「地獄……そう、まさに生き地獄でしたね」
数時間に及ぶ暴力。罵倒。奴隷のような服従を強いられた日々。
想像を絶する結婚生活から決別して、約1年。絞り出すような小さな声でそう言って、孝江さんはため息をついた。
55歳。丸めた背中が、小柄な身体をいっそう小さく見せている。長年の虐待の結果、傷ついた心と身体。歩く足取りさえ、おぼつかないのが痛々しい。
最近はリウマチに悩まされ、いまも病院通いが続く。
腰痛もムチウチ症もすべて夫の暴力のせい。逃げ出すきっかけになった激しい暴力のあとは、腎臓が出血して腫れていた。
「なんで、わたしだけこんな目にあうのか。一生懸命、尽くしてきたのに……」
情けない。悲しい。くやしさが突然の嵐のように襲ってくると、自分でも歯止めがきかなくなる。電車のなかだろうが歩道の上だろうが、ところかまわず泣き出してしまうのだ。
夫の前では泣くことも許されなかった。でも、いまなら思い切り泣ける。
そのささやかな自由が何物にも代えがたいのである。
「こんなにやさしい男はいない」と言って殴り続ける夫。
結婚生活という名の“34年間の地獄”について、孝江さんはポツポツと語りはじめた。
20歳で結婚。夫の第一印象は「おとなしい人」だった。「だけど、わたしの思いちがいでした」と、孝江さんは力なく笑う。
わがままで自分勝手。他人を思いやるということを知らない。
「赤ちゃんなんですよ。あの人は」
記憶のなかの夫の姿を思い浮かべながら、孝江さんは、確認するように、そう何度も繰り返した。
結婚して2、3年経ったころから、暴力がはじまった。
はじめて妊娠したときのこと。じんわりとした幸福にひたる妻とは対照的に、夫はあからさまに苛立ちはじめた。子どもを欲しがっていないことは明らかだった。
つわりがひどく、家事を完璧にこなすのがつらくなると、夫は援助の手を差し伸べるどころか、「何を甘えとんのじゃ!」と悪態をつき、身重の妻の腹部を何度も蹴った。妻の可愛がっていた猫を乱暴に投げ飛ばして、苛めたこともある。
「わたしがこんな身体では、夫の世話を十分にしてあげられない。だから怒られるのだ」
そう思いつめた孝江さんは中絶を選択する。
次に妊娠したときも状況は変わらなかった。暴力とストレスで母体も危険な状態になったが、「今度は、どうしても産みたい」と必死で持ちこたえた。
瀕死の状態の妻を見て、はじめて事態が切迫していることを知り、夫は泣いた。だが、別に妻やお腹のなかの子どもが心配だったからではない。
「もし、あいつが死んだらオレはひとりになる。それは寂しい。あんなヤツを嫁にもらった自分が不憫だ」
己の不幸な境遇を哀れんで泣いたのだ。
何度も入退院を繰り返したが、結果は死産。そのときも、「オレの嫁は子どもも産めん」と腹を立て、いたわりの言葉もかけなかった。
大腸から原因不明の出血が続き、病院から検査を奨められたとき。
「そんな大袈裟な。オレへのあてつけか?」
夫は心配するどころか、逆にもっと怒り出したという。
相手の立場や気持ちなど、これっぽっちも考えない。妻がぎっくり腰で立てなくなってもお構いなしに家事をやらせる。しかも痛む腰をわざと蹴り上げる。
そんな自分本位の非情な男。
一方、自分の痛みはオーバーに主張してはばからない。蚊に刺されただけでも、「ああ、こんなに腫れて、たいへんだ!」と大騒ぎをする。
妻を殴ったあと、「腕が痛い」「おまえのせいで、指にケガした」などと妻を責めるのも常のことなのだ。
「オレほどやさしい男はいない。こんなに自分を犠牲にして、こんなに辛抱して、おまえのことを幸せにしてやってるのに……」
それが夫の口癖だった。
客観的に見れば、まったく筋の通らない奇怪な論理だが、本人の手前勝手な理屈では、そういうことになるのだろう。
暴力をふるわれたあと、妻は決まって台所で寝た。
冷蔵庫の発する規則的な機械音が子守り歌のように心地よかった。「ブーン、ブーン」というその低い音が階上にいる夫の気配を消してくれたからだ。
不平不満を言うことは決して許されない。朝になると何事もなかったように、にこやかな笑顔で夫を迎えた。
ひと晩中、夫の足をマッサージする長い夜。拷問のような毎日。寝言でも妻への不満を並べ立てる男。
その首を絞めてやりたいという衝動にかられたこともある。手当てを受けに行った病院で順番を待ちながら、「いっそ、このまま、消えてしまおうか」と考えたのは、一度や二度ではない。
実際に家出を試みたこともあった。
それでも、離婚を強行しなかったのは、「親や親戚に心配をかけたくなかった」から。「わたしにも悪いところがあるんだ」と思い込み、「もっと努力して、夫に尽くそう」と考えていたのだ。
夫は、孝江さんの飼っていた猫や犬にもやつ当たりした。給与明細を見せない、病院に払う医療費も渡さないなど、経済的な虐待も受けていたのである。
外では真面目な会社員だった夫の社会的面目を保つため、どんなに酷い目にあっても、近所や警察に助けを求めなかった。
だが夫の定年も目前に迫り、孝江さんの心も少しずつ変わってきた。もういいだろう。そろそろ潮時だ。今度こそ逃げよう。
そんな思いが高まってきた。
弁護士にも密かに相談し、家出に向けての準備を整えたのである。
1年前の夏の日。地獄からの脱出は成功した。
その日の出来事を、孝江さんは鮮明に記憶している。
いつものように6時ごろ帰宅した夫は、居間にどんと座って仕事の愚痴を言いはじめた。
オレはこんなに必死で働いている。仕事もできる優秀な男だ。他のヤツときたら、役立たずでどうしようもない。だからオレが苦労をする……。
毎日、同じセリフの繰り返し。自分の自慢と他人の悪口。そんな繰り言が1時間は続く。
その間、ねぎらいの言葉をかけながら、冷やしたタオルで首筋を拭いたり、と、できる限りのサービスをする。夫の機嫌を損ねないように、細心の注意を払いながら。
もし少しでも気に入らないことがあれば、結果はわかっている。気を失うまで殴られて、蹴られるのだ。
いったん逆上すれば、万事休す。きっかけはいつもささいなこと。何が夫の気に障るのかまったくわからないため、とても気をつかう。
愚痴をひと通り言い終えた夫は、すっきりした顔で台所に入ってきたが、次の瞬間、目つきが変わった。暴力をふるうときの、あの獰猛な目。ぞっとするような、冷酷な、あの恐ろしい表情に変わっていたのだ。
孝江さんの顔から血の気がひいた。
いったい、この夕食の献立の何が気に入らなかったのだろう。数種類の野菜の煮付け、酢の物、手作りのタレに漬け込んだ焼き鳥と、酒の肴も十分にあるはずなのに。
夫の機嫌を損ねた原因は、今日のメインのカレーライスだったらしい。
「1日中、家に居るくせに、こんな手抜きをするとは、いったい何をしてるんや! こんなもん、食えるかぁ!」と怒り出したのだ。
「気に入らへんかったら、いますぐつくり直すから! 酒の肴から食べはじめといて。な? その間に、ちがうもん、つくるから」
孝江さんはとりなそうとしたが、夫の怒りは収まりそうもない。
「いまから、そんなもん、どないすんねん! 食事の支度もロクにでけへんようなもんは、女房としての価値がないんや! 出て行け!」
ひとたび夫の怒りに火がつけば、もうとめられない。孝江さんは、「あぁ、今日もまた殴られる」と半ばあきらめながらも、「悪かったわ! すぐにちがうもんつくるから。な、これでも食べながら、待っといてください」と懇願した。
悪い予感は的中した。
「十分な金も渡して、遊ばしてやってるのに」
「オレは毎日、こんなに働いているのに」
そう言いながら、夫は妻に殴りかかった。
拳骨、平手、そして殴る自分の手が疲れると、足を使う。殴られた衝撃で倒れた妻の身体を、ここぞとばかり思いっきり蹴り上げるのだ。頭も顔も容赦はしない。
「殺してやる!」「死ね!」
そうわめき続けながら、ひたすら夫は蹴り続ける。
少しでも攻撃を避けようと、側にあった扇風機を引き寄せてバリケードにしたが、逆効果になった。夫は扇風機をとり上げて、今度はそれを妻の身体に叩きつけはじめたのだ。
「あかん。このままやと、殺される」
そう感じた孝江さんは、家の外に出て助けを呼ぼうと考えた。隙を見て、必死の思いで玄関の外に飛び出したのだ。
いま、逃げなければ、取り返しのつかないことになる。そう腹を決めた。
夢中で外に駆け出すと、夫も追いかけてきた。あっけなく捕まったが、家のなかに引き込まれたら終わりだ。孝江さんは、門の柱につかまって抵抗した。
そして、34年間、一度も声に出さなかった言葉を、はじめて叫んだのだ。
「助けてぇぇー! 誰か、助けてぇぇー!」
ありったけの声をふり絞って叫んだ
34年間の思いを込めて。何度も、何度も。
夜の7時ごろである。近所の人も家にいて、その絶叫を聞いたはずである。だが、誰も助けてはくれなかった。見て見ぬふりを決め込んでいたのだ。
渾身の力で門柱にしがみついて叫び、抵抗した。
そんな妻を夫はなおも蹴り続ける。腕を力の限りねじり上げられると、身体が不自然にゆがみ、腕がきしんだ。それでも、柱を放さなかった。
外にいれば、そのうち誰かが通りかかって助けてくれる。家のなかに連れ込まれれば密室だ。今日こそは絶対に殺される。
そう考え、無我夢中で門柱をつかんでいた。
そのとき柱をつかんでいた指は、1年たってもまだ腫れがひかない。神経が切れてしまったらしいのだ。夏だというのに手袋で覆われた孝江さんの手が痛ましい。その傷が“戦闘”の凄まじさを静かに物語っている。
だが、精一杯の抵抗も、男の腕力にはかなわなかった。
ついに柱から引きはがされ、「まるで、カエルでもぶつけるように」、孝江さんの身体は軽々と持ち上げられ、玄関の板の間に叩き付けられたのだ。
「おまえはオレをめちゃめちゃにしたんや!」
「おまえを殺して、オレも死ぬぞ!」
そう繰り返し叫びながら、夫は妻の身体を殴り続けていた。人形のように無抵抗に転がっている相手を、気のすむまで痛めつける。腕が疲れてくると足で蹴り、次は台所から包丁を持ち出して、包丁の背で頭をゴンゴン叩いた。
殴られ続けた孝江さんの顔は視界が遮られるほどまぶたが腫れ、無残な姿になっていた。
狭くなった視界に、夫の恐ろしい姿がかすかに映る。
反抗する気力も失い倒れたままの自分の横に座り込み、「死ね!」「こんなしょうもない女房をもらって、オレは被害者なんや! 慰謝料を払え!」と罵り続ける男。
この世のものとは思えないほど、残忍な形相の男。
34年、そんな男に尽くしてきたのだ。
遠のいていく意識のなかで、そんなことを考えた。
ひっ迫した生命の危機のなかでも、怖いぐらい冷静な自分がいた。クールに状況を見据えるもうひとりの自分が……。
「今度ばっかりは、これでホンマに終わりや」
ぼんやりとした頭で、そう悟った。
気を失いかけると夫が叫ぶ。
「なに寝とるんや!」「人がこれだけ一生懸命やのに、寝るとはどういうことや!」
「これ以上苦しめんとって。殺すんやったら、首でも絞めて、一気に殺してぇ」
そう哀願もしてみた。
体重42キロのか細い身体でも、人間は案外頑丈にできているらしい。こんなに痛みつけられても、まだ生きている自分が不思議だった。
やっと気が済んだのか、夫が2階の寝室へと消えたのは、夜中の12時を回ったころ。5時間も暴力を受け続けていたことになる。咳もできないほど、身体のあちこちが痛かった。
でも、まだ生きていた。
もう逃げるしかない。じっと明け方になるのを待ち、身の回りのわずかな荷物を詰めたリュックだけを持って、こっそりと家を出た。
ちょっとでも物音をたてたら、2階にいる夫が起きてしまう。そうなれば終わりだ。まちがいなく殺される。そう考えるとひどく緊張して、身体の激しい痛みも忘れた。
息を詰めて、玄関の外に出た。
まだほの暗い朝の街。帽子をぎゅっと目深にかぶり、眼鏡をかけた。そして、少しでも早く、少しでも遠くに行こうと、夢中で走った。早朝のことで、タクシーの姿も見えない。待っている時間はない。とにかく先へ動こうと、なるべく夫の知らないような道を選び、ボロボロになった身体をひきずるようにして、ひたすら走った。
進む方角など、どうでもよかった。
ただ、遠くへ。一刻でも早く夫から離れた場所へ行かねばならない。それしか頭になかった。
どれぐらい走っただろうか。ずいぶん遠くまで来たはずだ。そう思うと、ふっと気が緩み、動けなくなった。身体に痛みが走り、その場にしゃがみこんだのだ。これ以上走れない。
その場所でタクシーを待った。空車が目の前でとまり、ドアが開く。
「あぁ、助かった」
タクシーが動き出したとき、安心すると同時にはっと我に返った。
「とにかく、病院へ行かなきゃ……」と。
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