東宝・小林一三の「理想」vs.松竹兄弟の「現実」
演劇を近代化した稀代の興行師、大谷竹次郎・白井松次郎兄弟と小林一三の活躍を中心に描いた、新たな演劇史。

第一幕 京の芝居街の双子

 今年(二〇一八年)の歌舞伎座のポスターやチラシには「歌舞伎座百三十年」と書かれている。一八八九年(明治二十二)が開場の年なので百三十年目となるのだ。

 それに対して松竹は一八九五年(明治二十八)が創業の年、一九二〇年(大正九)が会社設立の年となっている。つまり、歌舞伎座が先にあり、松竹の創業はその後である。松竹が歌舞伎座を建てたのではなく、すでにあった歌舞伎座を松竹は買収した。

 歌舞伎座は東京にあるが、松竹発祥の地は京都であり、大阪に進出して成功した後、東京へも進出した。松竹の歴史の第一段階は、京都の劇場の売店経営者の息子たちが、いかにして演劇興行会社を作り、日本一の劇場だった歌舞伎座を手に入れたか──そんな物語となる。

 創業期の白井松次郎と大谷竹次郎の動きについては、史料によって異なり、とくに松次郎の動きには不明な点がある。松次郎がしたのか竹次郎がしたのか史料によって食い違う出来事が多い。松次郎は昭和二十六年(一九五一)に亡くなり、その没後すぐに出版された日比繁治郎による『白井松次郎伝』が唯一の評伝だが、竹次郎は昭和四十四年(一九六九)まで生き、評伝も複数出ている。竹次郎の評伝に彼の行動として書かれていることのいくつかが、『松次郎伝』では松次郎の行動となっている。

 基本的には、松竹の『七十年史』『八十年史』『九十年史』『百年史』『百二十年史』などの公式な社史(以下、『松竹社史』とする)の記述をもとにするが、あまりにも他の文献と異同している場合は適宜記す。

新京極から始まる歴史

 徳川政権下、江戸での官許の芝居小屋は当初は四座、そのひとつ山村座が廃されてからは幕末まで、中村座、市村座、守田座(旧名・森田座)の三座だけだった。それ以外にも小芝居、あるいは宮地芝居と呼ばれた格下の、より大衆的な芝居小屋もあり、それらは寺社奉行の管轄の神社や寺の境内で興行を打っていた。官許の三座には、小芝居・宮地芝居の役者は出ることができなかった。役者間にも身分差別があり、それは明治になっても続き、現在の松竹大歌舞伎に出演しているのは江戸三座の役者の子孫である。

 同じように京都でも官許の芝居小屋として四条通りの南側に三座、北側に二座、さらに大和大路にも二座あったが、明治を迎えた頃には四条大橋東詰にある南座と北座しか残っていなかった。その北座も、明治二十六年(一八九三)に四条通りの拡張に伴い移転し、その後、廃座となり、南座だけが残った。

 その頃には明治になってからの繁華街である新京極が京都の劇場街となっていた。この地は大きな寺があり参詣客で賑わい、それを当て込んだ小芝居、見せ物小屋、寄席が建ち並んでいたが、幕末のはまぐりもんの変の大火で焼けてしまった。維新後は版籍奉還で寺社の土地も新政府に没収されたものの復興されず、荒廃していた。京都府参事で後に知事になる槇村正直が、この地に目を付けて再開発した。槇村は四条から三条へ南北に走る通り(新京極通り)を整備し、その沿道を商業地として売り出したが、当初はなかなか買い手がつかなかった。そこでもともと芝居や寄席で賑わっていた地だったのでその関係者に出店してくれと頼み、明治十年(一八七七)になる頃には、芝居、浄瑠璃、講談、落語の小屋、見せ物、遊戯場に飲食店などが並ぶ繁華街となった。

 新京極の劇場は、まつたけ兄弟がこの世界へ本格的に入る明治二十五年(一八九二)には五座あった。四条通りから新京極通りに入ってすぐ右側にあったのが「道場の芝居」と呼ばれていた阪井座、北へ上がって布袋座、その向かい側に東に向いているので東向座とも呼ばれた大黒座、さらに北へ行き夷谷えびす座、常盤座である。

 大谷栄吉は明治二十五年に大黒座の売店の株(権利)を手に入れると、その座のきんかた(「きんしゆ」「うち」ともいう)にもなった。金方とは出資者のことで、当時の芝居興行は公演ごとに金方が資金を出して利益が出れば配当を得るという、いまの製作委員会方式のような形で打たれていたのだ。徳川政権時代から、芝居小屋(劇場)には持ち主である「座元」「ゆうもと」とは別に「金方」がいて、座元には奉行所が与える興行権があるだけで、金方が出す資金で興行していた。だがいつしか金方が経営もするようになり、座元は名義人に過ぎなくなっていった。

大黒座、夷谷座で修業を積む

 大黒座の金方は五人いて、大谷栄吉はそのひとりとなった。五分の一ずつ資金を出し、配当を得る。しかし栄吉は自分では興行に関与せず、息子の竹次郎を代理とさせた。まだ十代の竹次郎は、こうして芝居の裏側に初めて足を踏み入れた。大黒座へ毎日通い、芝居を見るだけで、とくに何か仕事があったわけではない。役者、裏方、そして客の動きを見ているだけだったが、興行師が知らなければならないことを学ぶ、貴重な修業の場となった。

 兄の松次郎は、同じ新京極の夷谷座の裏方として働いていた。座元は大津にいる杉本五兵衛で、この人に松次郎は見込まれたのだ。その夷谷座の隣に三亀という寿司屋があった。主人は白井亀吉といい、手堅い商売をしていた。白井家には娘が二人いてともに「京極の小町娘」と評判の美人だった。

 三亀寿司は夷谷座に売店を出していたので、いつしか娘の八重(ヤエとする史料もある)と松次郎とが親しくなり、恋に落ちた。松次郎が八重と結婚したいと白井に申し出ると、「白井家の婿に入るのなら許す」という返事だった。

 大谷家では、松次郎が長男だった。一方、白井家には娘しかいないが、八重は次女である。長男が次女に婿入りして養子になることは、普通はありえない。だが、松次郎は八重に夢中だったので、この条件を呑もうと思った。父・栄吉は、松次郎は言い出したら後へは引かない性格であると知っていたので、婿に行くことを許した。

 現在とは異なり、明治の民法では長男が他家に婿入りするのは困難だった。松次郎は二十歳前なのに隠居して、家督を弟の竹次郎に譲り、その上で大谷家の籍を抜いて白井家に入るという手続きを踏まなければならなかった。この法的処理が終わるのは明治三十年三月なのだが、実質的には話がまとまった段階で松次郎は大谷家を出て、白井家で暮らし、その店の仕事をしていた。

文学青年から銀行員へ

 まつたけ兄弟が家業である売店の仕事を手伝う──というよりも、重要な働き手となっていた頃、小林一三は慶應義塾の学生で、勉学にはげむというよりも、芝居を見て暮らしていた。役者になろうとして川上音二郎の門を叩いたが、伊井蓉峰や河合武雄のような美男子がいたので諦めたという。

 さらには小説も書いて新聞に連載までしている。この頃、黒岩るいこうが翻案した探偵小説がすでによく読まれていた。それに影響されたのか、小林は実際に起きた事件をもとにした、いまでいうミステリを書いたのだ。

 明治二十三年(一八九〇)四月、東洋英和女子学校校長の夫トーマス・ラージという外国人教師が殺された。ラージは強盗に襲われ、夫人の校長も負傷していたが、証拠が何も残されてなく、事件は未解決となっていた。

 小林はこの事件に興味を持ち、山梨日日新聞にあいけいがくじんというペンネームで『れんこん』と題した小説を連載した。事件発生直後で、警察はまだ捜査中である。小林の小説があまりにリアルだったので、警察は、作者は犯人を知っているのではないかと疑った。作者が小林だと判明すると、警察は呼び出して取り調べた。小林は「想像して書いた」と説明して、どうにか釈放された。小説は、強引に終わらせた。

 この事件から、小林が作家志望であったこと、実際に小説を書いており、新聞に連載されるほどの腕があったことが分かる。もしこの探偵小説が話題になっていたら、日本の国産探偵小説の歴史は、小林一三から始まったかもしれない。この時代の日本の探偵小説は翻訳・翻案ものばかりで、国産探偵小説はまだ存在していなかったのだ。

 その後も小林は上毛新聞に『お花団子』という時代小説を連載するなど、学生作家としてそれなりに活躍した。その結果、慶應義塾出身で新聞社や出版社にいる人たちとの親交が始まり、卒業後は新聞社に入ろうと考えるようになった。

 小林が知己を得たひとりが、大阪毎日新聞社長の渡辺治だった。当時、東京のみやこ新聞(東京新聞の前身)が経営悪化に陥っていた。都新聞は演劇の記事が充実していることで知られ、小林も愛読していたが、大隈重信の改進党系の政治家に買収された。その政治家が、買ったはいいが経営までは担えないので、渡辺に任せることになった。そこで渡辺は小林も都新聞へ連れて行こうと誘い、小林もすっかりその気になっていた。ところが、渡辺が大阪毎日新聞を離れるのが困難となり、この話はなくなった。

 小林一三はあわや就職浪人かとなったのだが、慶應義塾の先輩である高橋義雄が、三井銀行に世話してくれた。高橋は小林より一まわり上で、慶應義塾卒業後は時事新報の記者になったが、経営危機に陥っていた三井銀行再建のために入行していた。

 三井銀行は公金取扱いで利益を上げていたが、日本銀行が設立されるとその業務を喪ってしまった。さらに井上馨と近かったため、その筋からの無理な融資案件が多く、その大半が焦げ付き、貸付金の三分の一が不良債権となっていた。

 高橋は三井銀行の経営を立て直すことを期待されて入行したものの、ひとりでは難しい。そこで高橋を助けるべく三井銀行に来たのが中上川彦次郎だった。福澤諭吉の甥(姉の子)にあたる。英国留学中に外務卿だった井上馨と知り合い、帰国後は請われて外務省に入っていたが、「明治十四年の政変」で辞めて福澤と時事新報社を作って社長兼主筆となった。この時に社説を書いていたもうひとりが高橋という関係である。

 中上川は時事新報を辞めると山陽鉄道会社の社長になっていたが、三井銀行を助けてくれと高橋に頼まれた。中上川は三井銀行そのものの再建のためには、不良債権化している取引先の再建が急務と考え、慶應義塾出身の有能な人材を高給で優遇すると、経営難の取引先に派遣し、建て直しを委ねた。それがうまくいき、三井銀行の不良債権は減っていき、同時に、多くの企業の経営に関与したので、それらの企業によって三井グループができていく。

 中上川による再建がうまくいき、三井銀行が上り調子にあった明治二十六年(一八九三)に、小林一三は入行したのだ。この年、二十歳になっていた。松竹兄弟は前年から劇場の仕事をしているので、社会に出たのはほぼ同時期と言っていい。生年で四年の差があるが、小林は一月生まれ、松竹兄弟は十二月生まれなので、実質的には五歳違うわけだから、いかに松竹兄弟のほうが若くして世間の荒波に揉まれていたかが分かる。

 小林は一月から出社すべきだったが、ある女性を追いかけていたために遅れた。正月休みを郷里で過ごした後、横澤という友人が滞在していた熱海に出かけ、そこで出会った女性に一目惚れしてしまったのだ。しかし何も進展せず、彼女は東京に帰ってしまった。それなのに小林は後を追って東京へ行き、彼女の屋敷の前を張り込んでいた。

 三井銀行から督促され、さらには友人の横澤に説得されて、ようやく小林が初出社したのは四月になってからだった。

 そんな不良社員なのに、小林一三は東京本店秘書課というエリートコースに配属された。

 そして半年過ぎた九月、小林は大阪支店へ転勤となった。三井銀行では新人は半年ほど本店で勤務したら地方の支店へ転勤することになっていた。この頃すでに百店以上の支店や出張所があり、そのなかでは大阪支店は大きく、名門支店である。そこに配属になったのは、入行を世話してくれた高橋義雄が大阪支店の支店長だったからに他ならない。芝居好きだった小林は、近松門左衛門や井原西鶴の世界に憧れており、京都か大阪に行ってみたかったので、渡りに船の人事異動だった。

 大阪支店に赴任すると、小林は現金を取り扱う金庫係となり、後には抵当部勤務となった。

 こうして小林は関西に住み、関西で金融に携わるが、まだ松竹兄弟とは何の接点もない。京都まで芝居を見に行った際に、松竹兄弟のどちらかと街路ですれ違った可能性はゼロではない、という程度だ。

 松竹兄弟だけでなく、芝居興行の世界は、まだ三井のような大銀行が相手にする業種ではなかった。個人の金貸しが芝居の世界での「金融機関」だった。

第一幕 京の芝居街の双子(2)

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