マウンドは江夏のためにあった——野球短編の傑作12選
名作再び。早世した作家による野球短編だけを集めた、新しい傑作選。
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本書は作家・ノンフィクションライターとして幅広く活躍され、

1995年に46歳の若さで亡くなった山際淳司さんの作品のなかから、

代表作である「江夏の21球」を筆頭に、野球に関して書かれた12編の短編を

関係者の協力の下で選び、初出図書より再収録したものです。

著者が故人であることを考え合わせ、ストライク─ボール順のカウント表記など

各種表現については、基本的に原文のままとしました。

(角川新書編集部)

1章 江夏の21

江夏の21球 

1980(昭和55)年

 近鉄バファローズの石渡茂選手は、今でもまだそんなはずがないと思っている。

 9回裏である。近鉄、最後の攻撃。ワン・アウト・フルベースのチャンス。スコアは43。近鉄は1点の差を追っている。一打逆転、犠打で同点になる。ゲームの流れは、追いあげ、攻めたててきた近鉄に向いている。

 マウンド上には広島カープの江夏がいる。江夏はスクイズを警戒していた。石渡に対する2球目、近鉄ベンチはスクイズのサインを送った。

 そのスクイズはみごとにはずされる。江夏の投球は外角の高目に外れ、しかも、曲がるように、落ちた。

 石渡が懸命に出したバットは空しく揺れ動き、ボールをとらえることができない。江夏の投げた球は、バットの下を通り抜けた。スクイズのサインで猛然とホームベースに走りこんできた三塁ランナーの藤瀬は、スクイズが見破られたと、気づく。

 藤瀬史朗の話──《バッター石渡さんのカウントが10になったとき、ブロック・サインがでました。無死で三塁に来たときからいわれてはいたんですよ。〝スクイズもあるからサインをよう見とけ〟とね。

 江夏さんはサウスポーやから、ぼくのスタートは見えんやろ……それがまず頭に浮かんで……。それに江夏さんはポンポン投げてくるタイプでしょう。そういう先入観があったものだから、スタートは余計早くしていいという気になってしまった。

 キャッチャーのことまで気が回らなかった。満塁でしょう。ホームはフォース・プレイですね。タッチ・プレイなら、ふつうのスタートでもいいんやけど、フォース・プレイやから早よスタートせなあかんと、そればっかり考えていた。ホームに向かって走ってったところで石渡さんの空振りが見えましたね。もう、いっぺんに元気がなくなってしまって……》

 その1球が、バッター・ボックスにいた石渡の頭の中にいつまでもひっかかっているのだ。

 石渡茂の話──《江夏の投げたあのボール、あれはホントに意識的にはずしたのか……。信じられんのですよ。フォーク・ボールが偶然スッポ抜けたんじゃないか。

 バットに当てられん球やなかった。スクイズってのは、速い球に合わせる気持ちでやるもんです。ピッチャーも、はずすときは速球ではずすんです。ところが変化球やった。フォークです。それだけに信じられない。ホントにはずしたんなら、そりゃもう、大変なことですよ……》

 しかし、間違いなく江夏の投げた球は石渡のバットの下をかいくぐったのである。

 偶然ではなく、である。

 大阪球場はほとんど近鉄ファンで埋まっていた。近鉄ファンはここで落胆しなければならない。

 しかし、このシーンに吸い込まれた人間の気分は落胆というものではなく、むしろ興奮だった。濃密に急転回する時間のなかには興奮しかない。

《見破られました! スクイズを見破られたのです。ツー・アウト! ツー・アウトになりました!》

 実況中継のアナウンサーはマイクを握りしめた。

 その1球は、このイニング、9回裏に江夏が投げた球のなかでは19球目に当たる。

 1979114日。

 大阪球場で近鉄バファローズvs.広島カープの日本シリーズ第7戦が行われている。この日までの戦績は両チームともに3勝ずつをあげ、この日の第7戦で決着をつけなければならない。カープは初回に1点、3回に1点、そして6回には水沼の2ラン・ホーマーで追加点をあげ、勝ちに向かっていく。

 近鉄は5回の裏に平野の2ラン・ホームランで反撃を開始し、つづく6回にはマニエル、栗橋のヒット、有田の送りバントなどで1点を追加、激しくカープを追いあげてきた。点差はわずかに1点である。

 江夏がこの日、大阪球場のマウンドに登るのは、その直後、7回の裏、ワン・アウト・ランナー一塁という局面だ。ピッチャー福士をリリーフしたものだった。

 予定の行動だった。

 試合が始まるころ、江夏はそっとベンチを出てロッカー・ルームに向かった。それもまた、江夏のいつもの行動だった。リリーフに徹するようになってからできあがった習慣である。トレーナーがやってきて入念にマッサージを始める。江夏の左腕は、そういうことでかろうじて保たれているといってもよかった。江夏はプロ入り以来、公式戦だけでもう43311球もピッチングをくり返してきているのだ。

 時折り、ドッと歓声がロッカー・ルームにも聞こえてくる。誰かがヒットを打ったか、三振でもしたのだろう。その歓声が聞こえるたびに、江夏は筋肉を緊張させる。そして、自分の出番が一秒一秒近づいてくるのを、肌で感じとっていく。

 試合は3回に入った。《よし》といって江夏は起きあがった。それも、いつもの行動だ。そのまま、ブルペンへ向かった。

 7回、江夏がマウンドに登るとき、空からは小雨である。腰の左ポケットにロージン・バッグを入れた。すでに照明灯のスイッチが入っている。

 ゲームは江夏を軸に動き始めた。

 7回、後続を断ち、8回も江夏は近鉄打線を三者凡退に打ちとった。

 9回の守りにつく前、江夏はベンチの奥に坐ると、ショート・ホープを一本とり出して火をつけた。点差はわずか1点リード、残るイニングは1回──。

《ここを投げ切れば》と、江夏は考えていた。《もうしばらく野球はせんでもいいだろう》

 このシーズン、江夏は働きすぎていたのかもしれない。9522セーブ。広島カープにとって重要な試合には必ずといっていいほど、江夏はマウンドにあがった。

 ショート・ホープをゆっくり吸っている時間はなかった。

 高橋慶彦が三振に倒れると、江夏はマウンドへ向かった。

 それから約26分間、江夏は大阪球場のマウンドに立ち尽くし、〝勝者〟と〝敗者〟の対角線上を激しく往復する。

 そして、その間に江夏の一球一球をめぐって広島、近鉄両ベンチ、そしてグラウンドに立つ選手のあいだを様々な思惑が交錯した。野球とは、あるいはこの様々な思いが沸き立ち浮遊し交錯するところに成立するゲームであるのかもしれない。

 その渦のさなかにいて、江夏はあるシーンを見るのだ。

 江夏がマウンドに歩いていく。

 これが最終回だという気負いはとりたててなかった、と江夏は語った。江夏は、再び、こんなふうに考えているのだ──。

《この回が終わればもう野球をせんでもいい。あと1回投げれば、休めるんだ》

 バッター・ボックスに6番打者の羽田が入った。江夏は1球目から打ってくることはまずないだろうと考えている。

《最終回でしょ。とにかくこれが最後なんだ。慎重に攻めてくると考えるのがふつうやと思う。それでカウントをとりにいった。アウトコースの真っすぐだね。それをスコンとやられた。センター前やったな。あッ、痛っ! っていう感じ》

 ドラマは唐突に始まった。江夏の1球目はコンダクターのタクトだった。その腕が振りおろされたとき、最終楽章はアレグロで動き出す。

 大阪球場のグラウンドはすりばちの底のように見える。急こうばいのスタンドの喚声が、テレビのボリュームを突然大きくしたようにどよめき始めた。鳴り物入りで大阪球場がうなり出した。もう紙吹雪までが舞ってしまう。

 羽田耕一の話──《外の真っすぐですよ。初球から真っすぐを狙ってましたからね。バットはすんなり出たいう感じですね。直球がきたら、何でも振ってやろうと思ってました。まあ、会心の当たりというところですね。予定どおり代走に藤瀬が出てきて、ああ、こいつが本塁にかえってきたら同点なんだなと思って、一塁で交代するとき〝かえってや〟って声かけたんですよ》

 藤瀬は近鉄の代走の切り札である。79年のシーズンは27個の盗塁を記録している。

 広島の田中コーチがベンチを飛び出した。カープの内野手がマウンドに集まる。近鉄の西本監督もベンチを飛び出して次の打者、アーノルドのところへ歩いた。

 江夏は別のことを考えていた。

《羽田には、第3戦のときの印象があったんだね。こっちが1点リードしているときの9回やったな。ノー・アウト・ランナー・セカンドで出てきた羽田が、カウント12からじつに簡単にフライを打ちあげた。もうちょっと工夫して打てばいいのにと、オレが思ったくらいだった。あんまり賢こうない奴だなと思った。その記憶が残ってたんだろね。そこをスコンとやられたから痛かった。手を抜いて投げてるわけやないんだ。ただ、ときどき初球をスコンとやられるんだ、オレは。

 79年のシーズンに10本、ホームランを打たれた。そのうちの7本が初球。しかも、いわゆるホームラン・バッターではなしに、ふだんはめったにホームランを打たん奴にやられとる……》

 カープの内野手が集まったのは、守備の打ち合わせである。バントでランナー藤瀬をスコアリング・ポジションに送ってくるか、藤瀬の単独スチールか、あるいはヒットエンドランか……。

 結果は、藤瀬の単独スチールになった。アーノルドのカウント12からの4球目に、藤瀬は走った。

 江夏の投げた球は、右打者アーノルドにとっての外角球。直球である。が、サウスポー、江夏が外角へ投げた球はシュートがかっていた。主審のコールは「ボール」。キャッチャー水沼はあわててセカンドへ投げる。タイミングはアウトである。しかし、水沼の投げた球はセカンド・ベースの手前でワン・バウンドし、センターへ抜けた。藤瀬はそのまま三塁ベースに走りこんだ。

 ノー・アウト三塁。近鉄に思わぬチャンスがめぐってきた。大阪球場は熱狂する。テレビ・カメラは一塁側ベンチ上に舞い散る紙吹雪を追った。実況中継のラジオのアナウンサーも、思わず絶叫調になる──《ノー・アウト三塁! ノー・アウト、ランナー三塁です! 近鉄にとっては願ってもないチャンス! 紙テープが舞っています! みかんも投げこまれています!》

 ラジオの解説者はしごく当然のことを重々しくいった──《よほどのことがない限り、同点になるケースですね》

 そのシーンは、たしかにランナー藤瀬が単独スチールし、あわてて水沼がセカンドに悪送球したように見えた。

 ネット裏で観戦していた野村克也にも、それは単独スチールに見えた。客観的にはそう見えて当然である。

《野球の定石からいうと、ここでスチールさせるのはえらい冒険なんですよ。9回のドタン場。このランナーが殺されたら終わりですよね。それを走らせる。野球は〝結果オーライ〟いうて、作戦が成功すればそれでいいわけだけど、失敗したらまず間違いなく責められるポイントですね。江夏─水沼バッテリーvs.藤瀬というなかで考えて、100%成功するという自信がなければできない。西本さんは、ふだんはこういう作戦をとらない人なんですよ。非常に慎重。石橋をたたいても渡らないところがある。スチールのサインを出したのなら、作戦的に邪道じゃないかと、ぼくの目には見えましたね》

 しかし、ユニフォームを着てこのシーンを見ている側は、また違った思惑を抱えている。

 江夏がいう。

《何かしてくるのはわかってる。それはしゃあないっていう感じだね。日本シリーズに初めて出てきたとき(第二戦)が似たようなシーンだった。ランナーに藤瀬がいて、バッターはチャーリー(マニエル)。あのときは気負っていた。ランナーもなんとかしよう、バッターもおさえようと思うてた。それが失敗だったと思う。チャーリーに打たれた。今度はそういうわけにはいかない。

 藤瀬の足はたしかに速いよ。オレのクセも見抜かれてるやろ。そんなら走ってもかまへん。そう思った。それよりバッターに集中したほうがいい。

 1球目はバントを警戒してはずした。バントの気配は全然なかったね。2球目は、打ってくれればいいという、これもはずし球。全然、打つ気がないようだった。アーノルドもウェイティングに入ってるみたいなんですわ。藤瀬が走るのを待っている。ヒットエンドランはないと思った。アーノルドは空振りが多いからね……》

 しかし、近鉄ベンチ、西本監督の出したサインはヒットエンドランである。

《当たり前やろ。あの場面でスチールがないのは当然。ヒットエンドランのサインだった》

 それが単独スチールになってしまった。藤瀬は「こりゃダメだ」と思って走っている。

《カウントが12になってからヒットエンドランのサインが出たんですよ。ヒットエンドランやから、スタートは多少おくらせますよね、見破られないように。だからスチールのときよりスタートは遅い。スタートしてから三歩ぐらいいったときにアーノルドがヒットエンドランのサインを見逃しているのに気がついた。アウトのタイミングです。けど、万がひとつにセーフになることもあるやろと思うて走ったんですよ。ええ、もう諦めてね……》

 西本監督はベンチの奥に足を組んですわり、苦笑いを浮かべている。作戦とは違った結果になり、しかもそれはいちおう悪い結末にならなかった。

 ノー・アウト三塁。江夏vs.アーノルドのカウントは13。江夏は外野フライを警戒してインコース低目に投げる。主審は〝ボール〟を宣した。フォアボール。ランナー一、三塁。アーノルドに代わってピンチ・ランナー吹石が出た。

 江夏は、

1点はしゃあない》

 と思った。それがマウンド上にいる者にとっての正直な実感である。

 ベンチの古葉監督は、しかし、内野に前進守備の指示を出す。つまり、1点も与えまいとする守備態勢だ。

 古葉監督の話──《あの場合、内野手をややうしろに守らせたほうがいいというのはわかるんですよ。前進守備をしていれば、一塁ランナー吹石は盗塁しやすい。吹石がセカンドへ行けば、一打逆転になりますからね。

 しかし、ウチとしてはとりあえず1点もやりたくなかった。三塁ランナーの藤瀬はゆるい内野ゴロでもホームベースに突っこんでくるでしょう。1点とられて同点にされたらもう負けると、そう思ったわけですね。だから、一、三塁であっても前進守備をとらせた》

 このシーン、いやもうしばらくあとのさらに緊迫したシーンにあっても、古葉監督は《冷静だった》という。

 しかし、冷静に見れば、これは広島の敗因につながるかもしれないと、ネット裏の野村克也は客観的に見ている。

《あの場面で、守る側にとっては、三塁ランナーより一塁ランナーの吹石のほうが大変なんですよ。吹石をホームにやらなければ、カープは少なくとも同点のまま延長戦にもっていかれる。その吹石にただで二塁ベースへ走ってくれという守備になっていますからね》

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江夏の21球(2)

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