30年、40年、50年と、参照される判決になる
福島第一原子力発電所事故後、事故の被害者らが損害賠償を求め、全国で約30の民事裁判が提起された。そのうちの4訴訟について、国の責任に対する初の統一判断が6月17日に示される。高裁の判断は、4件のうち国の責任を3件が認め、1件は否定した。9年以上の長い闘いを続ける原告らが求め続けている国の責任への判断はどうなるのか。判決直前の原告らの思いとは。

617最高裁判決 国の責任は? 原発事故被害者4訴訟

 2022425日 最高裁に入廷する原告ら

 東京電力福島第一原子力発電所事故の被害者らが、国と東電の責任を追求し、損害賠償や原状回復を求める集団訴訟。全国各地で約30の訴訟が提起され、原告は約1万人にのぼる。そのうち、4つの訴訟(生業訴訟(福島)、群馬、千葉、愛媛)の上告審判決が、今日17日、最高裁第二小法廷で言い渡される。原発事故における国の責任については初めてとなる最高裁の判断に、注目が集まる。集団訴訟の原告となった全国各地の原発事故被害者が、17日の最高裁判決を前に、期待と不安の日々を過ごしていた。

積み重ねてきた小さなエピソード

「ちゃんと、『国に責任がある』と、裁判所に判断してもらいてぇけど、今のこんな国の情勢ではな、『国は悪くなかった』なんて、裁判所が国に忖度するような判決が出っかもわかんねぇからな。そういうこともあんでねぇかという不安もあるわけさ」

 最高裁判決を2日後に控えた15日、紺野重秋さん(84)は、浜通りの言葉でそんな風に語った。

 紺野さんは、福島県浪江町出身。原発事故後に避難を余儀なくされ、現在、福島市で避難生活を続けている。「地域を返せ、生業を返せ!福島原発訴訟(生業訴訟)」の原告副団長として、20133月から9年以上闘ってきた。

紺野重秋さん

「不安なんだけどな、でも、この前、425日の最高裁の弁論の時にな……」と、紺野さんは少し嬉しそうに話し始める。「仙台高裁の時の裁判官がいたんだよ」

 425日は、生業訴訟の最高裁弁論が開かれた日で、紺野さんは傍聴席にいた。その時に、仙台高裁の裁判官と、最高裁の待合室で偶然、会ったという。

「わたし、足をくじいちゃったみたいで、傍聴席から帰れなくなって。両脇抱えられて待合室に行って、しばらく座ってたんだ。そうしたら、その裁判官がむこうからなぁ、わたしの顔見て、わかったんだべなぁ。『紺野さんだったの』『その節はお世話になりました』なんて言ってきてくれたんだ」

「お世話になりました」というのは、現地検証のことだ。仙台高裁の裁判長らは、2019527日、浪江町にある紺野さんの自宅などの現場を訪れ、被害の実態と状況を確認している。その後、仙台高裁第二審は、一審判決に続き、国と東京電力の責任を認めた判決を出した。

「裁判官が声かけるなんてないよなぁ。ああいう裁判官のおかげで最高裁まで来れたんだよなぁ」

 縁起がいいという話になり、原告や弁護士らと「最高裁も勝つかもしれないなぁ」と話したと、紺野さんは笑いながらそのエピソードを披露してくれた。

紺野さんの自宅を訪れる仙台高裁の裁判官ら

 高裁段階で裁判官が現地に足を運ぶことは珍しいことだった。生業訴訟は、一審も二審も、現地検証を実現させた。その現地検証に漕ぎ着けるまでの努力を、生業訴訟の弁護団事務局長、馬奈木厳太郎弁護士はこんな風に語る。

「原発事故の裁判では全国で初めて現地検証を行おうという話でもあったので、一審段階では時間をかけて、現地に行きませんか、と裁判官と交渉し続けました。『私たちは、現地検証なくして、判決は求めていません』と言い続け、『現地検証に行けば、浪江町の役場はお昼ご飯を食べるための場所を役場庁舎内に提供してもらえることになりました』『双葉町の町長にも会って、双葉町のほうでも協力してくれることになっています』『富岡町役場で公益立入の許可をもらえます』『ここに車を停めて、この施設を見ることができます』と、こちらの計画をどんどん伝えて、外堀を埋めていくというか……あと何をクリアしたら裁判官は現地にいけますか、と(笑)。2年がかりで執念と気合で現地検証を実施させました」

 また、一審の現地検証の時には、こんなこともあった。

「浜通りと中通り、2回の現地検証を行いましたが、中通りの現地検証の日は、小雨が降っていたんです。裁判官は、雨ガッパを着ていたんですが、フードをかぶらず、濡れていました。それに気づいた原告の一人が裁判官に『フードをかぶってください』と話しかけたら、『かぶると、みなさんの話が聞こえなくなるから』と言ってかぶらなかったんです(馬奈木弁護士)」

 原告の思いに耳を傾ける裁判官の姿勢を表すエピソードだ。そういった小さなエピソードが、この9年もの闘いにたくさん積み重なっている。弁護団と原告は、福島県内外で、原告を集めるために500回以上の説明会を開き、判決の前には署名を集め、判決が出てからも、省庁や政党を周り、繰り返し被害救済を実現するために動いてきた。

不安だらけの妊娠生活

 原告の一人、福島県の会津地方に住む、小林まやさん(38)は、原発事故当時、1歳半の息子を育てていた。会津地方は、政府の避難指示もなく、賠償も一切出なかった地域だ。しかし、濃淡はあれど放射能汚染がなかったわけではなく、小林さんの住む自治体でも、野菜の出荷制限や摂取制限も出ていた。

「蛇口をひねった水が不安だった時期がありました。それを友人に話したら『そんなこと言ったら、洗濯もできないよね』と言われて……その頃から、周囲にはあまり原発事故の話をしなくなりました」

 と、当時の苦悩を明かす。

 原発事故当時、夫と、息子、夫の祖母、夫の父(義父)との5人暮らしだった。自宅の裏に田んぼが広がり、透き通った川が近くにある自然豊かな土地で、子どもを育てながら自営業を営んでいた。

 原発事故の危険性を知ったのは、312日だ。福島第一原子力発電所が危険な状況であることを、SNSで見かけた。小林さんは「避難した方が良いのではないか」と一瞬思ったが、リアリティがないまま、商売に必要な物資不足を解消するための対応に奔走していた。

 313日には、息子を義父に預け、中通りに住む母親のために、食べ物を差し入れに訪ねたが、その約1週間後に、次男を妊娠していることが分かる。小林さんは、放射線量の高かった時期に、中通りに出てしまったことを、後悔した。

 妊娠が分かったことや、テレビ報道などで爆発の映像を目の当たりにしたこともあり、夫と「避難したほうがいいのではないか」と話し合った。しかし、夫の祖母はトイレ介助が必要であり、義父もパーキンソン病を患い、避難は非現実的だった。

 だからこそ、できる限り被ばくを避けようと、不自由な生活がはじまった。

 息子を預けていた託児所は、土手の近くにあり、草むらや土手は放射性物質が溜まっているという情報を得てからは、ほとんど通わせず、そのまま20113月末で退所させた。その後、市街地にある保育園に通わせ、目の届く範囲では外遊びを一切させなくなってしまった。妊娠していることもあり、自営業の配達業務は夫に頼み、外出は極力避けるようにしていた。そして、洗濯物は外では干さず、掃除も頻繁に行なっていた。

 食べ物による内部被ばくを避けるために、できるだけ遠方の食材を選び、米もスーパーで古米を探して食べ、口にする水も購入した。それまでは、自宅裏の田んぼで収穫した、美味しいお米を当然のように食べていたため、なぜわざわざ古米を食べなくてはならないのか……と小林さんは残念に思っていた。

 当時、こういった不自由な暮らしを強いられていたのは、決して小林さんだけではなかった。これまでにも、福島県内外で出会った多くの保護者や子どもたちが、放射性物質を避けるための我慢をしなくてはならなかったと話してくれた。そして、その暮らしを続けることはできないと、政府の避難指示がなかった地域からも避難をした人も数多くいる。

 小林さんは言う。

「吸う空気も、水も心配な妊娠生活を送りました。四六時中、いかに子どもを被ばくさせず、自分も被ばくしないかということばかりを考え続けていました。ここで生活していて本当に良いのか、子どもは無事に生まれるのか、息子の健康に影響は出ないのか──不安な気持ちでいっぱいでした」

一生、家に戻ることができないかもしれない

 同じ頃、紺野さんは、江戸時代から先祖代々住み続けた土地を追われていた。

 312日朝、「避難してください」と告げる町の広報車の音に追い立てられるように、妻と長男と着の身着のままで浪江町津島地区の高校(浪江高校津島分校)に避難をし、さらに二本松市の親戚の家へと避難をした。そこで初めて原発事故を知る。そして、その後は、福島市の体育館で1ヶ月もの避難所生活が待っていた。

 紺野さんは、原発事故の前から、福島第一原発に反対していた。福島第二原発の差止訴訟にも加わり、「地震が起きると原発が大変なことになる」という主張をしていたという。事故を知ったとき、「ああ、やはり事故が起きてしまった」と目の前が真っ暗になり、早い段階から「一生、家に戻ることができないかもしれない」と考えていた。

「その原発の反対運動は、地元の青年団でやっていたんだ。最初は原発の反対じゃなくて、『余マス』の反対してたんだけど、そこから、原発のほうも進んだ。『余マス』は20代のころだなぁ」

 と紺野さんは言った。

「余マス」とは、米を出荷するときに、数百グラム多めに入れないと出荷できないというルールのことだ。そのルールはおかしいと、地域の青年団で集まって考える場があったという。もう60年前のことだ。その約60年前の19619月、大熊町議会が東京電力福島原子力発電所誘致を決議し、その1ヶ月後に双葉町が誘致を決議している。若い頃から、紺野さんは地域のこと、社会のことに目を向けていた。

「だから……原発なければ、こんな避難してないんだけどなぁ」と、紺野さんはぽつりとつぶやく。

 福島市の体育館暮らしで、下着を手に入れたのは3月末だった。段ボールで区切られた場所にプライバシーはなく、トイレも食事も長蛇の列。食事はおにぎりやパンばかりで、腐りかけているものもあったという。その後、猪苗代町の民宿にうつり、数ヶ月後に借上住宅に転居した頃には、長男は別の住宅を借り、近くに住んでいた四男も群馬県に避難したため、家族はバラバラになってしまった。

 隣近所で野菜を分け合い、夕方になると自然と誰かの家に集まって飲むという家族のような地域コミュニティも、失ってしまった。

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