終わらない日本と中国「文明の衝突」を理解するために
新たな国際秩序を目指す中国の論理を、文明史的視点から読み解く。安倍政権の安全保障ブレーンが説き明かす中国外交の本質。

1章 中国とアングロ・サクソンとの対峙

   ──香港返還以後のせめぎ合い──

 次の文章は、今から十数年前(一九九七年六月)、イギリスから香港が返還される日を間近に控え、二一世紀の中国の大きな展望の必要性を感じた折に、著者(中西)が書き残した一文である。

   あとひと月足らずで、いよいよ香港が中国に返還される。そして、その中国は「二一世紀の世界大国」になる、と人々は語っている。実際、香港の返還を目の前にして、人々の問いは返還後の香港の行方とともに、中国そのものの未来像へと収れんしている。

   はたして本当に中国は二一世紀の超大国となるのか、経済成長の持続性はどうか、民主化の可能性は、もしかすると分裂することにならないか、等々といった直截な問いかけが今、至るところで聞かれ、専門家と称する者も、どこか苦しまぎれの表情で、「シナリオ」とか「ファクター」といった語を連発し必死に答えをしぼり出そうとする。たしかにこの二〇世紀の世紀末、他の何にもまして、「中国はどうなる」という問いこそ、世界にとって最大の問いとなりつつある。とりわけ、この巨人の東方の海上に住む我々日本人にとって、この問いは、もしかすると数世紀にわたる「大いなる問い」となる可能性すらある。

   しかし一つはっきりしていることは、香港の返還を境に、近代の中国史が新しい段階に入り、我々の知っている中国がこれまでとは異なる相貌を新たに帯び始めるであろう、ということである。とくに、それは中国と国際社会とのかかわり、という面ではっきりと浮上するように思われる。

   中国が外部の世界との間に、新しくどのような関係に立つことになるのか、おそらくこの問いかけが、中国国内のさまざまな動きに関するどの問いよりも、大きな意味をもってくるはずである。たとえば、豊かになり民主化した中国は必ず「平和一辺倒」の国となるだろうか。今後この問いのほうがずっと重要となるはずである。

   言うまでもなく中国は、すでに一世紀以上にわたり、国際社会との緊密な関係を経験してきている。その発端となったものこそ、中国が香港を失った、あのアヘン戦争であった。そしてその香港がいま、再び中国の手に戻ろうとしており、しかもちょうどそのとき、近代の中国史に決定的な影響を与えた、半年前のあの小平の死が重なってくるのである。この符合の意味するものは、現在一般に意識されているよりもずっと大きいように思われる。

   というのも、小平の始めた、あの「改革・開放」は、中国の社会を根底的に変えつつあるからである。たとえば中国史におけるイデオロギー支配の伝統や、中国社会のエリートのあり方をも大きく変容させた。しかしそれと並んで「改革・開放」は数千年にわたる中国と外部世界との関係を画期的に変えてしまったことがあげられる。小平の作り出した中国はすでに、「地大物博」(中国は自ら必要とするあらゆる物産・資源に恵まれ、外国に依存すべきものは何もない、という意の古来の成句)や「自力更生」(毛沢東時代、中国の近代化は外国に依存しない、としたスローガン)の中国から、今やGDPの四割という、まさに命綱といえるくらい外部世界にその生存を託する存在となってしまった。小平は、そのような中国を後に残して去っていった。そしてそのとき、一五〇余年を経て香港が戻ってくる。

   香港を喪失して以後の中国は、この一五〇年間、もっぱらその「傷」によるを介して国際社会とかかわってきたようなところがある。そして今、その「傷」の後遺症としての「うずき」を癒したあと、中国は外部世界と、はたしてどのようなかかわり方をすることになるのか。いま中国をめぐる問いの核心はここにある。そして、その答えは、やはり中国の歴史の中にしか見いだしえないのではないだろうか。 (『論争東洋経済』東洋経済新報社、一九九七年七月号掲載)

 香港返還に際して私の心に浮かんだ、このような中国の将来への展望を、この三〇年にわたる私の中国への考察に重ねてゆくために、本書はこうした視点から、近代だけでなく、中国と外部世界のかかわりを中国史のより大きなスパンの中で探ってみようとするものである。もちろん、この遠大な課題を考えてみれば、おそらくその一端に取りつくだけでも大変な試みといわねばならない。しかし今日の日本と世界が直面しているこの問いの大きさを考えれば、決してそれは無益な作業ではないと思えるのである。

中国史がもつ独特の厄介さ

 中国と国際社会のかかわりを歴史的に探ろうとするとき、最大の問題は「中国史」というもののもつ独特の厄介さである。

 司馬遷の『史記』以来、中国は歴史というものを、その文明を成り立たせる一大構成要素として生きてきたとされる。実際「歴史なしの中国文明」、というものは考えられない。インド文明の深く宗教的ではあるが、徹底して非歴史的なその性格に比して、中国文明はすぐれて歴史的な文明だと対比されることもある。しかし中国を語るときの歴史は、つねにカッコつきの「歴史」として捉える必要があるように思われる。

 現代ヨーロッパを代表するフランスの中国文明史家、ジャック・ジェルネは、中国史にはつねに伝統的中華理念、つまり倫理的正統主義の観念に色づけられた歴史観が、歴史記述を深く拘束してきたことを指摘し、中国における「歴史」の特殊性を強調する(Jacques Gernet, Le Monde chinois, Paris: Gallimard, 1972)。

 そこには、西欧でいえば明らかに一つの「神学」、つまり「真理」とか「正義」といった非歴史的な夾雑物が一貫して「歴史」の中に混入されており、それがありのままの中国を知ろうとして中国史を見るわれわれの目を曇らせることになる。

 とりわけこのことは、朱子学の登場する一二世紀以後の「中国史」に強く当てはまる。しかもこの時代こそ、中国が外の世界との間に、重要な点で今日につながる大きな転機を経験した時代であった。またそれゆえにこそ、この時代以後、中国の歴史は「神学」の中に逃げ込む、いわゆる「中国史」へと変容せざるをえなくなったともいいうる。

 そこでは、過去は何らかの本来的な歴史上の重要な事実の集積というのではなく、社会秩序のあり方や権力行使の道義的評価に収れんする「歴史」が〝正統〟の座を占め、きわめて重要な社会や政治の動き、経済や制度、思想、技術の変化も、そこでは「瑣事」として切り捨てられ、時代が変わってもほとんど変化しない規範としての「歴史」という背景の中で、単に王朝の交代のみがあたかも大きな史的展開であるかのように描き出されてゆくのである。

 もちろんいくつかの有力な例外はあるし、また近代史学の導入によって、こうした「中国史の呪縛」は徐々に解消されてきたことも確かである。しかし、中国をめぐる国際関係の歴史だけは、依然として「神学」の影響がとりわけ強く残っており、中国人だけでなく、欧米や日本でも世界における中国を考えようとするとき、依然としてこの「呪縛」に拘束されている面がある。

 一九世紀以前の、中国とその外部世界との関係を扱う歴史を読むと、「てき」「朝貢」「中華秩序理念」といった、思想上の観念が現実の国際関係を支配しつづけたかのように描かれている。そこでは、中国は世界にきつりつする究極的権威であり、それ自体が「国際社会」であると見なす「自己イコール普遍」として、つねに外部世界に臨んだとされてきた。しかし本当にそうであったのか。

 戦前の日本が生んだ中国史の泰斗、内藤湖南はこの点で次のようにたいへん示唆に富む叙述を残している。

 「支那という国は、こん(清末)に限らず、外国と戦争をして敗けると、時々、種族の観念を起すのである。ずっと前に、宋が蒙古のために亡ぼされる時にも、此の観念を非常に強くして最後まで奮戦した。……それから明が今の清に亡ぼされる時も、またこの通りで最後まで花々しく戦った。そういう風に外国から侵略されたり敗けたりすると直ちに、種族観念を起すが、(他方)自らが強くなると、いわゆる、のど元通れば熱さ忘るるで、じきに又、天下とか中国という考えになる」 (一九一一年の講演「清朝衰亡論」。『内藤湖南全集』第五巻、筑摩書房、一九六九年、二三九~二四〇ページ)。

 ここで内藤のいう「種族の観念」とは、一般にナショナリズムを指す、と捉えてよいが、ここでの関心からいえば、漢民族のナショナリズムというより、内藤のいう古典的な「支那国家」が、実は国際社会の中にいくつもあり、それぞれ固有の力と権威をもった国家群の一つにすぎないことを、力の現実からやむなく受け入れ、そのうえで他の国家主体と張り合い、自己保存を図ろうとする中国史の底流に伏在する観念ないし衝動、といったほうがよいだろう。その意味では、「種族の観念」というより、自らも〝ワン・オブ・ゼム〟であることの自覚を基盤とする「国家の観念」といったほうがよいかもしれない。あるいは、少なくともこの両者の中間に当たる何ものか、と見ることができる。

 このことをもっとはっきり示しているのが、清末の改革派政治家、康有為が一八九五年、日清戦争の講和、下関条約に反対して著した『公車上書』である。それは当時の中国が国際社会にどのようなかかわり方をすべきかという根本問題を、清朝皇帝への「上書」という形をとって論じたものである。この中で康は、中国にとっての国際社会のあり方は本質的にいって、「並争之世」と「一統之世」という二つのモデルがあるとし、中国は今後、「一統」ではなく「並争」こそ普遍的なもの、という考えを受け入れるべきだ、と論じる。

 「並争」とは各国がそれぞれ対等な主権をもって独立し、せめぎ合っている状態であり、「一統」とはある一国の卓越した権威と力の下に、世界が統合されている状態だと考えられる。内藤湖南のいう「天下とか中国」という自画像は、この「一統」の観念を指し、それは本来、力の優越に依拠しつつも、むしろ権威の道徳的な優越を強く押し出す「中華に基づく普遍帝国」という意識につながる。

 反対に、力がある限度を超えて衰弱すると、「普遍帝国」から「万国対峙」へと国際社会観の転位が繰り返し起こるのである。つまりこの点では、「並争」とか「一統」というのは、根本的には、力という契機によって変動する国際秩序イメージなのである。

 いいかえれば、国際社会への態度がこのいずれに偏するかは、究極的には「力の意識」によるのであり、その動因をなすものは中国思想の根底の一角にある特殊な、そして本質的な意味でのプラグマティズムであるといえるかもしれない。

 実際、中国を見るとき、とくに日本人にとって難しいのは、「思想としての中国」と現実の中国像をどう折り合わせるかである。古典的な中国文明は日本に入ると普遍的思想として意識化された儒教的体系として根を下ろしたが、それがいっそう深く、「中国的なるもの」と感じるイメージの根底に据えられ、われわれの中国観の底にに浸透してきた。日本人の中国観が、現実とかけ離れ純化された「思想としての中国」から出発するがゆえに、その後現実に出会った中国を過度に否定的に見る傾向が生じやすい。このことは今日に至るも依然としてわれわれにとって深刻な課題のように思われる。

 我々の中でほとんど無意識に身体化されている「思想」中心の中国観を克服し、それこそ「実事求是」の中国観を、しかも感情的な大きな振り子を振るのでなく、いかにすれば新しく安定的に身につけることができるか、二一世紀のアジアを考えるとき、それは日本人にとっての最大の課題といっても過言ではないだろう。

中国思想の現実との落差

 先に引いた「清朝衰亡論」の中で、内藤湖南は、「かくあるべし」と唱える中国思想が社会の実際とは全く大きくかけ離れる例として興味深い話をしている。

 「支那人は、そのと実際とが平常から一致しないことがある。(たとえば)支那人は非常に細君を怖わがる。はくないとかないということが通り言葉となっていて、支那の女は事実、気が強い。しかしその教えとしては、どこまでも社会上の位置として婦人が飛び出すべきはずではないのである」(内藤・前掲書、二四七ページ、傍点・中西)。

 中国における「思想」の際立ったフィクション性について、もう一つの例は兵事(軍事)に関する忌避観である。俗に「良い鉄は釘にしない。良い人は兵にならない」といういい方がある。たしかに平和主義は中国思想における一つの、しかも有力な理想でありつづけてきた(たとえば林語堂『吾国与吾民』などの主張)。を見れば、中国史における軍人像や軍事の才はしばしば並外れて高い評価を受け、エリートとして世間の深い尊崇の根拠としてそれはつねに大きな基準であったことがわかる。

 「三国志」の関羽や孔明など通俗的な史像はさておいても、宋末の岳飛や清末の曽国藩など、その「志操」や政治的手腕の評価と並んで、軍事にかかわる営みの重視は見てとれる。陽明学の祖、王陽明やアヘン戦争の主役、林則徐なども秀でた人格と高い志の文官知識人というイメージとともに、軍事問題に関する並々ならぬ洞察と実際の戦場指揮などで示した「兵事」の卓抜さが、知識人の理想に連なるものであったことも忘れてはならないだろう。

 結局、軍事はいかなる体制・文化においても第一級の国事であり、したがって叡智に富んだ文官がつねにこれを直接掌握するというのが、いわば世界史の常識なのである。「戦争は軍人に任せておくには重大すぎる」というジョルジュ・クレマンソー(第一次大戦中のフランス首相)の言葉は、近代ヨーロッパに限定されない普遍性をもつといえよう。おそらく日本だけが武士文化の特殊性と帝国日本の特異な経験への反動によって、この点がいまだに十分に把握されていないところがある、というにすぎないのであろう。

 いずれにせよ、「中国は武を卑しむ」というのは単に「卑しむべき」とされてきたにすぎず、現実には「卑しむにはあまりに重大事」であることを知る大きなプラグマティズムこそが「賢人」には求められるというのが、本来の中国的思想のあり方なのである。

1章 中国とアングロ・サクソンとの対峙──香港返還以後のせめぎ合い──(2)

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