「男だから……」「女だから……」というセリフは中高時代に口にすることはない。
最難関大学に毎年多くの合格者を送り込み、高度成長期以降、受験界で名を轟かせてきた「男子御三家」。三校とも非常に個性的な教育をおこなうことでも有名だ。中学受験塾の講師として25年以上にわたって指導してきた著者が、エリートたちの真の姿を解き明かす。

1章 麻布 プライドを持って自由を謳歌する

七〇年近く続く「東大トップ一〇」

 麻布の進学校としての実力は昔より揺るぎがない。一九五四年(昭和二九年)以来、七〇年近く東京大学合格者数ランキングのトップ一〇に顔を出している。これは現在東京大学に最も多くの合格者を輩出する開成でさえなしえていない。なお、二〇一九年度の東京大学合格者数は一〇〇名(過年度生を含む)。その内訳をみると、文科一類二五名、文科二類一四名、文科三類一二名、理科一類三四名、理科二類一二名、理科三類三名である。高校別東大合格者数ランキングでは開成、筑波大駒場に続いて第三位である。

 麻布は四年前に創立一二〇年を迎えた。

 歴史ある伝統校、しかも全国屈指の進学校だからこそ、麻布の卒業生は多岐に渡る分野に進出している。政財界、法曹界、文学界、学術分野はもちろんのこと、高学歴が必ずしも求められていない世界にも進出している卒業生が多いのも特徴的だ。

 ウィキペディアの「麻布中学校・高等学校の人物一覧」を見ると、輩出した著名人の多さに舌を巻く。その数、何と三〇〇名以上。

 政界だけでも総勢三〇名近くがリストアップされている。福田康夫氏、橋本龍太郎氏といった首相経験者をはじめ、与謝野馨氏、谷垣禎一氏、平沼赳夫氏、橋本大二郎氏、中川雅治氏、中川昭一氏などの名が挙がる。麻布出身の政治家を中心とした「麻立会」というグループも組織されていて、食事会などを定期的に催している。このときばかりは党派や派閥を超えて和気藹々とした雰囲気が生まれるとか。

 学者の世界でも麻布の卒業生が多分野に渡り活躍している。一例を挙げると、社会学者の宮台真司氏、政治学者の藤原帰一氏、仏文学者の中条省平氏などだ。

 文学界にも麻布卒業生が多い。たとえば、古くは吉行淳之介氏、山口瞳氏、北杜夫氏など。安部譲二氏や高橋源一郎氏はともに中学の一時期だけではあるが麻布で学んだことがある。なだいなだ氏、藤野千夜氏、脚本家の倉本聰氏も卒業生だ。

 アナウンサーでは、桝太一氏(日本テレビ)、吉田尚記氏(ニッポン放送)、塚原泰介氏(NHK)、金子哲也氏(NHK)など。

 また、進学校としては意外なことに芸術や芸能分野で手腕を発揮する卒業生もいる。音楽プロデューサーの武部聡志氏、ピアニストの本田聖嗣氏、ジャズピアニストでは山下洋輔氏、そして、俳優のフランキー堺氏、小沢昭一氏、加藤武氏、仲谷昇氏の四名は同級生であった。

 変わり種としては、発明家のドクター中松氏、ラーメン評論家の武内伸氏、競馬評論家の須田鷹雄氏、お笑い芸人の加賀谷くん(ハウス加賀谷)など。

 麻布の卒業生たちは実にバラエティに富んでいる。

 この陣容を眺めながら、わたしはカラフルな冊子を思い出していた。

卒業アルバムの妙

 わたしの目の前に『麻布学園卒業アルバム 二〇〇七─二〇一三』がある。二〇〇ページ弱という分量は他校の卒業アルバムとさほど変わらない。

 だが、中を開けるとびっくりさせられる。

 とにかくカラフルで、かつ手作り感満載の躍動感あふれる卒業アルバムに仕上がっている。これは麻布が私服の学校だからか。いや、それだけではなさそうだ。

 個人写真と一言コメントのコーナーを見ると、生徒たちが思い思いのポーズを決めている。ギターを弾いている子、バイオリンを演奏している子、プールサイドで寝そべっている子、部室でピースサインを作っている子、校内の木によじ登っている子、砂浜に顔だけ出して埋まっている子……。いやこれらはまだ「マトモ」な子たちである。なぜか全裸になって写っている子がざっと数えただけで一〇名ほどいる(大事な部分はもちろんモザイク的な処理が施されている)。

 他のページを繰ってみる。

 各自治機関、部活動ごとの集合写真が並んでいる。これは分かる。しかし、理解に苦しむのが「有志団体」と記された集合写真がそれら以上に多くのページを占めていることだ。そのカテゴリの総数は一九四にのぼる。

「お好み焼き展」、「まじない展」、「ピタゴラ展」などはおそらく文化祭の展示班であろう。しかし、それらはほんの一部。「チャリ通」、「クソちび」、「巨漢」、「高身長」、「ももクロ大好き」、「マガジン購読者」、「鎖骨折れたことある」、「献血協力者」、「白ブリーフ」、「天一(ラーメン屋の「天下一品」)大好き」など……。正直、ここでは書けないカテゴリ名も散見される(下ネタ中心)。

 アルバムの後半には「卒業記念アンケート集計結果」がこれまた大量の画像とともに掲載されている。「学校一のイケメンといえば?」「学年一の人気者といえば?」「足が臭そうな同輩といえば?」「将来、逮捕されそうな同輩は?」……。票数を多く得た生徒の顔写真が三枚ずつ載せられている。「一番かわいいと思う教員は?」「一番尊敬する教員は?」「スケベっぽい教員は?」「器が小さい教員といえば?」なんていう項目もある。

 その他、「第一志望の大学は?」「通っている塾は?」「自分の息子を麻布に入れるか?」「麻布以外ならどの学校が良かった?」といういかにも進学校的なものがあったかと思えば、「好きなAV女優は?」なんてものもある。ほかにも様々な項目があるが、やはりここでは書けないもの(下ネタ中心)が幾つもある。

 さらにページを進めると、今度は教員たちのインタビューが掲載されていて、「哲学」や「文学」、「英語」などをかなり深くまで掘り下げたレベルで熱弁している。

 なんだ? このアルバムは?

 なんだ? この妙な学校は?

 わたしが麻布に抱いた率直な感想はこれである。

 でも、卒業アルバムを眺めていると、思わずこちらの頰が緩んでくる。生徒たち、教職員がとにかく楽しそうな表情を浮かべているのが強く印象に残ったのだ。

 このたくさんの笑顔が織り成して、カラフルさを醸すアルバムになっているのだろう。

麻布という町

 東京都港区には「麻布」を冠する地名が幾つも存在する。「元麻布」「西麻布」「南麻布」「東麻布」「麻布台」「麻布十番」「麻布狸穴町」「麻布永坂町」……。どの町も東京、いや日本を代表する高級住宅街である。

 また、各国の大使館が点在する国際色豊かな地域でもある。港区役所のホームページによれば同区には八二ヶ国もの大使館があるが、特にこの麻布界隈に集中している。このことは、この場所に数多くの寺院が建立されていたことに起因する。幕末の開国期に外国人が日本で滞在する場所として大きな寺院を利用することが多かったからだ。実際、麻布地域にはいまでも五〇を超える寺院が現存している。ちなみに、一八五九年(安政六年)には日米修好通商条約に基づき、初代アメリカ合衆国公使館が元麻布の「麻布山善福寺」に設けられたという。

 この「麻布」が地名として歴史に登場するのは意外に新しく一五五九年(永禄二年)とされている。『小田原衆所領役帳』によれば、当時は「阿佐布」という漢字を充てていたようだ。

 その後、江戸時代の明暦年間に「麻布」という字が定着しはじめたとされている。字のごとくこの地では麻の布の生産が盛んだったのだろう。その頃から、麻布一帯には大名や旗本の武家屋敷が立ち並ぶようになった。

 明治時代に入ると、大区小区制廃止、ならびに郡区町村編制法施行により、東京府麻布区が置かれた(いわゆる「東京十五区」の一つ)。当時、麻布区には「麻布~町」という名の町が約四〇も存在していた。

 戦後間もない一九四七年(昭和二二年)にはこの麻布区、芝区、赤坂区の三区が合併し港区が発足した。なお、先にも一例を挙げたが、旧麻布区域の町名にはすべて「麻布」が冠されることになった。

 そして、この旧麻布区域は台地と谷地で成り立っている起伏に富んだところだ。いたるところに「~坂」という標識がある。

 東京メトロ日比谷線「広尾駅」のすぐそばにある「木下坂」と名付けられた右手にゆるやかに曲がる坂を歩く。この名称は坂の北側にかつて大名であった木下家の屋敷があったことに因んでいる。右手には有栖川宮記念公園の緑が広がる。江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家である「有栖川宮家」の御用地に作られた公園であり、いまは港区が所管している。

 しばらくすると、前方に「愛育病院前」という表示のある交差点が見えてくる。

 この交差点を右手に曲がり、道を進んでいくとカタール大使館の手前左手に細い路地が現れる。周囲に目配りをせず歩いていくと、つい通り過ぎてしまいそうになるが、ここが麻布中学校・高等学校の校門である。ここをくぐり、ひび割れが目立つアスファルトの細道を歩いて数秒で校舎に着く。何だか地方の古い公立高校のような外観だ。

麻布といえば「文化祭」

 普段は地味とも形容できる麻布の入口周辺ではあるが、毎年ゴールデンウィークの時期には、一気に華やかな雰囲気に変わる。「文化祭」がおこなわれるのだ。

 校門から入った細道には、文化祭を告知する派手に彩られたボードが両脇に所狭しと並べられている。そして、正面の校舎の外壁には教室三フロアに相当する大きなサイズの垂れ幕が掲げられ、文化祭の盛り上がりを演出する効果を出している。

 驚かされるのが麻布の文化祭への来場者数の多さである。在校生、在校生保護者のみならず、受験生やその保護者、また、大挙してやってくる女子校生たちの姿も目立つ。

 二〇一八年度の「第71回麻布学園文化祭公式ツイッター」によると、開催三日間で二万八九六三人の来場者があったとか(文化祭実行委員を務めていた卒業生によると、来場者のカウントには在校生・卒業生を含まないらしい)。二〇一九年は文化祭が六月に急遽延期になった(その理由は後述する)が、それでも二万六七二三人の来場者を迎えた。首都圏の私立中高の文化祭の来場者数を調べてみると、一万人を超える規模の文化祭はよほどの有名校でないと難しい。それを考えると麻布の文化祭のスケールの大きさが分かる。

 なお、麻布の文化祭の各展示はクラス単位でおこなうものではない。部活単位か、あるいは有志による企画となる。総額で七〇〇万円前後のお金が動くとか。

 麻布の卒業生たちに取材すると、小学生のときに麻布を志望したきっかけとしてこの文化祭を挙げる人がほとんどである。そして、結果としては麻布に通うことになったものの麻布を受験するか敬遠するかどうか逡巡するきっかけになるのもこの文化祭である。換言すれば、それだけインパクトのあるイベントなのだろう。

「麻布の文化祭に行ったら、とにかく『最高』って思いましたね。在校生たちが発する熱量、エネルギーに圧倒されたというか。ステージを見学したら、金髪のお兄さん、いや、それ以上にインパクトのあるなりをしたお兄さんたちがワーっと盛り上がっていて、『中高生ってなんだか凄いな』と憧れたんです。そのくせ、小学生のぼくを懇切丁寧に案内してくれるお兄さんが多かった。『見た目とは違って、すごく優しいじゃん、こいつら』って感動しました」

 そう語ってくれた卒業生は、中学受験で男子最難関校である「筑駒」こと筑波大学附属駒場にも合格したが、この文化祭に魅入られたことをきっかけに麻布進学の道を選んだ。

 そのように麻布の文化祭に好印象を抱く人がいる一方で、先述したように文化祭のその熱量に引いてしまう人もいる。

「麻布の文化祭に行きましたが、その第一印象は最悪でしたね。ただ、うるさいなあ、嫌だなあと思いました。会場入り口に装飾されているスプレーアートも含めて、なんだか騒々しいなと」

 別の卒業生もこう口にする。

「ぼくは中学受験するときにいろいろな学校の文化祭に足を運んだんです。麻布の文化祭は確かに圧倒的なエネルギーが伝わってきたのですが、同時に『内輪ノリ』を感じました。ぼくが好印象を持った文化祭は駒東(=駒場東邦)です。駒東は来場する人を楽しませることに重きを置いているというか。開成・筑駒の文化祭は何だか真面目過ぎてぼくには面白くなかったなあ(笑)」

「麻布」「文化祭」とグーグルで検索をかけて、画像をチェックすると、麻布の派手な文化祭の様子が分かるとともに、来場する女子校生たちの数の多さが目を引く。文化祭のメインステージにはそんな彼女たちが群がっている光景が恒例になっている。

 一人の卒業生はまさにこの点が麻布を志望する決め手になったと言う。

「小学生のときに麻布の文化祭に来たら、もう女子校生の数が半端なくて。おぉ、こんな俺でもこの学校に入ったらモテるかもしれないぞ。そんな淡い期待を抱きました(笑)。それが麻布を志望した一番の理由かもしれないですね」

 麻布生たちが異口同音に言うことがある。女の子たちにチヤホヤされるのは文化祭の時期限定だという点だ。

 ある卒業生は苦笑する。

「文化祭にはたくさんの女の子が来ますし、そこで仲良くなってメアド交換なんてこともあります。ご近所の東洋英和(女学院)とか、あと、女子御三家(桜蔭・女子学院・雙葉)の子たちも多かったな。だから、文化祭が終わって一週間か二週間かは学内が何だか色めき立っている。で、五月・六月くらいにはちらほら合コン(カラオケが多いらしい)が催されて……。でも、だいたい七月くらいになると、何事もなかったように終息していく」

 別の卒業生もこう口にする。

「文化祭が終了すると、もう学内は女の子の話ばかり。でも、夏前になると、そういう話題がどんどん少なくなって普段の雰囲気に戻っていく。まるで故郷に帰るかのように(笑)」

 それでも、次のような猛者もいる。

「文化祭では『逆ナン』をよくされましたよ。で、中三のときにはじめて恋人ができました。それからは、彼女が途絶えたことはないですね。麻布生ってモテる人間はとことんモテますよ。でも、気持ち悪いヤツはとことん気持ち悪いですけど」

第1章 麻布 プライドを持って自由を謳歌する(2)

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