「中国はきわめて洗練された、地球規模で、包括的な越境抑圧活動を世界中で展開している」
ニューヨーク市警の現職の警察官だったチベット人が、中国共産党にチベット人コミュニティの内部情報を流していたとして、FBIにスパイ容疑で逮捕された。この一報に動揺を隠せない在米チベット人たち。はたして彼はどのような人物だったのか? 関係者への徹底取材で見えてきた真実と、中国による抑圧行為にさらされている亡命チベット人たちの現状とは。

中国の監視に怯えるニューヨークのチベット人

チベット出身、現職アメリカ警察官スパイ容疑で逮捕の衝撃

ニューヨーク市警のチベット人警官がスパイ容疑で逮捕された。これによって、チベット人コミュニティは中国が自分たちを監視しているのではないかという以前からの疑念を現実のものとして感じるようになった。

Photo/Getty Images

取材・執筆:ローレン・ヒルガース

NYのチベット人警察官、スパイ容疑で逮捕

 FBIがバイマーダージェ・アンワンという男の家の前に現れたのは、20209月下旬のよく晴れた、風のある日のことだった。彼はロングアイランドで妻と2歳の娘と暮らしており、ニューヨーク市警のコミュニティ・リエゾン・オフィサーとしてクイーンズ第111分署の担当エリアで地域住民との関係構築に当たっていた。彼がアメリカに来たのは2005年。当時17歳で、中国のチベット地区出身の亡命希望者としてだった。2009年には海兵隊に入隊し、アフガニスタン勤務も1クール経験した。その後2019年になって、彼はクイーンズのチベット・コミュニティ・センターに姿を現し始めた。

 コミュニティの一員になりたいんだ——アンワンは周囲の人にそう語っていた。チベット移民の若者を支援したいということだった。だが、起訴状によると、彼は中国総領事館の館員2人とも定期的に接触していた。「領事館の人たちに教えてあげてください」。201811月に彼は館員のひとりに言った。「警察の人間のリクルートに成功したって」

 起訴内容どおり彼がスパイだとしたら、当然ながらさほど優秀な部類には入らない。彼に対する容疑の概要を示す文書によると、彼は私用の携帯電話で総領事館の人間と連絡をとり、FBIが盗聴するなかで電話をかけていたという。裁判所に提出された録音記録で、アンワンは相手にこびへつらったり自慢をしたりしていた。「わたしが思うに、全世界が多様性を推進していますね」。彼は「PRC OFFICIAL-2(中華人民共和国 館員-2)」と呼んでいた男に対しそう言って、チベット人コミュニティの少数派グループに接触して情報提供者を獲得するよう提案していた。アンワンはこの館員に対し、中国を訪問するためのビザを発給してくれるよう説得を試みていた。他の情報提供者もビザをほしがるでしょう、と彼は言う。彼らは中国が自分たちのことを評価していないのではないかと考えており、「100%タイプの人間」、つまり根っからの信奉者は特にそうなのだと彼は言う。「自分たちのような人間を見つけるのは簡単ではないですよ」と彼は主張する。「こんなに熱意にあふれているんですから」

 熱意はさておき、アンワンは提供すべき価値のある情報はほとんど持ち合わせていなかったようだ。身柄拘束直前に提出された起訴内容からは、彼が比較的低い地位にあったことが見て取れる。彼は有線通信不正行為、虚偽証言、それに未登録の外国エージェントとして活動した——「スパイ発見」として広く知られるアメリカ刑法の規定だ——との容疑がかけられている。アンワンの事件で明らかになった多くの疑問のうち、おそらくもっとも衝撃的なのは、そもそもなぜ中国総領事館は彼と話をするようなことをしたのかという点だった。

中国共産党による「越境抑圧」

 習近平体制になってからの9年間で、中国共産党はアメリカに拠点を置く人権NGO「フリーダム・ハウス」が「越境抑圧」と呼ぶ活動を展開するようになった。中国政府のあらゆる機関が、世論への働きかけや言論の抑圧、国内外での反対意見のコントロールといった活動に動員されている。フリーダム・ハウスが最近公表した報告書では、2014年以降中国によって実行された身体的な攻撃事件が36か国(原文ママ)で214件あったことが明らかにされている。タイでの誘拐やカナダで起きた人身に対する暴行などが含まれ、調査によるとこうした事件の数は他のどの国よりも突出している。

 こうしたあからさまな攻撃以上に件数的に多いのは、嫌がらせと脅迫だ。世界各地の亡命者や活動家からは、脅迫電話やサーバー攻撃を受けたという報告が寄せられている。イギリスやオーストラリアに留学する中国人学生は、中国政府を批判した際に脅しを受けたり嫌がらせをされたりしたと報告している。カリフォルニアでは、移民の居住地域で中国の警察車両に似せたクルマを運転していた男が捕まるという事件があった。中国の警察官は亡命者に対し、彼らの親族の電話から頻繁に電話をかけている(中国の新疆ウイグル自治区出身のあるウイグル人亡命者は、中国政府の人間から「おまえの家族や親族は全員こっち側にいることを忘れるなよ」と警告された)。「中国は世界中できわめて洗練された、地球規模で、包括的な越境抑圧活動を世界中で展開している」とフリーダム・ハウスの報告書は指摘する。ターゲットとされるグループのうち、亡命チベット人は以前から特に注意を要する対象とされてきた。

 世界全体では、中国国外に住むチベット人の数は約15万人に上る。規模としては小さいにもかかわらず不釣り合いなほど国際的な存在感があるのは、ダライ・ラマというカリスマ的指導者の存在が一因だ。1950年(訳注:「チベットが中華人民共和国という祖国の大家庭に戻った」と定めた、いわゆる「17か条協定」が結ばれたのは19515月)に中華人民共和国がチベットを掌握すると、1959年にダライ・ラマはインドのダラムサラに逃れ、そこでチベット亡命政府を樹立した。それ以来、国外に逃れるチベット人は増えつづけ、中国は彼ら——共産党による支配体制が及ばない指導者への忠誠を誓い、国際的な支援を得て独立運動を展開している——を危険な敵と見なしてきた。

ダライ・ラマ Photo/Getty Images

ニューヨークのチベット人コミュニティ

 ダラムサラ以外で最大級の在外チベット人コミュニティのひとつはニューヨーク市とその周辺地域で、15000人のチベット人が住んでいると見られている。クイーンズのジャクソン・ハイツでは、地下鉄のローズヴェルト・アヴェニュー駅近辺の通りにチベット料理のレストランや食料品店が軒を連ねている。2019年にオープンしたコミュニティ・センターがあるほか、寺院、それにチベット語やチベット文化が学べる学校もある。電飾のワイヤーで彩られた74丁目通りには、チベット料理とネパール料理のレストランが歩道に面して並び、祈祷旗がはためき、「ナマステ」という名のディスカウントショップがある。

 中国共産党が自分たちを監視しているのではないか——アンワンの逮捕は、チベット人コミュニティが以前から抱いていた疑念が正しかったことを裏付けているかのようだ。ニューヨーク在住のチベット人は中国訪問のためにビザ発給を申請する際、現地の中国総領事館で別の入口から入るよう指示され、館員——チベット系のケースが多い——との詳細な面接を受けることになる。申請者は自分の経歴を書き、チベットにいるすべての友人と家族について申告し、彼らの職業や住所、連絡先の提供も求められる。申請者の多くが、中国にいる自分の大切なひとたちに迷惑がかかるのではないかと懸念している。自分たち自身の活動が記録・蓄積されているのではないかという恐れも抱いている。抗議活動やダライ・ラマの説法に参加しているときの写真を見せられたという申請者もいる。サンフランシスコである者がビザを申請したところ、面接を担当した館員が飼い犬の名前と種類まで知っていたというケースもあった。

広がる疑心暗鬼

「わたしたちは(監視という)脅威について、過大評価と過小評価のあいだを行き来しているのです」——そう語るのは、テンジン・ドルジェ。コロンビア大学で政治学を学ぶ博士課程の学生にして、ニューヨークのチベット人コミュニティでもっとも顔を知られた存在のひとりだ。ドルジェは自分のことを「テンドル」(訳注:テンジンから「テン」、ドルジェから「ドル」を取ってつなげたもの)で通している。チベットの男児は7つあるダライ・ラマの名前のひとつを与えられることが多いため、ニックネームを用いることは一般的なのだ。テンドルはインドに亡命したチベット人の息子で、10代でアメリカに移住した。「スチューデンツ・フォー・フリーチベット(SFT)」という組織があり、そこでは中国による監視は当然のものと受け止められている。彼はそこの事務局長を4年務めた。

 テンドルは、コミュニティのなかで被害妄想が広がっていく様を目の当たりにしてきた。チベット人は勇敢だと彼は考えているが、過去10年で中国は脆弱な側面から彼らを攻略しようとしてきたという。中国国内にとどまる家族や友人とのつながりであるとか、チベット訪問を可能にするビザ取得の期待などだ。中国は亡命チベット人の分断を図ろうとし、互いに恐怖感を抱かせたり、疑心暗鬼にさせたりしているという。「基本的にコミュニティにスパイは存在しないようにすることができます」とテンジンは言う。「コミュニティにスパイがいるという認識を創り出せばいいのです」

 アンワンの逮捕から間もない時期に、わたしはジャクソン・ハイツのレストランでテンドルと会った。肌寒い11月の夜だったが、わたしが到着したときに彼は店の外で2人の友人と椅子に座っていた。彼らはみな帽子を被っており、前のテーブルにはビールが置かれていた。テンドルは面長で、長方形の眼鏡をかけていた。彼の隣にはロブサン・タラという名の男がいて、片方の耳にマスクを引っかけていた。テーブルの向かいにいたのは、SFTの現事務局長を務めるドルジェ・ツェテン。彼は手をポケットに入れて、身体を空になったプレートのほうに屈めていた。彼らのコミュニティは大混乱に陥っていた。タラは、そもそもアンワンがほんとうにチベット人なのかについて疑念を抱いていた。彼はアンワンが逮捕される数か月前のある夜に、レストランで本人と会ったことがあった。アンワンはあまりに色白で、チベット人には見えなかったとタラは言う。行動の仕方もチベット人的ではなかった(「自分たちはもっと……動きが雑なんですよね」とタラは語っていた)。

 クイーンズ中でチベット人団体がスパイかもしれないこの男から急速に距離を置き始めていた。「あいつのあの話し方と言ったら!」とタラが言う。「彼の口からきちんとしたチベット語が出てきたことなんて一度もなかったんですよ!」

チベット人コミュニティの会合に出席

 その数週間前、ニューヨーク・ニュージャージー・チベット人コミュニティ協会が記者会見を開き、自分たちの会合になぜアンワンが出席していたかについて説明を行っていた。「彼が親共産党タイプの人間であることはわかっていました」と語るのは、同協会の役員のひとりだ。「ですが、スパイと疑うことまではしていませんでした」。『ニューヨーク・ポスト』紙がソナム・ゲペルという元協会代表に取材を試みたところ、アンワンに重要な事柄について共有したことは一切ないと強く主張した。「わたしたちは彼に何も情報を提供していませんよ」とゲペルは言う。「一切情報は与えていません。一切です」

 テンドルはアンワンと一度だけ同じ場に居合わせたことがあった。クイーンズのチベット人コミュニティセンターで開かれた、2019年のロサル(チベットの新年)祝賀会でのことだ。その夜の主賓は、クイーンズの選挙区で初当選を果たしたアレクサンドリア・オカシオ゠コルテスだった。彼女はアンワンと一緒に写真に写っており、彼の小さな娘と儀礼用の白いスカーフ一枚にくるまれて遊んでいた。これを見て、チベット・コミュニティの幹部がどうしてまたスパイ容疑者を下院議員の隣に座らせるようなことをしたのかという疑問の声が上がった(「彼女は退屈してしまって、赤ん坊と遊んであげることにしたんですよ。こういうコミュニティの行事はダラダラとつづくことがありますからね」とテンドルは言う)。関係者はFBIの宣誓供述書に目を通し、一連の祝賀会やその中心にあった自分たちの団体、会場について記述されていることを知った。自分たちのコミュニティに対し詳細な調査や協議が行われていたという実態を前にして、彼らのあいだに戦慄が走った。「連中はわたしたちのことを知っていたということです」とテンドルは言った。

アレクサンドリア・オカシオ゠コルテス Photo/Getty Images

 片言のチベット語で短い会話を交わしたとか、レストランや地域のイベントで少し会ったことがあるといったアンワンとの接触に関する諸々の情報はあったものの、コミュニティのなかで彼のことをよく知っている人間はほとんどいなかった。アンワンをよく知っているチベット人が数人いたが、彼と会ったのはしばらく前のことだった。わたしが取材した人たちは、誰もが自分の名前がスパイ容疑者と関連付けられることを嫌がっていたが、押し出しが強く、がっちりとして引き締まった体の若い男について、詳しく話をしてくれた。その男、つまりアンワンはマネークリップを見せびらかして、両親が中国で成功を手にしたことを自慢していた。その一方で、彼は新しい祖国に適応しようともがいてもいた。

01