霞ヶ丘アパートを知らないまま、新国立競技場でオリンピックを満喫するのは、無理な開発を推進した側に立つこと
東京五輪の暗黒面が新聞で報じられることはない。なぜなら、新聞もオリンピックのスポンサーなのだから。 世界中がオリンピックが巻き起こす札束の嵐に巻き込まれている。しかし、忘れてはいけない。そのカネはすべて我々の税金なのだ。一年延期で胸をなでおろしている場合ではない。延期の場合、中止よりもさらに巨額の公費が投入されるのだ。

第一章 平和とは縁遠いオリンピックの歴史

ローマ帝国が滅ぼした古代オリンピック

 オリンピックと聞いて、多くの人が思い浮かべるのは「スポーツの祭典」、「平和の祭典」という枕ことばだろう。

 ギリシャ時代の古代オリンピックをモデルに近代オリンピックを提唱したのは、フランス人のピエール・ド・クーベルタン男爵だ。クーベルタンは一八九四年六月二十三日、パリでIOCを設立した。クーベルタンはこの時、「スポーツの力を取り込んだ教育改革を地球上で展開し、これによって世界平和に貢献する」という理念を掲げた。オリンピックは「スポーツの祭典」であり、「平和の祭典」であると謳う、今日まで続くオリンピズムの土台がここに築かれた。そして、二年後に第一回オリンピックをギリシャのアテネで開催した。

 クーベルタンが復興を目指した古代オリンピックとは、紀元前九世紀にギリシャのオリンピア地方で始まった「オリンピア祭典競技」のことだ。当初は四年に一度開催され、約百九十一メートルの短距離走を競った。その後、スタジアムや神殿が建設され、中長距離や幅跳び、円盤投げ、槍投げ、レスリング、ボクシングなど、現代もある競技が加わり、都市国家(ポリス)が割拠していたギリシャ全土から選手や観客が集まった。

 古代オリンピックはギリシャ人のオリンピア信仰に基づく宗教的なイベントでもあったため、覇権を争い、戦争を繰り返していた都市国家も、オリンピック期間中の一~三カ月間は休戦した。スポーツを通じた平和の実現と言え、これがクーベルタンの理念につながった。

 ところが、皮肉なことに、古代オリンピックは、ローマ帝国のギリシャ支配、つまり戦争によって終焉する。ローマはギリシャと同じく、もともとは多神教だった。しかし、ローマ帝国は三九二年にキリスト教を国教化し、一神教を推し進める。ローマ皇帝テオドシウス一世は三九三年、異教祭祀禁止令を出し、多神教の宗教的行事だったオリンピック競技はこの年の大会を最後に廃止された。その後、異教排除で神殿が壊され、さらにオリンピア地方一帯が大地震に見舞われたこともあって、古代オリンピックとオリンピア地方双方が歴史の表舞台から姿を消す。

十九世紀の古代ギリシャ・ブーム

 それを約千五百年後、クーベルタンが独力で復活させたというのは単純すぎる物語だ。実際には産業革命と帝国主義、宗教対立が入り組んだ十九世紀の欧州情勢がオリンピック復活の環境を整えた。クーベルタンはそんな時代のひとつの役回りを果たしたと言うべきだろう。それは、いつの時代もスポーツが政治や経済の影響から逃れられない現実をも示している。

 十八世紀後半からの産業革命によって英国が覇権を握ると、その背中を追うかのように西欧各国は産業革命で経済力と軍事力を高めていった。それに伴って、バルカン半島など欧州の一部を支配下に置いていたオスマン・トルコ帝国の勢力は相対的に衰えてゆく。十八世紀末のフランス革命による自由を求める動きもあり、一八二九年にギリシャはオスマン・トルコ帝国からの独立を果たす。しかし、三年後に即位したオットー一世(ギリシャ名はオソン一世)はギリシャ人ではなく、神聖ローマ皇帝を出したこともあるドイツの名門、ヴィッテルスバッハ家が支配するバイエルン王国の王子だった。彼は民衆の歓心を買うためか、一八三七年に勅令を出し、農業、工業、スポーツの三部門で構成する貿易博覧会を三年に一回開催すると決めた。このうちスポーツ大会は二十二年後に実現し、短距離、槍投げ、円盤投げ、戦車競走が実施されている。

 西欧文明の源流と位置づけられたギリシャのキリスト教圏への復帰は、欧州に古代ギリシャ文明ブームをもたらす。英中西部の小さな町、マッチ・ウェンロックは一八五〇年、「マッチ・ウェンロック・オリンピック」を開催する。クーベルタンがフランス貴族の三男として生まれる十三年前、第一回オリンピックをアテネで開催する四十六年前のことだ。IOCに先行した「近代オリンピック」の開催地ウェンロックの名は、二〇一二年のロンドン・オリンピックのマスコット名に使われた。

最初から政治や経済と無縁ではいられなかった

 一八七一~七三年には、ドイツ人のハインリヒ・シュリーマンがトルコ西部でトロイア遺跡を、一八七六~八一年には、ドイツ人考古学者、エルンスト・クルティウスがオリンピア遺跡をそれぞれ発掘する。古代ギリシャ遺跡に惹かれて行動を起こしたものであったが、後にオリンピック競技場跡を発見したことで、クルティウスは「近代五輪の陰の立役者」(本村凌二・東京大学名誉教授)とも評されることになる。

 こうした時代の空気に押されるかのように、クーベルタンは古代オリンピック復興に向かう。もともとクーベルタンは母国フランスの教育体制に不満を持ち、パブリック・スクールという学業とスポーツによる総合教育システムを整えたイギリスに憧憬を抱いていた。実際にイギリスを訪問して教育制度を調べたことが、一八九四年の「スポーツの力を取り込んだ教育改革」の提唱につながった。

 だが、そもそもイギリスが教育においてスポーツを重視するようになったのは、産業革命で余裕を持った中産階級が「アマチュアリズム」に価値を見出し、スポーツで金を得る労働者階級の「プロフェッショナル」との差別化を図ろうとした側面がある。クーベルタンが重視し、現在のIOCが金科玉条とする「スポーツ」の持つ力は、今も昔も、時代の空気から隔離された純粋な存在ではない。

 オリンピックと政治、経済の奇妙な関係は一八五三年のクリミア戦争にも見られる。ロシアとオスマン・トルコ帝国が争ったこの戦争は、エルサレムの聖地管理権争いに端を発した。

 エルサレム一帯はイスラム教のトルコが長らく支配していたが、聖地管理権はクリミア戦争前まで、ロシアのキリスト教東方正教会(正教会)が持っていた。フランスのナポレオン三世は一八五二年に皇帝に即位した直後、国内のカソリック教徒の支持を取り付けるため、聖地管理権をロシアからフランスに移すことをトルコに認めさせた。ロシアがこれに反発し、トルコと開戦。イギリス、フランスなどはトルコを支援した。結果、近代兵器に勝る英仏が支援したトルコが、ロシアを退かせた。産業革命に伴う経済力の優劣が戦争の帰趨を決した形だ。

 この戦争がどこでスポーツ、とりわけオリンピックと関係するのか。

 クーベルタンは「平和の祭典」としてのオリンピックを復興したことで、ノーベル平和賞候補の一人となったが、そのノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベルの父イマニュエルはクリミア戦争で、ロシア海軍の機雷を開発して財をなした人物だった。

 クリミア戦争に従軍し、攻防戦が繰り広げられたセバストポリ要塞を舞台とした『セバストポリ物語』を書いたロシア人作家、レフ・トルストイも同じくノーベル平和賞候補だった。

 さらに、西欧に古代ギリシャ・ブームをもたらしたシュリーマンがトロイア遺跡発掘に使った資金は、クリミア戦争でロシアに戦略物資を売りさばいて得たものだ。

 このように、クリミア戦争をめぐる特需が古代ギリシャ・ブームをもたらし、それがオリンピックの復活へとつながったのである。

 ともあれ、近代オリンピックを立ち上げたクーベルタンは終生、古代オリンピアへの尊崇の念、スポーツと教育への熱意を失わなかった。クーベルタンが一九三七年に亡くなると、その心臓は翌年、遺言に従いギリシャのオリンピア遺跡近くの古代競技場跡に設置された記念碑の中に納められた。クーベルタンが重視したスポーツと教育を研究するIOCの関連組織「国際オリンピックアカデミーIOA」は、一九六一年、同地に設立されている。

戦争の前には無力だった歴史

 IOCは現在も「スポーツの祭典」、「平和の祭典」との理念を前面に打ち出している。なぜなら、クーベルタンが一八九九年に記した「国際オリンピック委員会規則」にそう定められているからだ。IOCは、オリンピックを発展させ、定期的に開催して高い理想を維持しなくてはならない。

 ただ、「平和の祭典」は第一次、第二次両世界大戦の前に無力だった。大戦前後には予定された大会が中止され、スポーツが平和をもたらすのではなく、平和があってのスポーツという厳しい現実をIOCに突きつけた。一九三六年のドイツのベルリン大会では、ユダヤ人排斥を進めるナチス政権に対し、欧米で参加ボイコットの動きが出た。ナチスは大会期間中、一時的にユダヤ人に対する処遇を緩和することで、ボイコットなく大会を開催し、プロパガンダの場として利用した。

 ナチスがプロパガンダの手段として、このオリンピックで初めて導入したのが、聖火リレーとテレビ中継だったのは興味深い事実だ。この二つはその後、オリンピックに欠かせないものとして現在までの大会に引き継がれた。特にテレビ中継はIOCが世界各国の放送局から巨額の放送権料を得ることで収入の柱となっている。

 その後も、オリンピックは国際情勢に翻弄され続けている。

「平和の祭典」はIOCが共産圏初のオリンピック開催地に選んだ一九八〇年モスクワ大会でも大きく揺らいだ。ソビエト連邦(現ロシア)が前年、アフガニスタンへ侵攻し、米国がモスクワ・オリンピックのボイコットに動いたからだ。

 西側諸国の対応は割れた。日本政府は早々にボイコット方針を固め、日本オリンピック委員会JOCは従った。IOCの理念はこの時、日本では大きく後退した。参加を訴えた柔道無差別級代表の山下泰裕氏は無念の涙を流した。その山下氏は二〇一九(令和元)年にJOC会長、二〇(同二)年にIOC委員に就任した。東京オリンピック招致疑惑で事実上引責辞任した竹田恆和前会長の後任である。

 一方、イギリスは政府がボイコットを求めたものの、英オリンピック委員会は選手を派遣した。陸上中距離選手のセバスチャン・コーは金メダルを取り、国会議員に転身後、二〇一二年ロンドン大会組織委員会委員長を務め、二〇一五年からは国際陸上競技連盟IAAF、当時。二〇一九年十一月からワールドアスレティックス〈WA〉)会長を務めている。

 その後、一九八四年のロサンゼルス大会は東側諸国の多くがボイコットする中、ルーマニアはユーゴスラビア(当時)と共に参加した。ソ連の意向に反した行動は、チャウシェスク大統領の強権があってこそ可能だった。しかし、五年後、チャウシェスク大統領は独裁者として、革命の混乱の中で処刑された。これら一連の動きも、平和とスポーツの祭典であるとIOCが主張するオリンピックが、政治との危ういバランスの下で成立している現実を示した。

自ら政治的に動くIOC

 オリンピズムの理念が色あせようとする中、「平和の祭典」を再びアピールしたのはアントニオ・サマランチIOC会長(在任一九八〇~二〇〇一年)だった。彼の在任中は、二つのボイコット、プロ選手の容認、一九八四年ロサンゼルス大会以降のオリンピックの民営化、テレビ放送権料急騰による商業化など、IOCは批判にさらされ続けていた。

 そんな中、サマランチ会長は一九九二年に、「オリンピック休戦」を提唱し、国際連合は九三年の総会でオリンピック休戦遵守に関する決議を採択したのである。対象となったのは、ユーゴスラビア解体後、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の真只中にあったサラエボである。サラエボは八四年冬季大会の開催地でもあった。そこで、近代オリンピック百周年にあたる九四年のノルウェーのリレハンメル冬季オリンピックの期間中の休戦を呼びかけた。しかし、結局は休戦に至らなかった。

 その後もIOCは、朝鮮半島問題で南北統一旗による韓国・北朝鮮選手団の行進を認めたり、二〇一六年ブラジルのリオデジャネイロ大会で難民選手団の参加を認めたりするなど、自らが政治的な動きを強めている。

 このように、オリンピックは最初から現在まで、政治や経済、さらには「時代」といったものに翻弄されてきた存在である。だからといって、オリンピックに対するクーベルタンの純粋な思いは否定されるべきではない。彼はその資産の大半をオリンピック・ムーブメントに注ぎ込み、晩年は事業の失敗もあって破産、失意の死を迎えている。

 問題はその後継者たちである。とくにオリンピックが商業化したと言われるアントニオ・サマランチIOC会長時代以降、オリンピックはあまりに巨大なビジネスと化してしまった。二〇二〇年東京大会のマラソン、競歩の競技地を巡る騒動で、「アスリート・ファースト」という言葉をよく聞いたが、それは建前に過ぎず、実際は「マネー・ファースト」の興行の様相を強めている。

 第二章からは、その実態を明らかにしたいと思う。

第二章 IOCを巡る不透明なカネの流れ(1)

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