不滅の王者、〝鉄人〟ルー・テーズは、人格的にも世界最高のプロレスラーであった。この最大限の賛辞に、異論を唱える人はいないと思う。
テーズとよく比較される同世代のカール・ゴッチも確かに強かったが、テーズはレスリングの求道者、日本流にいえば宮本武蔵だ。テーズこそが「プロレスの神様」だった、というのが、半世紀にわたって取材現場で格闘技を見続けてきた私の結論である。
プロレスの見方は好き嫌いによって分かれる。私はジャイアント馬場党、アンチ・アントニオ猪木派だ。外国人レスラーならテーズ派、ゴッチ嫌い。幾何学的な動きのゴッチのファイトは、どうしても好きになれなかった。こうした観点から原稿を進めてみたい。
テーズの日本における歴史的な初戦は、1957(昭和32)年10月7日、東京・後楽園球場で力道山の挑戦を受けた世界ヘビー級選手権試合である。同年10月13日、大阪・扇町プールで2人は再戦する。2戦とも引き分けだったが、私はどちらも取材していない。
私が初めてテーズを見たのは3度目の来日、66年2月28日、ジャイアント馬場のインターナショナル選手権に挑戦した試合からだ。60分3本勝負で、テーズは馬場に宝刀のバックドロップ(岩石落とし)を見舞って1本目はフォールを奪ったが、最後に逆転され1─2で敗れている。この時、テーズは49歳で、NWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)世界ヘビー級王者であった。
ルー・テーズの経歴について、資料のほとんどが1916年4月24日、セントルイス出身となっているが、実際はミシガン州バナット生まれである。生後間もなく、セントルイスに引っ越したというのが正しい。
セントルイスはミズーリ州東部に位置する。ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ギリシアなど、ヨーロッパ各地からの移民によって構成され、発展してきた工業都市だ。そこにはユダヤ系の人たちもおり、アメリカ合衆国の建国を象徴するような土地柄だ。
テーズの父親マーチンは母国ハンガリーでグレコローマンの名選手だった。靴修理で生計をたて、セントルイスで母親キャサリンと知り合い、1910年に結婚している。息子のテーズにレスリングを手ほどきするのは自然の成り行きだった。8歳ごろから父親がグレコローマンのレスリングを教えるようになっていた。
手元に講談社文庫、流智美訳『鉄人ルー・テーズ自伝』がある。
流氏はプロレス史研究家で、テーズが日本滞在の時は、マネージャーを務めた人だ。私のプロレス仲間でもある。
このテーズ自伝を引用しながら、「私見ルー・テーズ」を展開してみたい。
父親の靴修理の仕事が忙しくなったため、中学を中途で辞め、本格的に靴職人となったテーズは、仕事の傍ら、プロレスラーの公開練習場「ビジネスマンズ・ジム」に通うことになる。16歳で183センチ、82キロという、ジュニア・ヘビー級の立派な体格を誇り、すぐにセミプロとしてデビューした。
セントルイスはヨーロッパからの移民が集中していたため、スポーツといえばレスリングだった。こうした環境が、テーズ少年を強く押し上げたのだ。
天性の運動神経を開花させたのは、いい指導者との出会いがあったからだ。
第1のコーチは、ほかならぬ母国ハンガリーのミドル級王者でもあった父マーチンだ。
第2のコーチは、1930年代、ガチンコ勝負に強かったことから、〝闇の帝王〟と恐れられたジョージ・トラゴスだ。トラゴスは08年と12年のオリンピックにギリシア代表(ミドル級)として出場したのち、15年にアメリカに渡りプロレスラーになった本格派である。
テーズは2年間、このトラゴスにみっちり指導を受ける。ストロング・スタイルの基礎を叩き込まれ、必殺のダブル・アームロックをマスターした。
第3のコーチは〝狂乱の20年代〟を代表する古豪エド・ストラングラー・ルイスだ。〝締め殺し〟ルイスと恐れられ、ジョー・ステッカーを破って第8代世界ヘビー級王者となり、3度世界王座に就いた。時のプロボクシング王者ジャック・デンプシーと並び称せられた伝説のファイターだ。
第4のコーチは、元ライト・ヘビー級王者のアド・サンテルだ。1910年から20年代にかけ、ライト・ヘビー級では無敵を誇り、ジョージ・トラゴスとも並ぶ関節技の使い手だった。戦前、日本の柔道家に挑み、本家・講道館を震撼させてもいる。
2人が知り合った当時、テーズは19歳、サンテルは52歳。サンテルの実力は衰えておらず、持てるテクニックを惜しげもなくテーズに教えた。テーズは時間の許す限り、サンテルとのトレーニングに励み、5ヵ月の間「サンテル教室」が続いたという。
テーズ自身、「ジョージ・トラゴスに教えてもらったテクニックがプロレスの全てだという風に思っていた私に、プロレスの奥に底がないということを教えてくれたのがサンテルだった」と述懐している。
名だたるプロレスの達人、職人にしごかれ鍛えられたテーズ。20歳にしてサブミッション・マスターと称号がつけられる。「関節技は研究しても尽くしきれない奥の深さがあり、トラゴス教室の時と同様、私はサンテルに教わった技を寝る前に必ず復習したものだ」(ともに自伝より)と語っている。
有望な新人がいる──テーズの評判は、セントルイスの有力一般紙「セントルイス・ポスト・ディスパッチ」の目にとまり、1937年1月、地元期待の新人として連載記事になった。これがステップ・アップの第一歩につながってくる。
連載記事は30回続き、テーズの知名度が一気に高まった。この記事は、同紙のプロレス好きの中堅記者サム・マソニック(後にプロモーターに転身)が書いた。
そして、待望の世界王座挑戦へのチャンスが巡ってくる。他の地区を転戦していた王者エベレット・マーシャルがセントルイスに乗り込んできたのは、その年の7月だった。
テーズのタイトル初挑戦は、マーシャルのうまさに翻弄され、エビ固めでフォール負けを喫した。若さを露呈した試合だった。だが、8月のカンザスシティにおける再戦で粘りに粘り、マーシャルを押しまくった。60分フルタイム戦って引き分け、タイトル奪取に確かな手応えをつかんだ。
テーズはその年の11月10日、セントルイスでジョージ・ザハリアスを破って再度挑戦権を獲得。12月29日にキール・オーデトリアムで、マーシャルへの3度目の挑戦にこぎつけたのだ。
当日、会場には両親のほか姉も妹も応援に駆けつけたという。試合ではテーズがマーシャルをエアプレン・スピンで振り回してみせた。するとマーシャルは場外に逃げ出し、そのまま戻らず、53分、試合放棄でテーズの勝利となった。
21歳8ヵ月、史上最年少の第23代世界チャンピオンの誕生である。控え室は大騒ぎだった。先輩レスラーのウォーレン・ボックウィンクル(AWA世界王者となるニック・ボックウィンクルの父親)がシャンペンを抜き祝福してくれた。しかし、テーズ自身は思うような技が出せず、試合内容に不満があったようだ。
チャンピオンになったテーズの仕事は想像以上にハードだった。38年1月からセントルイスに落ち着いて居られず、テキサス州ヒューストンからサンアントニオ、ダラス、西海岸のロサンゼルス、さらに東海岸のニューヨークへと移動するサーキットだったのだ。
コンディションを整えるのがやっとの生活が始まった。右内耳炎を患って最悪のコンディションで防衛戦をやったのが同年2月11日、ボストン・ガーデンでスチーブ・ケーシーの挑戦を受けた試合で、ケーシーに右耳を徹底して狙われ、逆エビ固めを食って惨敗。王座獲得から6週間でベルトを失っている。
それでもテーズは内耳炎を完治させると、再び世界王座を狙うことになる。ケーシーの王座は長続きせず、ベルトはエベレット・マーシャルに戻っていた。39年2月23日、セントルイスの試合会場ジ・アリーナは、テーズの地元だけに1万2100人の大観衆で埋まった。テーズはお得意さまのマーシャルを破って王座返り咲きを果たし、2年前の最年少タイトル獲得がまぐれでなかったことを証明した。
再びベルトを巻いたテーズは、マーシャルとのリターン・マッチを4度退けるなど順調に防衛戦を進めるが、想定外の難敵につまずいた。
アメリカンフットボールのレジェンドとしてその名を残す〝荒馬〟ブロンコ・ナグルスキーだ。プロレスに転向して4年目だった。
39年6月25日、テキサス州ヒューストンでこのナグルスキーと激突、試合は3本勝負で、1本目は、テーズが元王者レイ・スチール直伝のクロスフェイス(STF)でギブアップを奪った。だが2本目に、ナグルスキーのタックルに吹っ飛ばされ、トップロープから転落、コンクリートの床に左ヒザを打ちつけるアクシデントに見舞われる。テーズはリングに戻れずカウントアウト。左ヒザの皿が割れ、身動きがとれず、負傷棄権で再び王座を明け渡す結果となった。
テーズはこの負傷で約1年間、実戦から遠ざかる羽目となった。セントルイスの病院の整形外科医に「皿がくっつくまでには最低6ヵ月、リハビリに3ヵ月、その間に失う左脚の筋肉を取り戻すのに3ヵ月、合計1年はかかる」と診断され、愕然としたという。57年間に及ぶ選手生活のなかでもっとも長い欠場となった。さすがのテーズもこの時ばかりは、絶望感から「引退」も頭にちらついたという。
ちょうどそんな時期、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスが参戦して第2次世界大戦の火ブタが切られた。41年12月には日本軍がハワイのパールハーバーを奇襲、さらに戦火が拡大する。アメリカの20~30歳の若者の多くが兵役に召集され、23歳のテーズも例外ではなかった。
テーズが配属されたのは、テキサス州ヒューストンにある陸軍のシップヤード(戦艦工場)で、任務は兵士たちに「武器を持たぬ格闘術」を教えることだった。
そこでテーズはなんと、プロレスラーとして、テキサス一帯の興行試合に出場することを許された。米国政府は戦争資金を捻出するために、プロレス興行の売り上げの20%を、上納させるシステムを作っていたからだ。
軍曹になったテーズは43年夏、北西部のワシントン州フォートルイス基地に異動を命じられ、ここでも兵士たちに「武器を持たぬ格闘術」を教える教官として勤務する。軍隊でプロレスをやっていたのである。この事実を知った時、「これは凄いことだ!」と私は唸ってしまった。これがアメリカの国力なんだ、と思い知らされたものだ。
テーズにとって、強制的であったにしろ、軍隊生活のなかでプロレスラーとしてリングに立てたことは幸運であった。46年6月14日、30歳のテーズは任務を終えて除隊となり、6年半ぶりにプロレス界に復帰する。
第2次大戦の空白によって米国のプロレス・マーケットは大きな変貌を遂げていた。テレビという新しいメディアの登場によって、プロレスのファイト内容、興行システムも必然的に変わらざるをえなかった。テーズもまた、こうした新しい波にのみ込まれていく。
48年から全米ネットワークとなったプロレス番組が、ゴールデン・タイムで毎週、放映され、人気に拍車をかけた。視聴者の興奮を煽り、ショーアップの色を濃くしていった。
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