日本人も移民だった
ハワイ、ブラジル、オーストラリア、フィジー、そして南洋の島々……。明治から戦後のある時期まで、日本は国策として移民を推奨する「移民送り出し国」だった。中島敦を読んで以来、南洋パラオに惹かれ続けているシンガーソングライターが、パラオ引揚者の行方を追いかけ、もう少しで消えていこうとする戦前と戦後をつなぐ声を拾い集める。
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1話 「北朝鮮をひどいって笑えない」パラオ引揚者の富士子さんが見た戦後

 2017年『あのころのパラオをさがして』(集英社)(以下『あのころ』)という本を出した時、私は実際にパラオに足を運んで、戦前に日本の教育を受けたパラオ人やその世代に育てられた子供世代の人たちの話を聞き、日本からパラオに移民として渡った日本人へも取材で話を聞いてきた。日本ではあまり語られない、南洋の現地の人の声を聞きたいという思いは、2015年に出した『南洋と私』(リトルモア)の舞台、サイパンの老人ホームに向かった15年前から変わっていなかった。しかし、『あのころ』を書き終えて、まだまだこれから向き合わなくてはいけない、と痛感したテーマがあり、それは引揚から戻って戦後の日本を生きた人々のことだった。南洋の現地の人々の声が顧みられてこなかったのと同じくらい、元移民だった日本人たちの声もまた、ほとんど表に上がっていない、と感じた。

 彼らの多くは、戦前、先の見えない生活に見切りをつけ、活路を海外に見出した。満州、朝鮮、南洋、あるいは南米やアメリカへ。敗戦後、日本が勢力を拡げた満州、朝鮮、南洋に渡った人々は帰国を余儀なくされた。着の身着のままで日本に戻った人々の戦後は様々だ。夫を戦争で失い、女手一つで戦後を生きた人、炭鉱に活路を見出した人もあれば、米軍基地に職を得た人、逆に戦闘の被害を受け、もう軍隊に関わりたくないと基地の仕事を避けた人もいた。開拓地に家族総出で入り、「こじき集落」「かいたくもん」などと陰口をたたかれながら、やせた土地と格闘した人々、川辺の条件の悪い場所で、度重なる水害被害にあったり、全壊となり多数の死者を出した開拓地に生きた人もいた。開拓の厳しさに見切りをつけ、南米に再び移民として渡った家族もいる。

戦前と戦後をつなぐ元引揚者たちの声

 現在ニュースで語られる「移民」は、一番にアジアの各地から日本へやってくる人々がイメージされ、日本社会への移民受け入れの是非をめぐる意見や、いかに共生が可能か、といった議論が交わされている。こうした構図をみていると、移民はどこまでも「他者」であり、まるで日本人は移民になることなどないような錯覚にとらわれるが、明治から戦後のある時期まで、日本は確かに国策として移民を推奨する移民送り出し国であった。南洋からの引揚者は全体の中では少数派だが、戦闘にまきこまれ、家族を失った人も多い。

 日本の貧しい村から海を渡った人々は多く、ハワイやブラジルをはじめとして、オーストラリア、フィジーなどにも同郷の知人や親戚を頼って広がっていった。これは今日では華僑のイメージに近い。沖縄や九州はとりわけそのような傾向が強かったが、東北や北海道からも、多くの移民が出ている。『あのころ』で取材をさせてもらった宮崎・たまき開拓地に今も在住の久保松雄さんも、戦前の福島から母親と共にパラオに渡った経歴を持つが、久保さん自身は父親がフィリピン人でフィリピン生まれだった。久保さんが生まれる前、母親が福島からフィリピンに写真見合いで海を渡っているのだ。おそらく、フィリピンに嫁いだ方が幸せな生活が送れるという考えからだろう。当時の日本人の移動ぶりは想像以上にダイナミックである。

 戦前と戦後は言うまでもなく繋がっている。けれど、そのことは一人一人の人間を主軸に見ていかなければ気付きにくいことでもある。私たちが過去を知ろうとして、よくまとめられたテレビ番組や本などの情報から学ぶとき、それがわかりやすいものであるほど、まるで戦前と戦後は180度違う時代のように描かれ、教科書的な表層の理解にとどまってしまう。あるいは情報の多くが戦前は戦前のこと、戦後は戦後のこと、と最初から区切られている。けれど、個人の人生は厳然と連続しており、その中に戦前と戦後をつなぐ経験が凝縮され、一人一人の感情がその上に形作られている。

 私たちが歴史の横顔をなんとかつかもうとするとき、個人の人生から得られる情報は得難い価値を持つ。それらは一つ一つが違う様相をしているからだ。パラオの戦場で少年兵がいた、というのは私が久保さんから聞いた話だ。久保さん自身が銃を持たされて警備兵をさせられていた。他の少年兵の一人は盗みに入った日本兵を撃ち殺した。けれど、公の歴史としてそんな事実は残っていない。小さないくつもの声は、紙で残された文書によって立ち上がった大きな歴史の細部を埋め、ときに懐疑や新事実をつきつける。

 引揚者はすでにふれたように、朝鮮、満州、台湾、東南アジアなど様々なところから日本に戻っている。南洋からの引揚者といっても、サイパン、テニアン、マーシャルなどさまざまだが、この連載では、私が学生時代、なかじまあつしという作家の作品を通して縁をもらい、執筆を通して向き合ったパラオからの引揚者の行方を追う。もう少しで消えていこうとする戦前と戦後をつなぐ元引揚者たちの声を伝えてみたい。

「天皇陛下が行くっていうので、初めてね。私も行きたいと」

「まあ、よく遠くから来てくださって」

 最寄りのバス停まで迎えにきてくれた平尾富士子さん(昭和16年生まれ・取材時76)は、初対面の私の手を握って歓迎してくれた。私もそうだが、あまり人見知りしない方のようだ。人懐こい笑顔に、心がたちまち温かくなる。歩いて数分の、御主人が営む整骨院を兼ねるご自宅でお話を伺う。窓際の小さなサンルームに植物たちが心地よさそうに置かれ、庭の梅の木は札幌の遅い春につぼみを膨らませていた。

「パラオに行けるとも思ってなかったのね。天皇陛下(現上皇)が行くっていうので、初めてね。私も行きたいと」

 北海道にも南洋帰還者の集いはあったが、富士子さんはそれまで繋がったことがなかった。パラオは富士子さんの生まれた場所であり、亡き父が眠る土地だ。2015年、天皇のパラオ訪問決定のニュースで堰を切ったように、パラオへの思いが高まった。ニュースを見て、まだ詳細の決まらないうちから、NHKや読売新聞、道庁、宮内庁などに次々と問い合わせたという。富士子さん一家は旭川に近いひがしたかから昭和10年にパラオに渡った。

「家族全員で行ったのね。三男だった父が、母、兄と幼い姉とお祖父さんも連れて。パラオ行って人が開拓していたところに入って、パイナップルやバナナ、マンゴー、パパイヤとか作って。清水村というところ」

パラオで生まれた富士子さん

 パラオには、本島と呼ばれたバベルダオブ島の中央部に大和村、朝日村、清水村、南西部に瑞穂村という日本人の開拓村があり、それぞれの村に神社や小学校があった。朝日村は旭川からの移住者が7割を占めたことから付けられた名前と言うが、南洋への移民全体でみても、沖縄を除くと、東北と並んで北海道からの移住者が多い。三男で十分な土地をもらえなかった富士子さんの父がパラオ行きを決めたのも、旭川周辺にパラオへ移住した人々が少なくなかったためだろう。また富士子さんの父母もさかのぼると「先祖は淡路島」というから、北海道自体が開拓者の土地であったことも改めて思い起こされる。パラオの清水村で暮らして6年後には富士子さんが生まれ、昭和19年には妹も生まれた。お祖父さんは清水小学校そばで雑貨屋を始め、日本の米を輸入し、パラオからは缶詰を輸出したという。

「うちも父が兵隊行く(現地召集でとられる)まではちゃんとしてたけど、そのあとは(アメリカ軍による攻撃を避けるために)ジャングルだから。姉がキノコをとってきてくれたりして私たちを育ててくれた。母は次の子が生まれたりで大変で。お乳も出ないから果物とかネズミとかあげて。ネズミの、一番おいしいもものところをあげるといつまでも噛んでいたそうです」

 農業移民として渡った人々も戦争が激しくなると現地召集された。食糧不足から軍が畑を管理するようになり、移民たちも育てたものを自由にとることは禁じられていく。兵隊たちの飢えはすさまじく、栄養失調による病死が相次いだ。飢えのあまり畑に盗みに入った兵隊が少年兵に撃ち殺された事はすでに述べた。富士子さんの父も、すきを見て軍隊を抜け出して家族に会いにきたときには、変わり果てた姿になっていた。

「もう栄養失調のむくみで、ぼんぼこにれてて。今でもそんな顔しかしらない。(軍に)帰らなかったら脱走兵になるから、戻るよう知らせてくれって仲間が伝えに来て。帰る時、靴がはけないほど足がふくれていて紐でしばって履いていた。そのあと私を抱いてから、帰っていったのを記憶しています」

 軍に戻った父はほどなくして亡くなった。

「朝日村の野戦病院と言われていったらもう埋めた後だったと。(遺体を埋める)穴ぼこがずーっとあったって」

父・敦さんと兄

引揚者の一部を収容した幕張の「千葉厚生寮」

 富士子さんは長らく父はアメリカ兵と戦って死んだ、と思っていたが、後に栄養失調で死んだと知った。

「ずっとアメリカのものは買わない、食べないと思ってやってきたのに、びっくりがっかりして」

 富士子さんにとっては、お父さんへの思いは特別だった。富士子という名前をお父さんが日本への望郷の思いをこめてつけたからだ。戦わずして失われ続けた命があった。昭和21年、一家は引揚者の一部を収容した幕張の「千葉厚生寮」にひととき落ち着いたが、歩けていた2歳の妹も栄養不良で千葉の病院で亡くなっている。病院に付き添うとき、母は寮を出て富士子さんたちを親類に預け、一時家族は離ればなれになったが、その甲斐もなく、ネズミの腿を食べさせながら母親が海を越えてつないだ幼い命も、戦後に失われた。

 厚生寮は元陸軍の西しょうしゃで、現在の習志野2丁目あたりにあった。引揚者約300名を収容しており、昭和216月には昭和天皇が「じゅんこう」で訪問している。戦後間もない時期、天皇は全国の引揚者収容所を訪れた。パラオから引揚げ、環野開拓に入る前、浦賀の元海軍銃砲学校兵舎で一時暮らしていた舘下剛(昭和21年当時6歳)さんは「よく帰って来たね」と声をかける天皇に頭をなでられた記憶がある。

「神と教えられた人が目の前にいて大人はひどく緊張していた。両親はずっと『あの時は涙が出たね』と話していたものだ」と振り返る」(『宮崎日日新聞』2002329日)。

 戦後、夫を奪った、と天皇へ恨みをもつ未亡人も、父を奪ったと天皇に石を投げた少年もいたが、多くの日本人は「人間」となった天皇をいまだ神のように感じていた。当時の遺族たちの動きを見ると、夫の犠牲は「犬死」だった、と捉えた未亡人たちが中心となって補償を求める戦争犠牲者遺族同盟が立ち上げられるが、ここに天皇制を否定する共産党など左派が関わっていくことで、遺族の多数派の支持を失っていった。結果的に戦死者を「英霊」と考える、男性遺族が中心となった日本遺族厚生連盟(日本遺族会の前身)が、遺族代表として政治にも影響を及ぼす団体となった(今井勇「戦没者遺族運動の形成と戦後国家への再統合―戦争犠牲者遺族同盟分裂をめぐって―」『年報日本史叢』2002)。

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第1話 「北朝鮮をひどいって笑えない」パラオ引揚者の富士子さんが見た戦後(2)
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