決して聖人君子などではなかった。そこに、渋沢栄一という男の無類の明るさと大きさがあった
「私はこの本で“偉人伝”を書いたつもりはない。それより意図したのは、栄一という人物の偉大さに押しつぶされた渋沢家の人々の悲劇を、明治、大正、昭和の時代相に重ねて描くことだった。これはまったく類書がない着眼点だといまも自負している」 (本書より)

血洗島の風土

 上野から高崎線の特急に乗って約一時間ゆられると、埼玉県の深谷市に到着する。二つ手前の熊谷市が上越新幹線の停車駅となって以来失った田園情緒を、この街はまだかすかに残している。赤レンガ造りの駅舎は、いかにもこれみよがしでイヤミだが、がらんとした殺風景な駅前の風景は、赤城山から吹きおろすカラッ風がきつそうな北関東の風土とよく似合っている。

 閑散とした駅前で目につくのは、あまり出来がいいとはいえない渋沢栄一の銅像と、かなりの数のサラ金の店舗である。そこから栄一の生れ故郷に向かうためタクシーに乗り、サラ金が異常なほど多い街ですね、と話しかけると、運転手は本気とも冗談ともつかぬことをいった。

「深谷は金融業界の二大巨人を生んだところですからね。一人は誰でも知ってる渋沢栄一、そしてもう一人は武富士の武井保雄です」

 栄一もサラ金の親玉と一緒にされたのではさぞかし迷惑なことだろう。いや、官尊民卑の弊を激しく指弾した栄一のことだから、案外、草葉の陰で面白がっているのかもしれない。そんなことをぼんやり考えているうちに、車はビニールハウスが点在する田園地帯を抜け、二十分ほどで栄一の生家跡に着いた。

 このあたり一帯は、古来から現在にいたるまであらいじまという恐ろしげな地名で呼ばれてきた。口碑によれば、八幡太郎義家の家臣が片腕を斬り落とされ、その傷口をこの地の小川で洗ったことからきたものだという。血洗島に隣接するばかという集落は、昔、手墓と書き、斬り落とされた片腕を葬ったところという伝承が残っている。

 だが、渋沢家の家系に詳しい郷土史家の新井慎一によれば、血洗島の血はおそらく土地の地からきたもので、近くを流れる利根川の氾濫によっていくたびも土地を洗われたことからきたものではないか、手計のハカも、崖地を意味するハケからきたものではないかという。

 渋沢栄一の生家は明治二十五年(一八九二)十二月、不審火により焼失したため、生家そのものをいまにみることはできない。だが、この家は三年後に再建され、現在、日本語を学ぶ海外留学生のための渋沢国際学園として使われている。大きな庭を配したその宏壮な屋敷は、栄一が生まれた当時の渋沢家の豪農ぶりをしのばせている。

 江戸末期、血洗島には渋沢姓を名乗る家が十七軒もあった。このため、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」「新屋敷」などと呼んで区別した。

 渋沢栄一は天保十一年(一八四〇)二月十三日、「中ノ家」に生まれた。栄一が生まれる前、「中ノ家」には女の子が二人いるだけで跡取り息子がなく、家運は傾きかけていた。

 そこで本家筋にあたる「東ノ家」の当主の二代目渋沢宗助(宗休・号誠徳)の三男元助が、家運再興のため「中ノ家」の養子に迎えられ、市郎右衛門と名乗った。妻は家つきの姉娘のえい(お栄)で、栄一はこの夫婦の間に生まれた。子供は八人あったが、五つ年上の姉なかと、十二歳年下の妹てい(貞子)だけが残り、あとはみな早世した。

 栄一が出郷して以来、「中ノ家」を守り通したのは妹の貞子だった。のちに栄一が出世して村人たちが栄一のことを「殿さま」「子爵」「大人」などとあらたまって呼び、父親の市郎右衛門ですらかしこまって「殿」と呼んでも、貞子だけはくだけた態度をかえず、「東京ンチ」「東京の大将」と呼んだ。栄一は九十一歳の天寿をまっとうしたが、兄の長命の秘密を聞かれると、貞子はきまって「病気はみな同胞きようだいがもっていったから」といって周囲を笑わせた。

一身を四世に生きた男

 人間にとって長く生きるということは、それだけで貴重であり、偉大なことである。福沢諭吉は幕末の激動期から明治の維新期に活躍した人びとのことを、「一身を二世に生きる」という言葉で端的に表したが、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、そして明治、大正と生き、昭和六年(一九三一)十一月十一日、九十一歳で眠るがごとき大往生をとげた渋沢栄一は、一身を二世どころか、三世にも四世にも生きた男だった。

 この間、ペリーの黒船来航があり、桜田門外の変があった。大政奉還があり、戊辰戦争があった。廃藩置県があり、地租改正があった。西南戦争があり、大日本帝国憲法の発布があった。日清、日露の戦争があり、大逆事件があった。日韓併合があり、第一次世界大戦があった。ロシア革命があり、関東大震災があった。昭和恐慌があり、満州事変があった。

 渋沢栄一は世界史が激動する時代の息吹きを、同時代人として、己が肌で感じとり、それを自己のエネルギーの源泉としていった。栄一にとっては、徳川慶喜も勝海舟も坂本龍馬も近藤勇も西郷隆盛も同時代人だった。ナポレオン三世もレーニンもリンカーンも、樋口一葉も夏目漱石も森鷗外も、幸徳秋水も大杉栄も明治天皇も乃木希典も、栄一と同じ時代の空気をすって生きた。

 幸田露伴は『渋沢栄一伝』の冒頭で、「人は誰でも時代の人である」と述べ、つづけている。

〈……たゞ栄一に至つては、実に其時代に生れて、其時代の風の中に育ち、其時代の水によつて養はれ、其時代の食物と灝気とを摂取して、そして自己の軀幹を造り、自己の精神をおほし立て、時代の要求するところのものを自己の要求とし、時代の作為せんとする事を自己の作為とし、求むるとも求めらるゝとも無く自然に時代の意気と希望とを自己の意気と希望として、長い歳月をく勤め克く労したのである。故に栄一は渋沢氏の家の一児として生れたのは事実ではあるが、それよりはむしろ時代の児として生れたと云つた方が宜いかとも思はれる。時代に係けて誕生を語るのは蓋し然るべきことであらう。実に栄一は時代に造り出されたものである……〉

 関東平野の中部に位置する血洗島村一帯は良田にとぼしく、畑作や、藍玉、養蚕など稲作以外の副業が主たる産業だった。明暦年間(一六五五~一六五八)の「中ノ家」の土地は、田畑屋敷あわせて八反二畝十八歩(約八千平方メートル)しかなく、村内三十戸中二十一番目の小農にすぎなかった。それが栄一が生まれる頃になると、一町九反五畝十八歩半(約二万平方メートル)までふえ、村の中では「東ノ家」に次ぐ二番目の財産家と評判されるほどになった。

「中ノ家」の富の源泉は藍玉だった。栄一が生まれた頃、「中ノ家」では質屋・金貸しもあわせいとなんだため、富の蓄積は日ましに累進していった。

 いまでこそ深谷市は上越新幹線も通過する関東地方の一地方都市にすぎないが、中山道という陸路と利根川という水路に近く位置するこの土地は、江戸期においては交通の要衝であり、江戸に通じる二大幹線ともいうべきそのルートを通じて新しい文物が流入しやすい土地だった。地理的に水戸にも近く、幕末を席捲した水戸学が流入するのもたやすかった。

 こうした地勢的メリットは、特産品の藍玉生産においても実利をもたらした。藍の栽培には人糞、馬糞、堆肥だけではなく大量の干鰯が必要だった。江戸時代、その干鰯の代表的産地といえば上総かずさの九十九里浜だった。九十九里で獲れた干鰯は水郷を経て利根川に入り、深谷の地に運ばれた。高速大量輸送を可能にさせた利根川は、いまでいえばさしずめ、新幹線か高速道路のようなものだった。

 その水路は一大消費地の江戸にも通じている。血洗島の農民たちは利根川の水路を利用することで、単に農作物をつくるだけの百姓ではなく、生産と消費をつなぐ商業的農業経営者へと脱皮していった。

 彼らが扱った藍玉はきわめて高価な商品である。しかも、紺屋に渡してからの代金回収には非常に長い時間がかかった。これに対し、原料の藍の仕入れは現金で、その上、その支出は収穫時に集中する。一時に大量の現金を必要とし、時機をはずせばもう原料の仕入れはできない。そのためにはたえず細心の注意をはらって運転資金の保有につとめなければならなかった。彼らは小作人からのあがりだけでのうのうと暮らす寄生地主と違い、常に算盤をはじく商業的採算と、藍の品質を保持する技術的錬磨に心をくだかなければならなかった。その意味で彼らは、地方ブルジョアジーであると同時に、時代の動きを敏感にキャッチせざるを得ないインテリゲンツィアの側面も兼ねそなえることとなった。

 渋沢栄一の背骨をなす現実的合理主義精神と、なにごとにも几帳面で勤勉な体質は、深谷の風土を反映したこうした独得の生産様式によって培われていった。

勤勉と遊蕩の血

 栄一の父の市郎右衛門は、骨身を惜しまず働く勤勉家だった。義俠心にとみ人のためにもよく尽くしたので村人たちの信望も篤かった。市郎右衛門はやがて名主見習にまで出世した。学問も四書五経程度はらくに読解し、若い頃は武家への志望もあったくらいだから武芸の精進も怠らなかった。その一方、市郎右衛門は花鳥風月の風流もよくわきまえ、書や俳諧を日頃からたしなんだ。また芸事にも秀で、義太夫をうなり、村芝居では声色もたくみに女形をつとめて村人たちの喝采をあびた。

 この遊芸、風流への耽溺は、勤勉を旨とする渋沢一族に流れるもう一つの血だった。その血はとりわけ、市郎右衛門の出里の「東ノ家」に色濃く流れており、勤勉の家系のなかに、間歇的にとんでもない遊蕩の血が現れた。勤勉と遊蕩の隔世遺伝的継承は、渋沢一族が背負った血の宿痾ともいうべきものだった。

 妻のお栄は生まれつき慈悲ぶかく、人が困っているのを黙ってみていられない性質だった。「中ノ家」の隣に、お栄より少し年上の女のハンセン病患者がいた。お栄は女が人に忌み嫌われるのを気の毒がって、よく物を与えた。そのお礼に女がボタ餅などをもってくると、うつるといけないという周囲の声をよそに、お栄は平気でそれを食べた。

 血洗島の隣の手計に鹿島神社というやしろがいまも残っている。境内にケヤキの大木があり、太い幹の内部は洞になっている。その洞には昔から井戸があり、その井戸水で立てた湯は万病に効くといわれていた。そのため境内には共同浴場が設けられ、多くの村人がその霊水を浴びにきた。

 ある日、お栄が近所のおかみさんたちと入浴していると、例のハンセン病患者がやってきた。その女をみると他の者はみな気味悪がって逃げだしたが、お栄だけはひとり残り、彼女の背中を流してやったという。栄一は晩年、癩予防協会(現・藤楓協会)の資金集めに尽力したが、その動機の一つに、幼い頃うけた母親の薫陶があったといわれている。

 市郎右衛門は藍葉のよしあしの鑑定や、藍玉の製造がきわめて巧みだった。

 藍玉をつくるには、納屋にムシロを敷いて上に藍葉を積みかさね、水を適当にかけて、また上からムシロをかぶせておく。すると醱酵作用で藍葉に熱が出てくる。そのまま六十日間ばかり寝かしてから灰汁あくを入れてうすでつくと、黒い餅状になる。それを直径六寸ほどの団子に丸めたものが藍玉である。

 市郎右衛門はそうしてつくった藍玉を、信州や上州の紺屋にまで売り歩いた。その一方で、藍葉を仕入れるのも市郎右衛門の仕事だった。その仕入れには、栄一もよく同道した。

 十四歳になったとき、栄一ははじめて父親の手をはなれ、単身、藍葉の仕入れに出た。ところが相手は十四歳の子供とみくびって、まるで相手にしようとはしなかった。そのとき栄一は、父が藍葉を仕入れるとき、あたかも医者が病人を診察するように藍葉の出来を品定めする口ぶりを思い出し、いっぱしの口上を述べたてた。それがあまりにも達者で、しかも的を射ていたので、最初、子供とバカにしていた相手も感心し、喜んで藍葉の取引に応じたという。

 このエピソードからもわかるように、栄一は幼い頃から世知にたけた、ある意味では子供らしくない子供だった。

第一章 藍玉の家(2)

この作品では本文テキストのコピー機能を制限しています

01