教育によって変わるんじゃないか」という考えから、新しい教育を実践するつもりで始めたのだという。

 竹中家の三兄弟が坂本のもとに通うようになったのは、母・明子が近所の子供が坂本の塾で学んでいることを知り、自分の子供も教えてほしいと坂本に直接頼み込んだのがきっかけだった。

 坂本は、塾で勉強する竹中の姿をよく覚えていた。

「たとえば五人で勉強をしていても、最後まできちっと座っていることができたのはへいちゃんだけでした。ご家庭でのしつけがしっかりしていたんだろうと思います」

 算数の問題の解き方を教えてほしい、と竹中がいってきたことがあった。みると、中学校で習う二元一次方程式を小学生用にアレンジした問題だった。

「○をX、□をYに置き換えてみるとどうなるか、やってみてごらん」

 坂本がそういうと、竹中は中学校の数学で習う方程式の解き方で問題を解いた。

「へいちゃん、数学というのはここから発展するのよ」

 坂本がほめると、

「そうか。数学数学いうけど、簡単やねんなあ」

 竹中は一大発見をしたかのように喜んだ。

 坂本の塾では、五人から七人ぐらいの子供がいっしょに勉強していた。時間が長くなると、しびれを切らせた子供が、勉強中の竹中を挑発することがしばしばあった。

「ヘイコウ!」

 竹中が相手をしないで勉強を続けようとすると、「ヘイコウ!」としつこく叫ぶ。そんなときは竹中が言葉を発する前に坂本が割って入ったという。

「あだ名ではあるけど、呼び方のニュアンスでわかるじゃないですか。私は子供がそういう言い方をしたときは怒りましたよ。平蔵さんは、ヘイコウって怒鳴った子供に対して怒ることはありませんでしたけど、私がきちんと怒るかどうかは見ていました。私が信頼できるかどうかを見ていたのでしょうね。きちっと怒ったことに対しては満足していたと思います。けれども彼は怒鳴った子には何も言わないんです」

 同級生の森本道夫は、小学生のころ、竹中と毎日のように顔をあわせていた。遊びといえば野球だった。自他共に認める親友だった森本が戸惑いをおぼえるようになったのは小学校六年生のころだった。ときおり竹中が激しいライバル心を抱いているような素振りを見せるようになったのである。もっとも、学業に限ってのことだった。少しいいにくそうに森本は話した。

「ぼくのほうはそんな意識はぜんぜんなかったですけどね。中学校でも学年があがるにしたがって、平蔵が(成績のことを)聞いてくるようになったんです。ぼくはそういうのはちょっとあれやったから……」

 中学校三年生のときだった。森本は、学外で業者が実施するテストを受け、和歌山県内の成績上位者に入った。森本と竹中が通う西和中学校から受験した生徒のなかでは一番成績がよかった。

「ぼくも受けたらよかったな」

 森本から成績結果を聞くと、竹中はそういった。テストを受けていれば自分が一番になっていた、とでも言いたげな物言いだった。森本は内心むっとすると同時に、なにか割り切れない気持ちがした。お互い高め合ってともに歩んできたという思いをもっていたからである。

「いっしょにがんばったらええやんかと思っていたからね。平蔵だって勉強はよくできたし、ぼくに競争心をもつのは違うだろうと。そういうのは勘弁してくれ、と。そういうことで、ぼくのほうから平蔵と少し距離を置くようになったんです」

 思い当たるきっかけがひとつあった。知能指数IQテストである。

 IQテストの結果は生徒本人にしか知らされないはずなのだが、一部の保護者たちが小学校六年生の森本のIQを知るところとなった。先生が、学年で一番IQが高かったのが森本であることを保護者会でつい漏らしてしまったのである。母親から知らされて森本は知ったのだけれども、露骨な競争心を竹中が示すようになったのはちょうどそのころからだった。森本にはそれ以外理由を探すことができなかった。

第1章 和歌山から東京へ(2)

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