経済学のレンズで歴史を学ぶと、ビジネスのヒントが見えてくる
宋銭を知れば仮想通貨がわかる? 働き方改革は徳川吉宗に学べ? 歴史を読み解きながら経済学の知識を身につける知的冒険の書。

1章 貨幣の経済学

introduction

貨幣の過去から貨幣の未来を読み解く

 近年、暗号通貨について議論が活発化しつつあります。暗号通貨のさきがけとなったのはビットコイン(BTC)です。ビットコインのアイデアは、著者名としてサトシ・ナカモトと記載された論文にまとめられています★1。この論文をもとに、暗号通貨あるいはブロックチェーンという技術への注目が集まりました。特にブロックチェーンは、決済システムなどプラットフォーム・ビジネスにも幅広く応用されています。暗号通貨については、ビットコインのほかにもすでに4桁に達する種類が出回っています。

 暗号通貨をめぐるビジネスには様々なものがあります。暗号通貨を持たせるビジネスもあれば、暗号通貨を発行して資金を調達する仕組みも生まれています。読者の中には、すでに何らかの暗号通貨のビジネスチャンスに恵まれた方もおられるかもしれません。

 そして誰もが喜ぶ儲け話に終われば良いのですが、そうもいきません。暗号通貨をめぐっては、様々なトラブルが頻発するようになりました。私たちは、暗号通貨に対する理解を深める必要がある、そういう時代を生きているのです。

 暗号通貨の仕組みは、現代の貨幣と異なります。ただし、現代と異なるということなら、過去の貨幣の仕組みも同様に現代と異なります。そして過去の貨幣の中には、暗号通貨の仕組みと共通点を持つものがあります。現代と異なる仕組みが現れつつある時代は、過去の出来事から多くのことを学ぶチャンスに満ちています。

 本章は、何らかの特定の暗号通貨や暗号通貨ビジネスを勧めるものではありません。暗号通貨がどうなるのかを予言するものでもありません。本章の主眼は、暗号通貨という現代的なトピックをふまえたときに、貨幣の経済学的な意味を歴史からどのように紐解けるのか、を整理することにあります。

 暗号通貨の特徴を知るヒントとして、貨幣経済の歴史から3つのトピックを取り上げます。鎌倉・室町時代の貨幣経済(交換手段としての貨幣)、徳川時代の両替商ビジネス(決済手段としての貨幣)、そして国際金本位制(複数の国々の通貨が共通の価値基準で裏打ちされると何が起こるのか)です。

なぜ鎌倉・

室町時代に中国銭が

流通したのか?

──貨幣の一般的受容性

本節では貨幣の一般的受容性という性質について見ていくことにします。一般的受容性とは、誰もが交換手段として受け取ってくれる性質のことです。交換に際して相手に差し出す物品が、一般的受容性を持つかどうかで何が違ってくるのか、この点について鎌倉・室町時代に中国銭が使われていたことを参照します。

中国銭の流入

 708(和銅元)年発行のどうかいほうから958(天徳2)年のけんげんたいほうまで、朝廷は財源確保の目的で全12種類の銭貨(皇朝十二銭)を発行しました。しかし10世紀になると人々は、この銭貨を使うのを嫌がります。銭貨が粗悪となっても物価統制令により高い値段で売買することが強制されたり、偽造貨幣の取り締まりと称して役人が物品を没収したりなど、当時の貨幣制度について人々は嫌気がさしていたのです★2

 そのため、米や布といった物品が交換の手段に使われるようになったのですが、そんな状況のなかで日本に流入してきたのが中国銭です。

 流入のきっかけは、宋との貿易です。10世紀後半、宋の商船が九州地域を中心に商取引目的で来航するようになります。12世紀中頃には平清盛が博多さらにはおおだのとまり(現在の神戸)の港湾開発に力を入れるなど宋との貿易を本格化させました。

 当時の日本の主要輸出品は銅や硫黄などの鉱山資源です。一方、輸入品のひとつとして、宋の銅銭が流入します。その後も、元や明といった中国王朝との貿易を通じて銅銭が流入し、それぞれの王朝の多種多様な銅銭が日本で流通するようになったのです。

朝廷の拒絶反応

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 1179(治承3)年7月、右大臣のじょうかねざねは中国銭の流通の実地調査として、使(治安維持と民政を担当する役職)の中原基広を派遣します。調査結果として基広は次のように報告しました。

「近代唐土渡りの銭、此朝に於いてほしいままに売買す云々、私鋳銭は八虐に処す、たとい私に鋳ざるといえども、所行の旨、私鋳銭と同じく、尤も停止せらるべき事」

(「治承三年七月廿七日条」『玉葉 中巻』すみや書房、1966年、291ページ)

(意訳)「かねてより中国渡来の銭が、私たちの国で勝手に売買に用いられた件、貨幣の偽造は、重大犯罪のひとつです。利用者が鋳造したものでないとはいえ、同じ罪です。当然ながら禁止すべきです」

 この返答に九条兼実は同意し、中国銭の使用禁止令を出します。朝廷にとっては、中国銭は私鋳銭(偽造貨幣)と同一視できるもの、つまり自分たちが認めたものではない貨幣という扱いだったのです。この方針は鎌倉幕府でも当初受け継がれます。

 ちなみに、20185月現在、暗号通貨の取引あるいは広告に中国は厳しい規制を設けています。九条兼実の宋銭流通に対する姿勢は、800年以上の時を超えて中国が暗号通貨に対してとっている措置と沿うものと言えます。

 図表11★3 は、1200年代から1320年代を対象に、土地売買の取引における支払いの手段として中国銭が使われた割合、利用率とその推移を示したものです。中国銭以外には、米・絹・布といった物品が使われていました。図表11を見ると、中国銭の利用率は、100年ほどで25前後から75前後へとジャンプしていることが分かります。朝廷・幕府が使用を禁止したにもかかわらず、当時の日本では中国銭が流通し続けていたのです。

禁止された中国銭が流通した理由

 禁止されたはずの中国銭がなぜ流通したのか。この点について経済学からは実にシンプルな答えが得られます。一般的受容性を備えたこと、これが答えです。

 自分の欲しい物品などを手にするために、相手に差し出すものを交換手段と呼びます。受容性(相手が受け取ってくれる性質)のある物品を交換手段として手にしていれば、交換を通じて自分の欲しい物品やサービスを手に入れやすくなります。歴史上、米、麦あるいは布といった物品は、多くの人から欲しがられます。これらの物品は、交換手段として受容性が高いものとされ、しばしば交換手段として用いられてきました。

 しかし、自分の差し出した物品を相手がいくら気に入ってくれても、相手の差し出した物品が気に入らなければ片想いです。その場合、相手が確実に受け取ってくれる交換手段を差し出せば、片想いに終わらず相思相愛となります★4

 誰もが受け取ってくれる性質のことを一般的受容性と呼びます。そして貨幣とは、一般的受容性を備えた交換手段のことです。

 交換手段として一般的受容性を満たせばどんなものでも貨幣となります。そして鎌倉・室町時代は、中国銭が一般的受容性を備えていたのです。欲しい物品と引き換えに中国銭を渡した場合、受け取った相手が次の取引で中国銭を差し出した場合でも、欲しい物品と交換できたのです。

荘園制の成立と村落社会のダイバーシティ

 生産のダイバーシティが進むにつれて、貨幣は欠かせない存在になっていくと言えます。というのも、ダイバーシティが進んで経済全体で生産される物品の種類が多くなるほど、自分好みの物品を差し出してくれる相手を探しにくくなるからです。その点、貨幣を差し出せば、相思相愛の取引が成立しやすくなります。つまり貨幣が使えるということは、生産する物品の受容性を気にせず生産に専念できるということなのです★5

 ここで、当時の村落社会におけるダイバーシティの進展について見ておきましょう。

 平安時代後半、各地の村落は、国司による徴税に不満を募らせていました(2章「律令制が衰退した原因はどこにあるのか」参照)。そして徴税を逃れるため、村落の代表者は有力貴族や寺社の権威にすがりました。不輸租・不入の権(納税および役人の立ち入りを拒む後ろ盾)を得る引き換えとして、有力者に村落一帯で生産された物品や村落民による労役の貢納を約束します。こうした村落一帯を荘園と呼びます。

 有力貴族や寺社のもとには、荘園から年貢(主として米)・(雑税)・やく(労役)として物品が貢納されます。こうした有力者を荘園領主と呼びます。一方、村落の代表者は、荘園領主に貢納することで村落一体を管理する権限を手にします。こういった代表者を在地領主と呼びます。在地領主からは、後に武士もしくは海賊として武装勢力を率いる者が現れます。このように、平安時代後期から室町時代にかけて形成された、荘園領主と在地領主との関係を軸とする社会秩序を荘園制と言います。

 荘園制が成立するということは、朝廷のもとに特産品が集まらなくなることを意味します。集めた特産品を朝廷が各地に配分していたからこそ、人々は自給できない物品を手にできたはずでしたが、荘園制が進んだのは、村落民が朝廷の仕組みに頼らず自力で物品を調達する生き方を選んだからだと言えます。

 各地の村落が徴税を拒んだことで、朝廷は財政難に陥ります。このため朝廷は金属加工など特殊なスキルを持つ人々をリストラします。その結果、特殊なスキルを身につけた職能民が各地を遍歴するようになりました。有力寺社に仕えていた商工業者が、寺社の勢力範囲を活用して各地でビジネスを展開したのもこの頃です(6参照)。

 荘園領主は、貢納物として多様な物品が入手できると見込んで積極的に職能民の誘致を図りました。誘致策として、荘園内に職能民向けのきゅうでんめんでんが設置されました。給田とは荘園領主が特定の相手に支給する田地のことです(にんという層が耕作にあたりました)。免田は貢納の一部が免除された田地です。

 また、在地領主や村落民も職能民を歓迎します。武士あるいは海賊として勢力を誇る在地領主にとって、刀鍛冶が訪れることは実に幸運です。鍛冶師やの金属加工技術はイノベーションとも呼ぶべき変革を村落社会にもたらしました。またこの頃、鎌・すきくわなど木製農具の先端に鉄製部品が装備されるようになります。こうした農具改良は、稲作に時間的余裕を与えたと考えられます。麦を裏作とした二毛作が広まりました。

 和紙づくり、染色あるいは油生産の職能民が訪れたことを機に、こうぞ、藍、あるいはを新たに栽培する村落も現れます。さらには鍛冶師が包丁を生産し、鋳物師が鍋を生産するなど、調理器具も改良されます。

 また、酒・酢・味噌・納豆・豆腐・素麵・饅頭・和紙・陶器・漆器・畳・簾・草履・蠟燭・扇といった加工品が村落で生産されるようになりました。平安時代末期から鎌倉・室町時代にかけて、村落民は農作業のかたわら、各々がこうした物品の生産に専念するようになります。

 平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本では、このように村落内で分業が進展し、多様な人材が活用される、ダイバーシティが進んだのです★6

中央集権的な信認と分権的な信認

 話を貨幣に戻します。貨幣が一般的受容性を備えるプロセスは2パターンあります。

 ひとつは、中央集権的な権威が制度整備を通じて特定の交換手段に社会的通用力を与え、人々の信認を得るというプロセスです。中央銀行や政府が紙幣・硬貨を発行し、偽造を取り締まる現代の各国の貨幣制度はこのパターンに属します。暗号通貨を禁止した中国の対応や、宋銭を「私鋳銭(偽造貨幣)」扱いした九条兼実の対応も、そういった制度整備の姿勢に沿ったものと言えます。

 もうひとつ、中央集権的な権威を必要としないプロセスもあります。そのプロセスとは、分権的な枠組みのなかで人々が特定の交換手段を信認するパターンです。鎌倉・室町時代は、このパターンで中国銭が流通するようになりました。そして現代を見ると、暗号通貨はブロックチェーンによる分権的仕組みを基礎としています。したがって暗号通貨における信認は、現代における中央銀行によるものよりも、鎌倉・室町時代の中国銭に類似している要素があるのです。

 このように、貨幣の信認には、分権的な枠組みによるものと、中央集権的な権威によるものの、2つのパターンがあります。そして当時の中国銭は、最初は「分権的な枠組み」による信認から始まったのですが、やがて「中央集権的な権威」による信認を与えられるようになります。

 当初、鎌倉幕府は、中国銭の利用を禁じていました。しかし後に、中国銭の利用を追認することで社会的通用力を与えることになります。その背景には、中国銭を私鋳銭扱いしようにも、幕府が鋳造技術を持ち合わせていなかったという技術上の問題がありました。また、中国の洗練された精錬技術や、中国王朝の財政健全性といった要素から、すでに中国銭が日本の人々にも交換手段として信認を得ていた★7 という事情もあります。そのため、いくら幕府が禁止をしても、各地の定期市のローカルルールのなかで、中国銭が使用されたのです。

 当時、村落社会まで含めて、日本各地では中国銭が使用されていました。こうした状況を受けて鎌倉幕府は、新たに貨幣を鋳造するコストを負担するより、中国銭を追認することにしたのです。

 ちなみに中国銭の公認は、幕府の支持層である在地領主の要望でもありました。当時、彼らは代銭納(荘園領主への貢納を銭貨で代納)を進めていたのです。荘園領主の側としても、中国銭が一般的受容性を備えたなか、代銭納は概して好都合でした。1301年から1350年、つまり14世紀前半に代銭納を実施した荘園数が飛躍的に増えています(図表12★8)。

 そして代銭納と貨幣経済が進むことで、荘園領主は特産品の貢納を目的として職能民を誘致する必要がなくなります。代銭納により交換手段として貨幣が手に入るからです。

 この時期を境に、給田・免田は次々と姿を消していきます★9

撰銭令で権威を誇示する戦国大名

 中国王朝が宋、元、そして明と変わり、それに伴い日本には宋銭、元銭、そして明銭の流入が続きます。それぞれの王朝のなかでも、例えば皇帝の代替わりごとに銭貨が鋳造されることは珍しくなく、多種多様な中国銭が流通するようになります。

 ところで様々な中国銭に荘園領主や幕府さらには在地領主といった権力層は社会的通用力、つまり貨幣としてのお墨付きを与えた一方、国産の銭貨については貨幣と認めなかったのです。このことは、国産の銭貨が私鋳銭つまり偽造貨幣とみなされることを意味します。権力層に受け取ってもらえないということが広く知られるからです。そもそも鋳造技術がお粗末だったことから、私鋳銭は見た目の悪いものでした(「びた一文もやらねえ」の「びた(鐚)」は私鋳銭のことです)。

 ただし、本物の中国銭であっても、使われるごとに磨耗します。磨耗した中国銭と私鋳銭との区別が難しくなります。売り手に対して本物だよと中国銭を渡しても、磨耗した銭貨を次に誰かが受け取ってくれる保証はありません。こうしたことから受け取りを拒否するケースがでてきたのです。取引における銭貨の選り好みはえりぜにと呼ばれ、流通を阻害するものとして問題視されました。

 そこで室町幕府あるいは在地領主は、撰銭令を出してその銭貨が使えるのかの一定基準をローカルルールとして定めます。私鋳銭を取り締まるだけでなく、非公式な撰銭も取り締まることで特定の種類の中国銭に社会的通用力を与えました。在地領主(やがては戦国大名)にとって、撰銭令は権威を誇示する手段になったのです。

第1章 貨幣の経済学(2)

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