人間の発明した概念の中で、正義という概念ほど恐ろしいものはない
理想と正義感から生まれたはずの革命運動が、両党派間の内ゲバ殺人に転化していった悲惨な歴史。軌跡を見詰め直す綿密なドキュメント

第一章 抗争前史

革共同の誕生と第一次・第二次分裂

新左翼諸党派の概況

 六〇年代の新左翼諸党派の運動は、当初はほとんど学生運動に限定されていたが、六〇年代後半から、反戦青年委員会を足がかりに、急速に労働者の中に浸透していった。

 反戦青年委員会というのは、はじめ社会党系の青年労働者組織として誕生したのだが、六〇年代後半の激動期の中で、過激な新左翼諸党派の影響力が大きくなっていき、やがて完全な〝鬼っ子〟になっていった。

 六九年六月当時、治安当局の調べでは、全国に約四百九十の反戦青年委の組織があり、構成員は二万人を越えていたが、うち社会党の指導下にあったのは、組織数でも、構成員数でも半分以下である。残りは全部新左翼系になっていた。各派が握っていた組織数は次のようである。

社青同解放派(革労協)

八四

共産同(ブント)

六七

中核派系

五三

第四インター系

三二

革マル派系

一一

 社青同解放派の勢力が強いのは、もともと解放派は社会党の下部組織だった社青同から割れて出たもので、反戦青年委の組織づくりを当初から手がけていたところだからである。解放派はやがて、社青同の名前を取りさり、六九年に労働者組織として革労協(革命的労働者協会)を結成する。学生組織としては、反帝学評がある。

 実をいうと、この党派も革マル派に対して独自の内ゲバを展開している。革マル派はこれまで(七五年七月末現在)二十七人の死者を出しているが、うち二十二人が中核派にやられ、四人が解放派にやられ、一人が民青にやられたという内訳になっている。

 中核・革マル両派に次いで、解放派は現在もあなどりがたい勢力をもっている。共産同系は、内部で四分五裂し、そのうちの一分派が赤軍派になったわけだが、その赤軍派もいまは四分五裂しているといった状況だ。第四インター系も著しく衰退している。

 新左翼系の諸党派は、そのほとんどが五〇年代後半に結成された革命的共産主義者同盟(革共同)と共産主義者同盟(ブント)に源流を発している。この二つの党派は、当初学生層以外にはほとんど影響力をもっていなかった。しかし、労働者へのオルグと、卒業して就職してからも運動を離れなかった連中の手によって、次第に労働者層への影響力を獲得してきたのである。

 とりわけ反戦系労働者が多いのは、動労、国労、全逓、全電通、自治労、日教組、高教組といったところである。このうち、自治労、日教組、高教組などは、学生あがりが多く、その他はオルグによって獲得された部分というふうに大別できるだろう。

 新左翼系の学生運動がはじまって、すでに十五年もたつ。その間、毎年数千人の活動家が生みだされてきたのだから、大半が脱落したとしても、学生あがりだけで万人単位の反戦系労働者が生まれたとしても不思議ではない。

 たとえば、先ごろ内ゲバにおけるはじめての女性犠牲者(西田はるみさん)を出した川崎市役所の場合をとってみると、約四十名の反戦系労働者がおり、うち二十名が中核派、六名が革マル派、十余名が他のセクトという分布になっていたという。東京都庁には、各セクト全部合わせると、千五、六百名の反戦系労働者がいると推定されている。これを延長して考えれば、自治体労働者だけをとっても、全国ではたいへんな人数になることがわかるだろう。

 革マル派の労働運動の拠点になっているのは動労だが、ここでの勢力はなかなかすごい。動労における二大勢力は、目黒今朝次郎委員長のひきいる同志会と、松崎明東京地本委員長がひきいる政研会。この松崎明氏は革マル派副議長といわれる大物で(ここでいっておけば、中核・革マル両派ともに組織の内部構成は対外的に発表されていない。したがって、自分で役職を名のっている人は別として、どうしても〝といわれる〟程度の表現しかできない)、政研会は革マル系。

 政研会は東京地本のほかに、北海道、盛岡、九州の執行部を握っている。活動の主体となる青年部だけを取りだせば、もっとすごい。全国二十九の地区本部のうち九地区を握り、かつ本部を握っている。これに対して、共産党は五地区、中核派は一地区を握っているにすぎない。

 組合大会での代議員数は、同志会四十一パーセントに対して、政研会は三十一パーセントだが、他の反戦系代議員が十パーセントいるから、実力は伯仲状態である。動労がもっとも戦闘的な組合運動を展開している裏には、こういう背景がある。

 こうした形で、巨大労組をほとんどぎゆうるに近いところまで新左翼が喰い込んだ例は他にはない。だから、動労は革マル派の自慢のタネで、他派にとってはシャクのタネである。

 七〇年前後の大衆運動の高揚期には、労働者の間でも学生の間でも、新左翼諸党派の運動が活発だった。しかしその後、各党派の解体、大衆運動の沈滞、生き残りセクト間の内ゲバといったことがあいまって、心情的過激派の大半は、ノンセクト・ラディカルとして、未組織のままになっている。現在、彼らが表面的には数が少ないように見えても、潜在的には決して少なくない。

 中核派と革マル派は、現在お互いに持てるものを賭けて争っているだけでなく、その広大な未組織の潜在的過激派を賭けて争っているのだ。くりかえすが、もしこの内ゲバが、一方が他方を解体するという形で終れば、勝ち残ったほうは、きわめて強大な組織に急成長することができるだろう。

 現在でも、この両派のもっているエネルギーにはたいへんなものがある。公安筋の調べでは、活動家数、双方ともに五、六千人。年間活動費、ともに二億円前後。ともに自前の印刷所を持ち、機関紙の発行体制をととのえている。中核派の機関紙『前進』発行部数一万五千部、革マル派の『解放』一万二千部と推定されている。

 両派の公然拠点は、中核派が豊島区にある前進社第二ビル。鉄筋三階建てで、敷金一千万円、家賃五十万円。革マル派は、前述の初台のビルの最上階。保証金三百五十万円、家賃十三万五千円。このほかに、中核派は横浜、大阪、広島、福岡に前進社の支社をかまえ、革マル派は札幌、名古屋、大阪に解放社の支社をかまえている。

 非公然の地下アジトについては、双方どこにどれだけあるかは、皆目つかめていない。ともかく、この内ゲバ戦によって、双方ともにせつたくしあいながら、たいへんな地下組織を作りあげている。これは、共産党の非合法闘争時代以来、日本の左翼がもった最大の地下組織だろう。

 双方ともに、全電通労働者など専門家の手を借りて、盗聴技術をものにしている。永年の内ゲバ戦で、尾行をする技術も、尾行をまく技術も身につけた。各種の破壊工作にも長じるようになった。革命のためなら、自分の命を賭けることもいとわず、市民倫理では犯罪になる行為もいとわずにできる戦士たちを、数十人単位でそろえている。

 このエネルギー、組織力が、いまはもっぱら内ゲバにふり向けられているが、それが本格的に学生運動、労働運動、対権力闘争にふり向けられたらどうなるか。そのへんのところまで読んでいるのは、いまのところ公安当局と共産党くらいだろう。どちらも未来のもっとも手強い敵を、この両派の中に見ている。そして、それなりの対応をしている。が、目的は同じ。両派が内ゲバでへいしきって共倒れになることである。それについては、後に述べよう。

もとは同根だった中核・革マル両派

 さて、以上の考察はあくまで概論である。ことここに至るまでには、たいへんなきよくせつがある。その間に、相手の党派の評価、内ゲバの意義づけ、戦略戦術などは大きく変っている。

 だいたい、この両派はもともと革共同という一つの党派から生まれたものである。分裂してからも、すぐに内ゲバをはじめたわけではない。六九年ごろは、共闘体制をとっていたこともある。

 両派の抗争で死者が出はじめたのは、七〇年八月の海老原君事件からであるが、このときは中核派も、〝戦争で死者が出るのは当然〟といった開き直った態度は示さなかった。中核派が革マル派を殺すのは当然のことであるとするのは、七四年になってからである。

 いま中核派が必ず殺すと内外に宣言している相手に、革マル派の土門肇氏がいる。この土門氏を中核派は、七三年十月に一度襲撃して〝撃沈〟している。土門氏はこのとき大した傷を負わず、間もなく戦線復帰している。同じことは、今度殺された本多氏についてもいえる。前述したように、本多氏は七四年一月に襲われているが、大した傷を負わされなかった。この当時は、双方ともに、相手を殺すところまで本格的にテロるということは考えていなかったのである。

 この両派の抗争に関しては、どの時点についても、歴史的コンテクスト抜きで語ることはできないし、理解することもできない。いまの見取図を過去にあてはめると、過去がわからないし、過去をそのまま延長しても、現在が語れるわけではない。そこで、両派の抗争前史をたんねんにたどってみることが必要になる。

 それには、両派の名称からはじめるのがよいだろう。

 中核派というのは、正式には学生組織のセクト名である。上部団体の正式名称は「革命的共産主義者同盟全国委員会」といい、中核派はつかない。この下部に学生組織として、「マルクス主義学生同盟・中核派」がある。共産党と民青のような関係である。

 これに対して、革マル派は上部団体を「革命的共産主義者同盟全国委員会・革命的マルクス主義派」という。学生組織は「マルクス主義学生同盟・革命的マルクス主義派」である。

 単に中核派、革マル派という場合、多くの人は上部団体、学生組織の区別なく使っているようである。しかし、厳密には区別があるわけだ。民青に入っている者が必ずしも共産党員ではないように、マル学同中核派のメンバーは、必ずしも革共同の同盟員ではない。

 さらに、マル学同とは別に、両派とも学生大衆団体として「全学連」をもつ。中核派全学連の活動家だからといって、マル学同中核派の同盟員とはかぎらない。

 労働者組織として、両派とも「マルクス主義青年労働者同盟」(マル青労同)をもつ。これが学生組織の場合のマル学同にあたり、全学連にあたる大衆団体としては、「反戦青年委員会」があるという構図になる。

 この他にも、両派ともいくつかの大衆団体をかかえているが、単に大衆団体に属している者はシンパとみなされ、マル学同ないしマル青労同に属してはじめて〝同志〟とみとめられる。内ゲバの犠牲者の場合でも、シンパの場合と、同志の場合とでは扱いがちがう。

 名前がまぎらわしいのは、組織の名称だけではない。たとえば、両派の機関誌はともに『共産主義者』で、号数がちがうだけである。したがって、『共産主義者』の論文に言及するときなどは、必ず相手方の『共産主義者』を『エセ共産主義者』という。

 これだけ両者の名称、呼称がなべてにわたってまぎらわしいのは、もともと両者が同じ組織、革共同全国委だったからである。正式名称に、中核派には中核派がつかず、革マル派には革マル派がつくのは、革マル派のほうが分派として外に出、残ったほうが中核派だったからである。

 六二年に起きたこの分裂を、革共同〝第三次分裂〟という。第三次というのは、もちろんその前に、第一次、第二次の分裂があったからだ。

 革共同が結成されたのは一九五七年十二月。主たる指導者として、くろかんいちおおりゆう西にしきようの三氏がいた。翌年七月、この三人のうち太田竜氏とその一派が分裂して外に出て、「日本トロツキスト同志会」を結成する。これが〝第一次分裂〟である。

 それから数ヵ月後に、西京司氏の指導する一派と黒田寛一氏の指導する一派とが分裂する。西京司氏の側は、「革共同関西派」を名のり、黒田寛一氏の側は「革共同全国委員会」を名のった。これが〝第二次分裂〟である。そして後者が、さらに中核派と革マル派に割れたのが〝第三次分裂〟だったというわけである。

 これだけでは上っつらだけである。もう少し分裂の中身にたちいってみよう。そうでないと、中核・革マル両派の抗争のほんとうのところもわからない。

第一章 抗争前史(2)

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