松竹と東宝のページ一覧

四百年の歴史を持つ歌舞伎が、なぜ百二十年の歴史しかない松竹のものになっているのか。日本最大の演劇・映画会社である東宝が、関西の鉄道会社・阪急と同一グループなのはなぜか。この二つは演劇界の「知っているようで、よく知らない話」の代表だろう。それを…
記述について〈  〉は引用である。引用内の/は原文での改行を意味する。引用内は、原則として、正字は固有名詞を除いて新字にし、仮名遣いは現代仮名遣い、送り仮名は原文のママとした。作品名は『  』とし、通称も用いる。役を「つとめる」場合は「勤める…
明治二十二年(一八八九年)十一月二十一日、東京・木挽町(現・中央区銀座四丁目)で、新しい大劇場「歌舞伎座」の開場式が挙行された。明治は四十五年まで続くので、明治二十二年は、ちょうどその半分が過ぎた頃にあたり、この年の紀元節(二月十一日)に大日…
その團十郎の舞台を凝視している二人の少年がいた。園館の売店を経営していた大谷栄吉の子、松次郎と竹次郎──後の松竹創業者である。二人の父・大谷栄吉は加賀屋という旅館(矢の倉団子を商っていたとする史料もある)の子だったが実は養子で、薩摩藩主島津家…
今年(二〇一八年)の歌舞伎座のポスターやチラシには「歌舞伎座百三十年」と書かれている。一八八九年(明治二十二)が開場の年なので百三十年目となるのだ。それに対して松竹は一八九五年(明治二十八)が創業の年、一九二〇年(大正九)が会社設立の年となっ…
京都では──明治二十五年に大谷栄吉が大黒座の金方(金主)となって三年が過ぎていた。栄吉は金方になっても売店の仕事を続けていた。金方ともなれば、芝居の世界では最も偉い。しかし、栄吉は偉ぶることはなかった。その栄吉の代理として竹次郎は毎日、大黒座…
小林一三の身辺もめまぐるしい。名古屋支店では支店長の平賀の信頼も篤く、銀行での仕事は順調だった。しかし、コウとの関係はまだ続いていた。平賀からは、早く身を固めろと言われていた。そこで、相手もいないのに、まず家を持つことにした。それまでは下宿暮…
明治座開場のこの年、白井松次郎は学者たちの演劇改良運動に関わることになった。東京で演劇改良会なるものが結成されたのは、歌舞伎座が開場する三年前の明治十九年(一八八六)のことだった。いわゆる鹿鳴館時代で、日本が近代国家として欧米列国に負けない文…
『松竹社史』本文と興行記録によれば、中村鴈治郎が初めて松竹の劇場に出演したのは、明治三十五年十一月二十九日初日の明治座の十二月興行のことで、鴈治郎クラスの役者が新京極の大衆的な劇場に出ること自体が珍しく、大入りとなった──とある。鴈治郎が亡く…
さて──鴈治郎と出会った頃の松竹兄弟の内実はというと、明治三十六年九月の時点で二人は二万五千円の負債を抱えていた。現在の三億から四億円にあたる額だ。十月になると、金融業者も貸し倒れを恐れて貸さなくなり、興行のための資金繰りはまったく目処が立た…
松次郎が大阪へ乗り込み、明治三十九年二月から五月まで中座で興行を売っている間、竹次郎は京都を守っていた。大阪の鴈治郎のもとに東京の歌舞伎座から出演依頼が来たのが八月だった。鴈治郎は松次郎を間に立てて交渉し、十月に東京へ行くことが決まった。一方…
歌舞伎は約四百年前の出雲阿国のかぶき踊りが起源とされるが、日本の演劇(舞踊を含む)の起源がいつかは、誰にも分からない。『古事記』や『日本書紀』にあるアメノウズメにまで遡るとする説もあるくらいだ。しかし鉄道の歴史はいつから始まるかが明確だ。明治…
小林が作ったパンフレット『最も有望なる電車』が発行された頃──明治四十一年(一九〇八)十一月、松竹は道頓堀の朝日座を土地ごと買収し、いよいよ大阪へ本格的に進出した。朝日座は浅野治助という元火消しが持ち、歌舞伎を上演していたが、治助が亡くなり代…
白井松次郎が鴈治郎の東京・歌舞伎座と名古屋での芝居を見届けて京都に戻ると、南座の顔見世が待っていた。さらに大阪の朝日座と中座の正月興行の準備もしなければならない。京都と大阪は近いとはいえ、今日のように三十分もあれば着くわけではない。その距離を…
この頃──関西では鴈治郎がいよいよ中村歌右衛門を襲名するとの噂が流れていた。それと同時に、長男を鴈治郎に、次男を扇雀に、そして弟子を翫雀にするともいう。この噂については『演藝画報』誌四十三年十一月号が記している。芝翫はこれを読んでいたのであろ…
帝劇開場の月、歌舞伎座は休むはずだったが、田村の気が変わり、菊五郎、吉右衛門ら市村座の若手で打つことにした。ところが、吉右衛門らは大阪へ行くことになっていたので、菊五郎が孤軍奮闘することになった。義兄梅幸と一門の松助が帝劇へ行ってしまったので…
この事件で批判されたのは、田村でも松竹でもなく、歌舞伎座の四人の役員だった。九月十日に株主総会が開かれ四人は退任し、苗村又衛門が会長となる新人事が決まった。重役は苗村を含め七人で、田村は嘱託名義の興行主任、相談役に、芝翫、仁左衛門、八百蔵、羽…
七月二十五日、柏木は田村のもとに行き、引退するよう求めた。田村は覚悟を決めていたようで了承した。ただし「歌舞伎座の株を買い取って欲しい、また借金の保証人となっているがそれを外して欲しい」と求めた。株の買い手については「大谷だけは駄目だ」と言う…
小林にとって、宝塚少女歌劇は創作活動の場にもなった。〈何とか唱歌集とか、学校の唱歌教科書を集めて来て、それを一ト通り読むと、まずここへこの歌を持って来る。それが終わるとここで話をして芝居をする。今度はこの音楽を持って来る、というふうに、はさみ…
本書のタイトルにある「東宝」、すなわち「東宝株式会社」が設立されるのは第二次世界大戦中の昭和十八年(一九四三)である。宝塚唱歌隊が誕生したのが大正二年(一九一三)だから、その三十年後のことだ。宝塚唱歌隊は今日の「宝塚歌劇団」の前身なのだが、そ…
伊井蓉峰が明治座を売ろうとしており、相手が新興の天活の小林であることもさることながら、大谷にとって、自分は知らないのに政財界の黒幕・杉山が知っていることも衝撃だった。伊井と大谷は知らぬ仲どころではない。現に当月、伊井は大谷の新富座に出ているの…
浅草では、常盤座の歌舞劇協会と日本館の東京歌劇座が競っていたが、さらに大正七年三月には浅草観音劇場で原信子歌劇団が旗揚げし、田谷力三をはじめローヤル館のメンバーが加わった。「浅草オペラ」は隆盛を迎えていた。帝劇では失敗したオペラが、浅草では根…
大正九年(一九二〇)二月十一日、松竹は社内に映画の製作・配給部門としてキネマ部を設けたと発表した。演劇では興行会社としてスタートした松竹だが、映画部門は製作会社として創業されている。当初は大谷が経営の指揮を取り、白井信太郎と松居松葉に加え、小…
大阪毎日新聞紙上で名指しで批判された松竹の白井松次郎も、黙ってはいなかった。小林の公開書簡への返信を書き、それも掲載された。白井は、「観劇法が七面倒」「料金が高い」という批判は、中座へは当たるかもしれないが、松竹の他の劇場、角座や弁天座での大…
沿線を宅地開発していくという小林の鉄道経営は東京でも注目されるようになっていた。大正十年、小林は東京の田園都市株式会社並びに荏原鉄道(目黒蒲田電鉄を経て、東京急行電鉄)の重役会に出席するようになった。田園都市株式会社は財界の巨頭、渋沢栄一が作…
小林の持論と関係があるのかどうかは分からないが、大正十二年二月一日から、警視庁の興行取締規則が改められ、一回あたりの興行時間は六時間以内と定められた。これまでのように午後一時から十時までの興行はできなくなったのだ。すでに大衆的な劇場は一日二回…
東京で劇場が次々と再建していくなか、歌舞伎座の工事も終わり、大正十四年(一九二五)一月四日に「復興開場」を迎えた。外観は「奈良朝の典雅壮麗に桃山時代の豪宕妍爛の様式を伴わせた意匠で、鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築」で、全て椅…
白井松次郎、大谷竹次郎の松竹の事業拡大はとどまるところを知らない。東西それぞれで歌舞伎、その他の演劇に加え、映画の興行と製作、さらに宝塚に対抗しての少女歌劇、東西に一大演劇帝国を築いただけでなく、全国に映画館チェーンも展開していった。小林一三…
昭和三年(一九二八)一月、市村座は「松竹経営初興行」と銘打たれ、菊五郎一座に市川中車が加わって幕を開けた。菊五郎の生活再建と市村座維持のため、松竹がこの月から市村座を借りて経営することになったのだ。市村座の創業は嘉永十一年(一六三四)で当初は…
昭和六年(一九三一)一月の市村座で猿之助、長十郎、翫右衛門たちによる劇団・春秋座が旗揚げした。翻訳劇や新作を中心にした公演で、熱演ぶりが評判になり一月は大入りだったが、二月は不入りとなった。そこで猿之助たちは、三月は名古屋へ巡業に出たが、小太…
秦豊吉は昭和八年(一九三三)一月に渋沢秀雄に連れられて宝塚へ行き、少女歌劇を見学し、小林と面談した。「あなたは演劇の玄人だろうが興行はまた別だ。しばらくは勉強してもらいたい」と言われ、三菱商事を辞めたら、欧米へ視察に行くことになった。秦は一月…
昭和九年(一九三四)一月一日、東京宝塚劇場が竣工し、宝塚少女歌劇月組の公演で開場した。「少女歌劇」というジャンルは小林一三が始め、独占状態のはずだったが、東京では松竹少女歌劇が人気絶頂にあった。宝塚少女歌劇としては、さらなる新天地を開拓するは…
昭和十年(一九三五)一月になっても鴈治郎は元気で、次は何に出ようかと白井と相談するくらいだった。だが一月半ばを過ぎると容態が悪化した。身内や関西の役者はもとより、東京からも菊五郎、羽左衛門、吉右衛門らが見舞いに駆けつけた。長二郎は親族のひとり…
昭和十一年(一九三六)、林長二郎は六作の映画に出た。実演が多く、一月には大阪劇場、四月は浅草帝国館、十月は舞踊公演もあった。小林一三が四月十七日に七カ月にわたる欧米視察から帰国すると、待っていたのは、浅草の国際劇場を松竹に譲ってくれという話だ…
昭和十二年(一九三七)二月一日付けで、松竹株式会社が誕生した。すでに演劇部門は松竹興行株式会社に一本化されていたが、同社と松竹キネマ株式会社が合併して、資本金三七四〇万一二五〇円の松竹株式会社となったのだ。これを機に、「まつたけ」ではなく「し…
東宝へ移った林長二郎は、傷が癒えると東京へ引っ越した。移籍した当初、松竹は「林長二郎」の名を返上しろと言っていたが、最後の主演作『番町皿屋敷』を封切る段になると、「林長二郎主演」として封切りたいので、この件については何も言わなくなっていた。し…
昭和二十年八月の敗戦時、残っていた劇場は、東京では東京宝塚劇場、日本劇場、有楽座、帝国劇場、東劇で、松竹は東劇以外全滅だった。戦後の占領を考え、アメリカ軍は国家の中枢である丸の内地区には空襲しなかったと思われ、東宝と松竹の明暗は分かれたのだ。…
大谷竹次郎は昭和二十九年、七十七歳になる年に、松竹の社長を城戸四郎に譲り会長となった。翌年には文化勲章を受章した。民間企業経営者がその事業内容を理由に文化勲章を受章したのは大谷が最初で、いまのところ最後である。晩年の大谷を襲った事件は、昭和三…
いつのことなのかは分からないが、小林一三と大谷竹次郎とが会い、こんな会話を交わしたらしい(『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』)。大谷が小林に「相変わらず、事業の発展で忙しいですね」と社交辞令を言うと、小林は「因果なことですよ。大谷さんは、文楽や…
◇白井松次郎、大谷竹次郎関連『白井松次郎傳』日比繁治郎著、白井信太郎(私家版)、一九五一年『大谷竹次郎(新版)』田中純一郎著、時事通信社、一九九五年『大谷竹次郎演劇六十年』脇屋光伸著、城戸四郎編、大日本雄弁会講談社、一九五一年『百人が語る巨人…
五十音順、歌舞伎役者については初出時の名とし、父子はまとめ、父を先にした。◯付きの数字は代数を示す。(例・①は初代)伊井蓉峰(1871〜1932)俳優。川上音二郎の川上一座に俳優として参加。その後、新派劇の中心役者として活躍する。①市川猿之助…
作家、編集者。1960年東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。出版社勤務の後、出版社アルファベータを設立し、代表取締役編集長として雑誌「クラシックジャーナル」、音楽家や文学者の評伝や写真集の編集・出版を手がける(2014年まで)。主な著書に…
2018年8月30日初版1刷発行2018年8月24日電子書籍版発行著 者―中川右介発行者―田邉浩司装 幀―アラン・チャン発行所―株式会社光文社東京都文京区音羽1-16-6(〒112-8011)https://www.kobunsha.com/…

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