陸軍史上稀なるエリート将校はなぜ「斬殺」されたのか
陸軍士官学校を主席で卒業し、陸軍大学では成績優等者として恩賜の軍刀を授与された「陸軍の至宝」永田鉄山。50歳にして陸軍省の要職、軍務局長に抜擢されたが、その1年後、白昼の陸軍省内で現役の中佐に斬殺されてしまう。後年、「永田がいれば大東亜戦争は起きなかった」とまで評された男は、なぜ殺されたのか。怪文書が飛びかい、クーデター計画が相次いだ陸軍内の「派閥抗争」の渦中で、永田が闘い続けたものとは何か。日本近代史上、類のない衝撃的な事件の真相に迫るノンフィクション評伝。

はじめに

 昭和十年(一九三五年)八月十二日、日本各地で号外が配られた。その主な見出しを並べてみよう。

「永田陸軍軍務局長 中佐に斬られ危篤 登庁直後局長室で」(読売新聞)、「永田陸軍々務局長 現役中佐に斬らる」(東京日日新聞)、「永田軍務局長 斬られて重傷・危篤 けさ陸軍省で執務中 犯人は現役某中佐」(時事新報)。

 更に、同日の夕刊にも、「永田陸軍々務局長 省内で兇刃に倒る」(東京朝日新聞)、「陸軍稀有の逸材」(東京日日新聞)、「凶変八・一二事件」(報知新聞)といった言葉が続く。

 この日の午前九時四十分頃、陸軍省軍務局長・ながてつざんは、陸軍中佐・あいざわさぶろうに軍務局長室にて斬殺された。享年五十一。陸軍の中枢部である陸軍省において、軍幹部が現役将校に暗殺されるという事態は、近代日本の陸軍史の中でも他に類例のない大事件であった。

 この事件は現在、「相沢事件」「永田斬殺事件」などと呼ばれている。

 永田を評する言葉は、数多く語り継がれている。曰く、「陸軍の至宝」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」「永田がいれば大東亜戦争(太平洋戦争)は起きなかった」などである。

 確かに、永田の急逝は、昭和史における大きな分水嶺となった。日本の敗戦の要因を逆算していくと、永田暗殺事件に辿り着くという観点は、充分に検討に値する。

 無論、「永田がいれば大東亜戦争は起きなかった」という言葉の蓋然性など、容易に実証できるはずがない。但し、斯かる言葉が生じるに至った経緯や背景に関しては、幾つかの側面から考察することができよう。

 だが、そんな永田の実像については、意外なほど知られていないのが現状である。昭和史に一定の関心を寄せる層においても、「暗殺された軍人」「統制派の中心人物」ほどの理解で留まってしまう方が少なくないのではないだろうか。

 即ち、永田の人間性や功績、或いは国防観や世界観などに関する研究や論考は、未だ充分とは言い難い状況に甘んじているのである。

 果たして「陸軍の至宝」と言われた男とは、如何なる表情を有した人物であったのか。そして、そんな彼が何故、同じ陸軍の佐官に暗殺されなければならなかったのか。

 本稿を通じて、彼の素顔に少しでも迫ることができれば嬉しい。

 まずは彼の故郷の地から、この評伝を編み始めたいと思う。

第一章 諏訪時代(1)

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