「どうしてうちの子は死んだんですか」
まさか、わが子の命が失われるとは。悲劇は突然やってくる。死因さえはっきりせず、時間ばかりが経過するケースも。「命を救えなかった理由は何か」「今からでも何かできることはないか」。世界一安全と言われる日本で、繰り返される子どもの事故や虐待、自殺。いま、子どもの死因を分析し、予防につなげるCDR=チャイルド・デス・レビューと呼ばれる取り組みが始まろうとしている。

1回 どうしてうちの子は死んだんですか

 まさか、わが子の命が失われるとは誰も思っていない。しかし、悲劇は突然やってくる。死因さえはっきりしないまま、時間ばかりが経過していくケースも少なくない。「命を救えなかった理由は何か」「今からでも何かできることはないか」。親たちはそう考え、苦しむ。世界一安全と言われる日本で、繰り返される子どもの事故や虐待、自殺…。どうやったら、この苦しさを減らせるのか。社会にできることは何か。命を救う戦いの現在地を伝える。

 

伶那はもう、名前を呼んでも返事をしなかった

 長野県内の葬儀場。複数の家族が寝泊まりできる大広間の片隅で、松田容子(52)は、夫(51)とともに、長女伶那れいな=当時(12)=の亡きがらに寄り添っていた。静まり返った施設。職員も帰り、3人がいる場所だけ明かりがともる。冷たくなってしまった娘の手や顔をさすりながら、松田は泣いていた。数日前、元気に送り出したはずの娘。こんな別れがこようとは思いもしなかった。

 20132月。

 伶那の異変は急だった。小学校の卒業旅行で34日の日程で長野県へ。その2日目の220日、スキー場でそり遊びをしていたとき、突然「疲れた」と座り込んだという。友人が気付いたときには倒れており、近くの病院に搬送された時にはすでに心肺停止だった。

松田伶那さん(家族提供)

 松田の自宅は横浜市にある。

 教頭から連絡が入ったのは、その日午後4時すぎだった。直後、今度は救急車に乗り合わせた担任教諭から電話があり、既往症の有無を聞かれた。これまで大きな病気やけがをしたことはない。6年生になってからは欠席もなかった。それを伝えた松田は、とっさに「先生、生きてます? 生きてますよね?」と尋ねた。教諭は「はい、はい」と答えるだけだった。この瞬間、生きているとも死んでいるとも言えない状況を悟った。

 東京で仕事中だった夫に連絡し、先に長野へ向かってもらうことになった。松田は昼寝をしていた下の子を義父母に預け、午後5時前に自宅を出発。長野行きの新幹線に乗るため、在来線を乗り継ぎ、東京駅に向かう。その最中、携帯電話が鳴った。伶那が搬送された病院の医師からだった。

「心肺蘇生をやめてもいいですか」

 医師が承諾を求めてきた。松田はすがった。

「人工心肺でも人工呼吸器でもなんでも着けて、助けてください」

 医師の姿勢は変わらなかった。

「ちょっと難しいです。これ以上続けても、伶那さんが苦しむだけ」

 松田は一人で決断できなかった。夫に再び連絡を入れた。「かわいそうだから、やめよう」と言う夫。松田にも同じ思いはあった。それでも、娘を助けてほしい。いろんな思いが交錯する中、結局、医師の申し出を承諾せざるを得なかった。東京駅にさえ着いていなかった。松田は、電車の中で人目をはばからず泣いた。

 急いで行く必要がなくなった夫は、埼玉県内で途中下車して松田を待っていてくれた。合流後、「大丈夫か」と気遣ってくれたが、松田には返す言葉がない。2人はほぼ無言のまま電車に揺られ、午後9時ごろ、病院に到着した。

 玄関先で警察官が待っていた。病院から、伶那の死亡に関して「不審死」という連絡を受けて来たという。集中治療室(ICU)に案内され、伶那のいるベッドに向かった。眠っているようだ。名前を呼んでも返事はない。手を握るとまだ柔らかく、温もりが残っている。

「伶那ちゃん、一度だけ心拍が再開して、すごく頑張ってくれたんですけどね」

 医師は、治療時を振り返った。亡くなった後にCT画像も撮影してくれていたようだ。

「頭のてっぺんから足の先まできれいでしたよ」

 ではなぜ、伶那は死んだのだろう。そんな思いもよぎりながら、今度は警察から事情を聴かれた。

「ご飯をちゃんと食べさせていましたか」

「普段は健康でしたか」

「友達とは仲良くしていましたか」…。

 ひと通り答えた後、外傷もなく事件性がないと判断され、司法解剖はされないことが分かった。解剖なしでは、詳しい死因は分からない。明らかにするためには、解剖が必要だと医師らは言う。判断は松田らに委ねられた。松田の頭の中では、解剖は必然だった。医師だった父親が、事件報道を見るたびに「解剖しなければ闘えない」と口にしていたこともある。

 夫は反対した。「(伶那が)怖がりだったからやめよう」と。解剖するためには、別の総合病院へ搬送しなければならない。そこでは順番待ちとなり、いつ解剖してもらえるかも分からない。下の子のことも気がかりだった。CT画像があることも自分の気持ちに折り合いをつける材料となり、松田は最終的に解剖を希望しなかった。

 日付が変わるころ、教諭らと少し話した後、病院から出た。そして紹介された近くの葬儀場で夜を明かした。

 

半年たった後に、十分な予防措置がなかったと判明

 葬儀のとき、そして葬儀の数日後。校長や担任教諭らが自宅に足を運んできた。伶那の旅行中の様子について時間軸に沿って話してくれた。松田は聞くだけで精いっぱいだったという。3月半ばの卒業式に出席を求められたが、耐えきれず断った。卒業式当日、教諭らは卒業証書を届けに来た。

 この日は伶那の話はなく、教諭らは「お話はまた今度」と言って帰った。

 時は静かに流れていく。

 松田は、伶那の死について事実を知りたいと思っていた。解剖しなかったため、伶那の死因は「心不全」とされたままだった。心不全は病態であって病名ではない。松田なりにあらゆる可能性を考えていた。例えば、「気絶したときに雪で口元をふさがれ、窒息したのかもしれない」、あるいは「そりで胸を強く打って、意識を失う心臓震盪(しんとう)で亡くなっていたのかもしれない」と。

 3月下旬、連絡先が分かる伶那の同級生ら25人に泣きながら電話をかけた。

「なんでもいいから教えてほしい」

 そんな松田に、子どもたちは記憶をたどりながら話してくれた。

「いつも通りだった」「元気に過ごしていた」という話もあれば、「全然眠れなかった」「気持ち悪い」「とても眠い」などと伶那が言っていたという話もあった。倒れる直前、集合写真を撮影したときには、耳を抑えてしゃがみ込み、周囲が「大丈夫?」と取り囲んでいたという。

 4月、伶那が倒れる前まで一緒に遊んでいた同級生に会った。当時、異変に気付いた同級生らが声のリレーで、現場から離れていた教諭を呼んでくれたという。

 松田は弁護士も探した。第三者委員会を設置してもらえば、死因を突き止められるかもしれないと考えた。しかし、行く先々で「死因が特定できないから、闘うのは難しい」と返される。知り合いの医師にも調べてもらった。そこでも「推測できる病名は挙げられるが、断定はできない」と回答された。あてにしたCT画像も役立てることはできなかった。

 学校側から何のアクションもないまま、日にちが過ぎていく。

伶那さんの祭壇(家族提供)

 新しい年度の夏休みを迎えようとしていた7月下旬。卒業アルバムを手にして、教諭らが自宅を訪れた。松田は訴えた。

「お話はまた今度とおっしゃったので、私はずっと待っていました。もしご自分が、大切なお子さんを私と同じ状況で亡くされたら、『心肺停止で亡くなりました』って言われて、『はい、そうですか』って納得できますか。もしご自分だったら、どう学校から対応されたいですか。死に対する責任があるかないかは別にして、説明責任はあるはずです。何度でも話し合って共に歩まないと、先生たちもお気持ちが前に進めないんじゃないでしょうか」

 教諭らは涙を流し、松田の話に耳を傾けた。松田は、質問を書いた文書を手渡す。その翌月、ようやく話し合いの場が設けられた。伶那の死から半年が過ぎていた。

 回答は、学校側のずさんな安全管理体制を露呈したものだった。

 宿泊先には、自動体外式除細動器(AED)がもともとなかったが、設置場所を含め事前に把握していなかった。事故時には、約1キロ離れた宿からAEDを借りていた。現地で健康チェックをしていなかった。学校側に非常時の対応マニュアルもなく、心肺蘇生の講習会は3年以上行っていなかった。

 さらに1カ月後。学校側の説明は事実と食い違うことが明らかになった。亡くなった直後、「教諭が伶那さんの名前を呼んでも返事がなく、看護師が来るまで心臓マッサージをした」と説明を受けていた。ところが、同行した看護師は松田の質問に「私が着いたとき、誰かがマッサージをしていたと確認できなかった」と文書で証言したのだ。

 対応に問題がなければ、娘は助かったのか。それは分からない。それでも「最低限やるべきことをやらずに亡くなるのと、できることをやったのに亡くなったのでは違う」と、松田は話す。伶那の死を無駄にしたくはない。伶那が倒れたときにどう対処すべきだったのかを知りたい。

 松田は、そうした思いを強めていた。

 

死因を究明し、悲劇を止める取り組みとは

 その年、2013年の暮れ、傷病者への手当てや心肺蘇生について学ぶ講習会が横浜市内で開かれた。松田も参加してみた。

 病気やけがの人がいたら「何が何でも助けなければならない」という強い信念を松田は持っていた。しかし、この講習会を機に、考えが大きく変わる。自分や周囲の安全を確保した上で救助に臨む必要があるという講師側の考え方を知り、目からうろこだったという。

 そこから勉強を重ねた。

 アメリカ心臓協会などが公認する心肺蘇生に関する資格を取ったほか、食物アレルギーの症状が出た人への対応も学んだ。そして、伶那の3回目の命日にあたる2016220日、自らの活動団体「クロスバイスリー」を設立する。救命講習、子どもを預かる上での安全管理体制、子どもを失った遺族を支える「グリーフケア」の必要性。自らの経験からこの3つの課題をクロスして活動する必要を感じ、団体の名前もそこから取った。

 その後は、各地で救命講習会を開いたり、事故時の対処について講演したりしている。活動件数は多い年で年間約50件近くに上る。

 伶那の死から8年。

 各地でAED設置の動きは広がりつつある。活動を通して情報発信する大切さも感じている。だが、子どもが犠牲になるニュースは後を絶たない。多くは大人の過失が原因だ。この夏だけでも多くの痛ましい事故があった。6月には千葉県八街市で、下校中の児童の列にトラックが突っ込み、児童5人が死傷した。運転手は飲酒していたことが後に判明している。7月には福岡県中間市で、5歳の男児が保育園の送迎バスに取り残され、熱中症で死亡する事故もあった。

 悲しいニュースは、なかなか途切れない。

 なぜ、子どもの事故はなくならないのか。

 なぜ、命を助けることができないのか。

 こうした悲劇を食い止めようと、日本ではいま、子どもの死因を分析し、予防につなげるCDRと呼ばれる取り組みが始まろうとしている。

 Child Death Review チャイルド・デス・レビュー。

 松田は、自身の経験も踏まえてCDRに関心を寄せている。

「死因が分からないと、直後の『なんで死んだんだろう』というところから進めないんですよね。何年たっても…。死因が分かったら、どう対処すべきだったか、予防の道筋も見えてくると思います」。そして何より、解剖への願いは強い。「遺族に判断を委ねるのは酷だと思うんです。解剖してかわいそうという気持ちは私にもあった。それでも事故にしろ、病気にしろ、子どもが亡くなることは普通じゃない。CDRで死因究明してほしいです」

 

執念の事故検証 それでも“個人”には限界がある

 神奈川県鎌倉市の吉川優子(50)もCDR導入に期待する一人だ。

 吉川は2012720日、幼稚園児だった5歳の長男・慎之介を川の事故で亡くした。通っていたのは、愛媛県内の園。お泊まり保育中に川で水遊びをしていた際、急に川の水かさが増し、他の園児3人と共に流された。慎之介は約150メートル下流で沈んでいるのを発見された。

 事故直後から、警察の捜査は入っていた。しかし、「溺水」以外に詳しい死因が分からない。園に説明を求めても「何もお話できません」と言われ、調査すらしてもらえない。そのため、吉川は自ら動かざるを得なかったという。

 事故から4日後、保護者らの協力で独自の検証を始め、子どもたちへの聞き取りを重ねた。それでも原因究明はほど遠い。県や市、文部科学省にも事故の検証を求めた。すると、幼稚園が私立のため、指導監督の権限がないと言われた。

 責任の所在がどこにもないまま、事故が風化されてしまうのではないか―。そんな危機感から、事故翌年の6月、保護者らとともに「学校安全管理と再発防止を考える会」をつくった。20145月には、独自で調査した資料などを基に、大学教授らに事故の検証を依頼し、第三者委員会を発足。警察などの捜査と並行して、独自の検証を重ねた。

 それでも、園側の協力は得られない。

吉川慎之介くん(撮影・穐吉洋子)

 事故の日、何があったのか。どういう状況で慎之介は流されたのか。どうやって発見されたのか。見つかった時の状態はどうだったのか。

 吉川が知りたかった情報にアクセスできたのは、元園長や教諭らが業務上過失致死傷の罪で起訴された後。被害者参加制度を利用して、警察の捜査資料を見たときだ。

 慎之介の遺体を川から引き揚げたときの写真があった。遺体は傷だらけだった。肺が真っ白になったCT画像、実況見分の様子や上空から現場を撮影した写真もあった。慎之介と病院で対面したときには気付かなかった事故の真相が、資料には詰まっていた。

「このデータを公開すれば、事故の再発防止につながるのではないか」

 そう考えた吉川は、検察官に資料の公開を申し出た。検察官は「気持ちは理解できるが、あなたが罰せられてしまう。公開はできません」と拒んだ。公判前に訴訟に関する書類を公にしてはならないという刑事訴訟法47条に反するからだ。

 しかし、一連の経緯から吉川は、多くのことを学んだという。

 当事者への聞き取りだけでは、分からないことがたくさんある。法医などによる解剖、科学的な検証。肝心な事柄は、権限がなければできない。調査では初動が極めて重要だ。そして吉川は、厚生労働省などに対してCDRの導入を積極的に求めていくようになった。

「今亡くなった子どもの死因究明をやるのは大事ですが、過去にも同じ事故が繰り返されてきました。そのデータもあるわけだから、過去の事例の検証もCDRでやるべきことではないか、と。私はそう思っています。形骸化せず、社会に根差していく仕組みにしてほしい。何より初動調査に重点を置いてほしい」

 慎之介の事故から9年。川や海で「ライフジャケット着用」の親子を目にすることが増えてきた。吉川の思いは、少しずつ、しかし確実に社会に浸透しつつある。

「遺族が、いろんな問題を解決するために活動することは間違っていません。だけど、やっぱりそうじゃないほうがいいと思います。(検証は)やるべき機関がやる。再発防止に私たちもできることがあれば、と関わるほうがいい。だって、私たちの活動がなくなっていかないということは、社会が変わっていないということだから。遺族が悲しみと向き合える時間を優先できる社会になってほしいと思います」

吉川優子さん。水辺の安全を考えるオンラインイベントで、自身の体験やライフジャケット着用の大切さを語った=20217月(撮影:穐吉洋子)
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