優勝しなくても面白かった 村山、江夏、田淵の時代
阪神タイガース、苦難の、だが、血沸き肉躍る時代――。
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序章 「二人のエース」と二度の優勝  

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■村山実の入団

 一九六〇年代の阪神タイガースのエース、むらやまみのる(一九三六~九八)のプロ野球人生は一九五九年に始まった。

 村山は兵庫県尼崎市出身で、高校時代から野球部で活躍していたが、甲子園には行けなかった。大学進学にあたり、東京の立教大学野球部のセレクションを受けたが、身長が低い(一七五センチだった)との理由で落ちてしまった。

 もし立教に入っていれば、ながしましげ(一九三六~)の一学年下、野球部ではチームメイトになっていたはずだ。村山と長嶋は生年こそ同じだが、長嶋は二月生まれ、村山は一二月生まれなので学年では長嶋が一つ上になる。

 立教大学野球部の見る目がなかったがために、村山のなかに「打倒・東京」の思いが芽生え、やがて「打倒・巨人」「ライバルは長嶋」という思いへと熟成されていく──という「物語」が、ここに誕生する。もっとも、本当にそうかどうかは分からない。大学卒業時の村山の選択肢には巨人もあったのだ。

 一九五五年四月、村山は関西大学に入学し、当然のように野球部へ入った。名門野球部だったので新入生は約八十人もいたというが、一年で半分に減った。村山も一年の時はレギュラーではない。同年に入部したなかに、後に阪急ブレーブスで監督となるうえとしはる(一九三七~)がいた。上田はキャッチャーだったので、村山とバッテリーを組むことになる。

 村山は入部したものの、上級生のなかに名投手がいるので、試合には出られない日日が続いた。しかし二年になる直前、三年でエースだったほうもとひであき(一九三五~)が中退して中日ドラゴンズに、さらに二番手のピッチャーだったなか西にしかつ(一九三五~二〇〇九)も中退して毎日オリオンズに入団した。当時はドラフト制度がなく自由競争で、高校生や大学生が中退してプロに入ることはよくあった。

 二人の先輩がいなくなったことで、二年生の村山に出番がまわってきた。そして一九五六年春の関西六大学のリーグ戦で関西大学は優勝した。そして夏、東京・神宮球場での全日本大学野球選手権に出場し、優勝したのである。この全日本選手連での活躍で、プロのスカウトたちは村山に注目するようになった。

 村山の投げ方は「ザトペック投法」と称されるが、そう命名されたのがこの大会だった。ザトペックは、一九五二年のヘルシンキ・オリンピックで活躍したチェコスロヴァキアの長距離ランナー、エミール・ザトペックのことだ。「人間機関車」と称され、このオリンピックで五〇〇〇メートル、一万メートル、マラソンで金メダルを獲得し、苦しそうにあえぎながら走るので知られていた。村山は自伝『炎のエース』で自らこう書いている。〈私のマウンドの姿が、一球ごとに全力投球でしかめっ面をして、いまにもブッ倒れそうな、いかにも苦しそうに投げる。そのくせ、ちゃんと完投してしまうので、新聞が「ザトペック投法」と見出しをつけた。〉村山のこうした姿はプロに入っても変わらなかった。いや、ザトペック度はより増していく。

 長嶋のいる立教大学は、この五六年は全日本選手権に出場できなかった。東京六大学で優勝したのは早稲田大学だったのだ。翌五七年に立教は優勝したが、この年は三年の村山が肩を壊し、関西大学は出場できなかった。翌五八年は立教も関西大学も出場したが、長嶋はもうプロで活躍していた。東西の大学リーグでそれぞれ活躍していた村山と長嶋は、全日本大学選手権の場では、一度も対決していない。

 さて、一九五六年、優勝した二年生の村山のもとにプロのスカウトが殺到した。なかでも読売ジャイアンツは熱心だった。ところが、三年になったとたん、村山の肩に激痛が走り、はしも持てなければ歯も磨けない事態となった。

 この時、関西大学の先輩で、タイガースの球団代表だったなかよしかず(一九〇四~六一)が、厚生年金病院を紹介し、親身になって世話をしてくれた。田中は「君にタイガースに来てほしいからなんていうケチな根性は持っていないから安心しろ。君が心配な、一先輩なだけだ」と言って、世話をしてくれた。

 村山は熱心に誘ってくれていた巨人のスカウトにも相談し、球団のトレーナーに診てもらえないかと頼んでもいた。しかしまだ学生である村山を巨人のトレーナーが診ることは、プロとアマチュアとの間の規定に抵触すると断られた。それはそれでもっともな話だったので、村山も恨んではいない。しかし、村山が肩を痛めていると知った巨人のスカウトは、それまでは足繁く通っていたのに、来なくなった。そういうものなのだ。村山は巨人から「世間の厳しさ」を学び、阪神の田中からは「人情」を教えられた。

 もう野球選手としては終わりか──村山はあきらめかけていたが、四年になると簡単に治った。右脇下にできていた軟骨が激痛の原因と判り、その除去手術をしたからだ。

 復活した村山の活躍のおかげで、関西大学は一九五八年の関西六大学リーグで春・秋の連覇を成し遂げた。これでまた各球団のスカウトがやって来た。肩を痛めたと知るとてのひらを返したように来なくなった巨人のスカウトは、またも掌を返したようにやって来て、二〇〇〇万円の契約金を提示した。前年に入団した長嶋の契約金は一八〇〇万円と伝えられているので、村山への提示はそれよりも高い。一方、タイガースが村山に提示したのは五〇〇万円だった。巨人の四分の一である。

 しかし、村山は将来の展望がなくなっていた時に親身になってくれた田中への恩義を忘れなかった。だから契約金が四分の一のタイガースへ入団した──というのは、美談過ぎる。村山自身もそんな美談にはしていない。「阪神電鉄に入社し、そこからタイガースへ出向する」という条件にかれたのだ。村山は肩を故障した経験から、野球選手は怪我をしたらおしまいだと痛感していた。ジャイアンツに入れば最初の契約金は高額だが、その後の保障はない。その点、タイガースなら野球選手として大成できず若くして引退に追い込まれても、阪神電鉄社員として生活が保障される。村山は熱血漢ではあるのだが、冷静な計算もできる人だった。

 かくして、村山実は阪神電鉄に入社し、五九年春からタイガースへ出向し、その年の開幕から投手陣の主軸のひとりとして投げるようになったのだ。

■二リーグ制とタイガース分裂

 日本のプロ野球が二リーグ制になったのは一九五〇年からだった。

 それまでは八チームしかなかったが、GHQの要請や読売新聞社内の派閥抗争、読売と毎日新聞社との競争など、さまざまな要因と人脈がからみあって、球団は一挙に一五に増え、八球団がセントラル・リーグ、七球団がパシフィック・リーグを結成した。

 球団数が増えたが、選手の絶対数はそれほど変わらない。既存の球団から新球団へ引き抜かれる選手が多かった。なかでも、タイガースは主力選手の多くが新設の毎日オリオンズへ移籍し、チームは弱体化した。一リーグ制時代の一九四七年に優勝したのを最後に、一九六二年まで一五年にわたり優勝できなかったのは、この時の主力選手の大量退団が影響していた。

 一九五〇年のセ・リーグは松竹ロビンス(後に大洋ホエールズと合併、現・横浜DeNAベイスターズ)が優勝した。しかし翌年からは、読売ジャイアンツの黄金時代となる。一九五四年は中日ドラゴンズ、六〇年は大洋ホエールズが優勝したもののそれ以外の九シーズンは全て、巨人が優勝した。

 この一九五〇年代の巨人の監督はみずはらしげる(一九〇九~八二)である。一九三六年に入団して戦前の「巨人第一期黄金時代」の主力選手のひとりとして活躍したが、一九四二年に応召、戦後はシベリアへ抑留され、一九四九年七月にようやく帰国した。

 その四九年シーズンが終わると、ジャイアンツの選手間で監督のはらおさむ(一九一一~八四)への反発が高まり、排斥運動が起きた。当時は監督を排斥するほど選手が強かったのである。球団は、監督だった三原を総監督に祭り上げ、帰国した水原を復帰させて選手兼任監督にした。三原はこのシーズンは総監督になったものの何もすることがなく、翌五一年から福岡の西鉄ライオンズへ行く。

 兼任とはいえ一九五〇年の水原は選手としては七試合しか出場せず、監督専業に近かった。この年は三位だったが、翌年は優勝し、以後、水原時代の巨人は六〇年までの一一シーズンで八回の優勝、二位が二回、三位が一回という成績をのこした。

 巨人で水原監督体制が一一シーズンにわたり続いている間、タイガースの監督は五人もいる。

 二リーグ分裂で弱体化したタイガースは、一九五〇年から五四年まではまつけんろう(一九〇九~八六)が監督を務めた。松木は一九三五年の球団創立時からのタイガースの選手で、一九四〇年と四一年には選手兼任で監督も務めた。その後は戦争で出征し、実質的には引退していたが、二リーグ分裂によるチームの危機にあたり、五〇年から選手兼監督として復帰、さすがに選手としては五一年で引退したが、以後も五四年まで監督を続けたのだ。

 松木時代、一九五〇年は四位で、五一年は三位、五二年は二位、五三年は二位、五四年は三位である。しかし、松木は五年にわたり優勝できなかった責任を感じ、五四年のシーズン終了後に辞任した。七月二五日の大阪球場でのドラゴンズ戦で、審判と判定をめぐりトラブルとなり、ふじむら(一九一六~九二)と監督の松木が退場になり、さらには「放棄試合」になった事件も、監督を辞めた理由のひとつのようだ。松木はこの時の球団側の対応に不満を抱いていたのだ。

 松木の後任はプロ野球での経験のないきしいちろう(一八九四~没年不詳)という人物だった。岸はタイガースのファンで「タイガース再建論」を書いて球団へ郵送した。これを読んで感激したオーナーのせいぞう(一八九五~一九七八)が、この人を監督にして再建してもらおうと思い付き、強引に決めたものだ。

 岸は選手としてもノンプロでしか経験がなく、監督も大学の野球部で数年務めた経験しかない。そんな素人同然の人物がプロの監督になっても、選手が言うことをきくわけがない。若手が育っていたので積極的に起用し、選手の新旧交代を図ったこともベテランから反感を買った。先発ローテーションシステムの導入など画期的なこともしたが、シーズンが始まって三三試合にして岸は辞任に追い込まれた。表向きは、「の治療のため」という理由だった。シーズンの残りは選手兼任の助監督だった藤村富美男が指揮を執り、三位になった。

 藤村は翌シーズンから正式に監督となり、五六年は二位になった。しかし、スター選手でもあった藤村は、他の選手から反発を受け、シーズンオフにはかねまさやす(一九二〇~九二)を中心とした主力選手が藤村監督更迭を球団に求める連判状に署名するという事件が起きた。暮れも押し迫った一二月三〇日に、球団のざわかずたか代表(専務取締役)と藤村、そして金田の三者が話し合い、翌シーズンも藤村が指揮を執ることになった。その五七年も二位だった。

 一九五八年、藤村は監督を辞任し、一選手に戻ることになった。後任の監督はハワイ生まれの「カイザー田中」の愛称で知られるなかよし(一九〇七~八五)だった。戦中の一九四四年までタイガースで捕手として活躍していたが、召集され引退した。

 田中が指揮した一九五八年も二位だった。このシーズンは一選手に戻っていた「ミスター・タイガース」こと藤村富美男は四二歳になっており、二六試合、それもほとんどが代打としての出場のみで、シーズン終了後の一一月に現役引退を決めた。その藤村と入れ替わるように村山実が入団したのである。

■「ミスター・タイガース」と「打撃の神様」

 村山実は入団して最初のシーズンから一軍で活躍した。

 その村山がプロとして初めて登板した試合は、一九五九年三月二日の甲子園でのジャイアンツとのオープン戦だった。この試合は前年のシーズン終了後に引退を発表した藤村富美男の引退試合でもあった。前日の日曜日に予定されていたが雨で順延となってしまった。平日だったが、名選手の最後のユニフォーム姿を見ようと三万人のファンが甲子園に詰めかけた。多くの引退試合がそうであるように、当人である藤村は先発メンバーではなく、後半に代打として出るはずだった。

 一方、ジャイアンツでも、かわかみてつはる(一九二〇~二〇一三)が前年の日本シリーズ終了後に現役引退を表明し、このシーズンから水原茂監督の下でコーチとなっていた。

 五回表、藤村は一塁の守備についた。観客は万雷の拍手で迎えた。その裏のタイガースの攻撃になると、今度は川上哲治が一塁の守備についた。藤村の引退試合に花を添えようというライバルチームの演出だった。

 六回表、ジャイアンツの攻撃はその川上からだった。ライバルチームのいきなはからいにこたえようと、タイガース監督の田中義雄は村山を呼んだ。そして、

「みんなが期待している。相手は打撃の神様・川上だ。神様だって血が通っている。一番得意な球を、インサイドにずばっと決めて驚かせてやれ」と言って、マウンドへ送った。

 マウンドに立った村山は、第一球を投げる時、これが「Do Or Die」なのかと感じ、ひざが震えた。「やるか、やられるか」という意味だ。バッターボックスの川上は気迫がみなぎっていた。オープン戦で、しかももう引退していたのに、「打撃の神様」はルーキーに真剣勝負を挑んでいた。

 村山は初球、フォークボールを投げた。当時の村山はコントロールが定まらなかったのだが、この時は奇跡的に、川上の右膝のあたりに落ちた。川上はバットに当てるのが精一杯で、球は前へ転がり、村山の足元へのゴロとなった。村山の勝ちだった。

 一塁へ走った川上と、守っていた藤村の視線が交錯した。二人は、にやりと笑いあったが、無言だった。去りゆく名選手同士に言葉などいらないのだ。

 打撃の神様・川上哲治と、炎のエース・村山実の、打者と投手としての対決は、このわずか一球で終わった。しかし、この後、ジャイアンツの監督となった川上とタイガースのエース・村山とは、まさに死闘を繰り広げるのだった。

 六回裏、二死、走者一・三塁の場面で、藤村富美男が登場した。そして彼もまた最後の打席に真剣勝負で臨むも、一塁後方へのファウルフライで終わった。

 これが、ミスター・タイガースと称された藤村富美男の最後の打席だった。

 村山はこの日、川上を含めて七人の打者を相手に被安打一、無失点で二回を投げ切った。そのなかには終生のライバルとなる長嶋茂雄もいた。ジャイアンツのルーキーとしておうさだはる(一九四〇~)もライトで出ていた。

 試合は七対三でタイガースが勝ち、藤村引退を飾った。藤村の背番号10はタイガースの永久欠番となる。

 いまから思えば、この試合は、タイガースの101123、そしてジャイアンツの1316と、六つの永久欠番となる選手が揃った唯一の試合だった。

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序章 「二人のエース」と二度の優勝(2)

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