「悪」と「破壊」に導く「大悪魔」はだれなのか
イランはアメリカの「次の標的」か——。アフマディネジャド大統領の急進的イデオロギー、核エネルギー開発は世界に何をもたらすのか。緊迫する中東情勢の未来を読む。

1章 イラン民族の栄光

1 中東シーア派の盟主

失われた土地

 一九九〇年代後半にテヘランを訪ねた時のことだ。日本の新聞社の手伝いをしているイラン人の青年にテヘランの街を案内してもらった。イランの現在を伝える対象を探すための市内見学だった。テヘランの公園では人々はどんなことをしているのだろうと思い、市の北部にある公園を訪れた。ロックミュージックやゲームセンターなど、欧米流の娯楽が制限されているイラン人たちは公園で球技やチェスに興じていた。

 また、公園にはイランの著名な詩人たちの像があった。フィルダウスィーやオマル・ハイヤームなど日本でも知られている詩人はすぐに分かったのだが、私が知らない詩人の像があると、同行したイラン人の青年は「本当に知らないのか」とやや嘲るように笑った。イラン人の自らの伝統的文化に対する誇りや、詩を愛する心を知る思いだった。

 二〇〇六年にはイラン人の連帯を進めるパン=イラン主義の活動家に彼の自宅で会った。彼の話では、イランの言語であるペルシア語を用いる人々はサファヴィー朝が支配していたカフカス、中央アジア、バーレーン、サウジアラビアなどの国や地域に存在する。彼は、バーレーンがイギリスから独立するまで、バーレーンの国会議員を務めた人だ。

 イラン人がバーレーンで議席を持っていたことは初めて知ることで、意外な気がした。この時、一九五〇年代前半のイランの石油国有化を推進した「国民戦線(Jebhe-yi Melli)」を構成した「イラン国家党」の指導者であったダリユーシュ・フォルーハルが、バーレーンやアフガニスタンなどイランの失われた土地の回復を訴えていたことを思い出した。

 一九世紀にロシア、イギリスの帝国主義の侵出を受けたイラン人には強い屈辱感がある。

 ロシアはカフカス、中央アジアをイランから奪い、イギリスはアフガニスタンをイランから分離させ、バルーチスタンの一部をインド帝国に含めた。バーレーンもイランの一部だったが、イギリス支配を経て独立してしまった。

 これらの、かつてイラン人の土地に住む人々の連邦を考え、EU(ヨーロッパ連合)のようにならなければならないというのがイランの栄光を訴える民族主義者たちの考えである。彼らは、かつての古代アケメネス朝やサーサーン朝のようにイランが繁栄し、地域大国として影響力を発揮しなければならないと思っている。

 イランでは、イラクのスンニ派武装集団に最も多大な資金援助をしているのはサウジアラビアだという声がしきりだった。これもスンニ派アラブ世界に対抗しようというイラン人の民族意識にほかならない。ヨルダン、エジプト、クウェートもイラクのスンニ派武装集団を支援しているが、これらのアラブ・スンニ派諸国は、イラクでシーア派政権が成立するのを望んでいない。イラクでシーア派が政権を掌握すれば、バーレーン、サウジアラビア東岸の油田地帯に住むシーア派、さらにトルコやシリアに住むシーア派系のアラウィー教徒たちを刺激する、というのがアラブ・スンニ派の懸念だ。

 中東地域で国全体でシーア派が多数を占め、政権を掌握する国はイランの他にはない。シーア派イスラムはイラン民族を構成する重要な要素だ。

 イラク、バーレーンではシーア派は人口比の上で多数派だが、政権を掌握してきたわけではない。イランはサファヴィー朝時代の一六世紀にシーア派が国教として採用されて以来、シーア派世界の盟主となってきた。

 しかし、イランがシーア派であることによって、スンニ派の国々とは良好な関係を築くことは難しい。古くはスンニ派のオスマン帝国と現在のイラクの覇権をめぐって争った。現代においてはスンニ派イスラムの原点に回帰しようとするサウジアラビアはイランのシーア派を異端視し、イランと円滑な関係を築いていない。

 サウジアラビアは、ワッハーブ派というイスラムの厳格な宗派を国教としているが、この宗派に影響される人々はイランを敵視してきた。アメリカの九・一一同時多発テロの首謀者とされるオサマ・ビンラディンもその一人だ。

 ワッハーブ派と思想的に近いパキスタン・インドのデオバンド派もシーア派を異端視している。アフガニスタンで政権を掌握したタリバンもこのデオバンド派を信奉し、シーア派のハザラ人の組織である「イスラム統一党」を攻撃したり、またイラン人の外交官を一九九八年に殺害したりしたこともあった。

 特に、二〇〇六年夏にシーア派組織であるレバノンのヒズボラがイスラエル軍をてこずらせて以来、アラブ諸国がシーア派の影響力の拡大を恐れるようになったことは明らかだろう。

イラン革命の宗教パワー

 一九七九年のイラン革命は、現代におけるイスラムの有用性や、イスラムの宗教パワーを世界に示した。

 革命の指導者ホメイニはイスラム法(=シャリーア)の本質に基づく国家づくりとイスラムの法学者の統治を主張した。そして、イスラムの宗教政治を目指したグループはホメイニの主張に従い、共和政体の確立だけでは満足せずに政治と宗教の合体を目指した。このイスラム政治派は、旧体制も西欧のリベラリズムの延長であると考え、イラン固有のシーア主義に基づく国家体制の構築を主張していった。

 イスラム政治派は主に下級聖職者によって構成され、バーザールの商人層から強い支持を受けた。また、彼らは宗教的・伝統的価値観を重んずるイランの地方社会の保守的なイデオロギーを代弁し、シーア派の農民、農村から都市に移住した労働者、小商店主、神学生など、地方社会の出身者たちによっても支持された。

 イスラム政治派の活動の中枢を成していたのは、ホメイニの薫陶を受けた者たちだ。また、イスラム政治派の主要な政党は、革命が成就した七九年二月に成立した「イスラム共和党(IRP)」であった。その中心的メンバーは、初代党首であるアーヤトッラー(シーア派の高位聖職者の位階)のサイイド・ムハンマド・ベヘシュティー、ホジャトル・イスラム(アーヤトッラーに次ぐ位階)のアリー・ハメネイ(後に大統領、最高指導者)、ハーシェミー・ラフサンジャニ(後に大統領)たちであった。

 イラン革命に影響されてレバノンでは、シーア派のイスラム原理主義組織ヒズボラ(神の党)が設立された。また、北アフリカのチュニジアでも「イスラム傾向運動(MTI)」というイスラム原理主義組織が生まれた。チュニジアは中東イスラム世界の中でも最も欧米化された国で、そのハビーブ・ブルギバ大統領(在任一九五七~八七年)による欧米化路線は揺るぎないものと思われていた。さらに、パレスチナでもイラン革命に触発されて「イスラム聖戦」が誕生し、イスラエルに対して先鋭な活動を行うようになった。

 イスラエル軍がレバノンから撤退した翌月である二〇〇六年九月にテヘランの街を歩くと、ヒズボラの指導者であるナスララ師の写真を街頭で多く見かけた。ナスララ師はイラン人にとって英雄だが、ヒズボラがイスラエルを軍事的に苦しめていることもまたイラン人のナショナリズムをくすぐるものだ。

カリスマ的指導者

 レバノンのシーア派社会を政治化した人物にムーサー・アル・サドル師がいる。サドル師は一九二八年にイランで生まれ、一九五九年にレバノンに移住していった。

 第二次世界大戦中、レバノンの委任統治国であったフランスの影響力が後退すると、代わってイギリスがレバノン内政を左右するようになる。イギリス主導の下、一九四三年にベイルートのスンニ派とキリスト教マロン派は「国民協約」に合意した。この「国民協約」では、当時の人口比に応じてマロン派に大統領職と国軍司令官のポストが、スンニ派には首相職が与えられたが、シーア派は国会議長職を割り当てられるにとどまった。

 この一九四三年の「国民協約」の時期には、レバノンのシーア派は人口の上では第三位のコミュニティーであったが、それからおよそ四〇年後の八五年には最大の信徒を抱える宗派となるほど、シーア派の人口は増加した。

 南レバノンのシーア派系住民の人口増加は、レバノン紳士層の間では貧困と無知によるものとされ、「国家の恥」としてレバノンの大きな社会問題となっていた。

 また、シーア派系住民が居住するレバノン南部のジャバール・アミール地方は、「南(al-janub)」と侮蔑的に呼称され、貧困・病気・非識字者の温床となり、電気・学校・病院などの面で他のレバノンの地域から極端に後れをとるというあり様であった。

 シーア派は人口の上では急激に増加しても、国家の行政機関からは常に排除されていた。一九四六年には政府の上級職員のわずか三・二%、また五五年にも三・六%にすぎなかった。

 このように、レバノンでは政治・経済的抑圧の下に置かれたシーア派だったが、宗派全体の利益を代弁するような政治組織は一九五〇年代末まで現れなかった。しかし、シーア派ウラマー(聖職者)のムーサー・アル・サドルは、レバノンの経済発展の恩恵を受けないシーア派社会の福利向上を訴えてゆく。アル・サドルは「被抑圧者の運動」(=後の「アマル」)という政治的シーア派組織を設立し、シーア派社会に対する「不正義」の是正を強く主張する。その後、「アマル」は彼のカリスマ的性格もあって急速に勢力を拡大する。

 アル・サドルは一九七八年八月にリビアを訪問した際に突然姿を消した。この「行方不明」によってアル・サドルは「神隠れした」イマーム(指導者)としてレバノンのシーア派社会では伝説的に語られるようになった。ともあれ、レバノンのシーア派を政治化した彼の功績には特筆すべきものがあり、レバノン・シーア派社会発展の功労者がイラン出身だったことはイラン人に特別な誇りを与えることになった。

第1章 イラン民族の栄光(2)

この作品では本文テキストのコピー機能を制限しています

01