「緒方メッセージ」を若い人たちに届けたい
日本を代表する国際派知識人、緒方貞子。自らの人生とともに、日本を、世界を語る。(解説=中満泉)

*断りのない限り、写真は著者提供のものである。

1章 子どもの頃

勉強よりも運動が好きでした。お転婆で、走り回ってばかりいました。……さすがに英語は成績が良かったと思います。あとはどうだったか……(笑)。

曽祖父のこと、祖父のこと

──一九二七年九月一六日に東京でお生まれですね。

 麻布区霞町二二番地の祖父・芳澤謙吉の家で生まれました。現在の住居表示だと港区西麻布三丁目ですが、やはり旧町名の霞町の方がしっくりきます。六本木ヒルズの西側の道から二筋ぐらい西に入ったあたりです。西麻布の交差点には、当時、「霞町」という市電の停留場があって、市電の七番が走っていたのを覚えています。七番は四谷塩町から信濃町、青山一丁目、墓地下、霞町、天現寺橋、ぎょらん坂、泉岳寺を経由して品川駅まで走っていました。

 霞町の北側には青山墓地と二・二六事件のときに決起した歩兵第三連隊がある新龍土町がありました。南側と西側にはこうがい町、六本木ヒルズがある東側には材木町と桜田町がありました。当時の霞町界隈は静かな住宅地でしたが、いまは近所に六本木ヒルズができたりして、すっかり様変わりしました。

 私が生まれた家はもうとっくになくなっていますが、いまでも家のことや周りの様子は覚えています。ずいぶん長い間あの横丁にいましたから。最初にあった芳澤の家はどこかの公使館に貸して、その隣の土地に建てた家で生まれたのです。坂をすこし上がったところにもう一軒建てて、そして材木町に行く途中のところにもう一軒建てて、芳澤は同じ横丁の何軒かの家に住んでいたことになります。私の家族は、アメリカや中国から休暇で帰国すると、霞町の芳澤の家に泊まりました。

 当時、魚屋さんが天秤棒を担いで売りに来ると、珍しくて、裏口から飛び出して見に行きました。それから、一〇がつく日にある近隣の縁日も楽しみでした。いまは頭上を首都高速が通っている霞坂の道沿いに当時は露店が出たりしたものです。浴衣を着せてもらってぶらつくのがとても楽しかったです。

 芳澤の家は大家族で、書生さんや女中さんもいました。とにかく来客も多い家でした。出入りが多く、泊まり客や食事どきの来客をもてなすのが祖母の生きがいでした。お料理を自分はしないのですが、女中さんたちにてきぱきと指示を出し、もてなしがうまくいかないと機嫌が悪かったようでした。

 食堂に頑丈で大きなテーブルがあったのを覚えています。関東大震災のときに、ちょうど昼食の前でしたが、私の母はすぐにテーブルの下に入ったから怪我をしなくてすんだと言っていました。このたびの東日本大震災のときに、咄嗟に母の言葉を思い出して、私はJICA(国際協力機構)の机の下に潜りました。関東大震災のとき、犬養毅は逓信大臣をしていまして、その官舎にみんなで来るように言われ、家族全員でそちらに移ったようです。官舎のあたりに避難している人たちに、炊き出しの握り飯を配って歩いたと母は申しておりました。

──貞子というお名前は、緒方さんの曽祖父にあたる犬養毅氏がつけられたのですね。

 「名記貞子」と曽祖父が墨書したものが我が家に残っています。名記は私たちがいた霞町二二番地宛てに祝いの手紙と一緒に送られてきて、それらをまとめて父が額装したのです。曽祖父は書画が上手でしたし、父は犬養のことをたいそう尊敬していましたから。その額は、私にとっては犬養、芳澤と両親の中村をつなぐ大事な遺品ですが、うちの子どもたちはそんな古いことにはあまり関心がないようです。

──犬養毅氏についての記憶はあるのですか。

 それがまったくないのです。総理大臣になる前の曽祖父と、当時赤ん坊だった私が一緒に撮った写真がありまして、そういう写真を見て、犬養毅という偉い人が身近にいたということは知っていました。五・一五事件(一九三二年)のときは私はまだ四歳でしたし、当時は家族でアメリカにいましたから、曽祖父についての実際の記憶はありません。

 年配の女中さんがアメリカについてきてくれていたのですが、五・一五事件のときは、家じゅうがなんとも言えない大変な興奮状態だったことをかすかに覚えています。子どもなりに緊張したのでしょう。そういう事件もありましたから、私の家は一貫して反軍部でした。東京の芳澤の家でも、軍部がいかに日本の道を誤らせているかという話を大人がしているのを聞いて育ちました。そういう意味では、普通の家とは違っていたでしょう。

 戦後、博士論文で満州事変の研究を始めたときに、荒木貞夫・元陸軍大将に話を聞きに行ったのですが(第3章参照)、なんとも言えない気持ちがしました。国際協調を維持しようとした首相の犬養は、満州事変後の軍部を抑えるつもりで荒木を陸軍大臣に据えたのですが、その彼が国際連盟脱退を推進したわけです。

 これもあとから知ったことですが、犬養毅は、孫文を支援していたようです。アジア主義者だったのでしょう。アジア主義といっても侵略的なものばかりだったわけではなく、中国と交流し連帯しながら、双方の国内を改良していこうという人たちがいました。犬養もそうだったのではないでしょうか。戦前の日本では、みなさん、中国とは、いろいろな形で個人的な付き合いがたくさんあったのです。いまでは、あまり想像できないかもしれませんけれども。

──祖父の芳澤謙吉氏は、犬養毅氏の長女・操さんと結婚されます。大正から昭和にかけての日本を代表する外交官の一人です。犬養内閣では外務大臣も務めました。

 祖父には、私が満州事変を研究テーマにしたときに、いろいろな話を聞きに行きました(第3章参照)。ゆっくりと話す静かな人でした。満州事変当時は駐仏大使で、国際連盟理事会の日本代表として交渉にあたり、たいへん苦労をしたようです。

──一九二三年の関東大震災のときに、あいしんかくが紫禁城にあった宝石などを日本に義援金にして渡しているのですが、その相手が当時、中華民国全権公使だった芳澤謙吉氏だったそうです。

 そうですか。何かつながりがあったのでしょう。こういう話を聞いています。辛亥革命のあとも、皇帝一族は紫禁城に暮らしていたのですが、北京政変が起きて(一九二四年)ふうぎょくしょうに溥儀が紫禁城から追い出されるのです。それで、行き場がなくなってしまったときに、溥儀は祖父の元に逃げ込んだのです。イギリスもオランダも受け入れてくれなかったそうで、蒙古風が強く吹く中で、溥儀の一家をお預かりしたという話を聞きました。日本大使公邸は広く、芳澤の娘であった私の母も含む、そのときに撮った家族写真も残っています。その後の満州国のことを考えると、溥儀は外交官や軍人など、日本人といろいろな形でつながっていたのだと思います。

──芳澤氏は中国と深いかかわりがありますね。

 芳澤に限らず、当時の日本の外交官はみんな中国問題に手を焼きました。当時の中国は統一政府があってないようなものでしたし、そこに日本軍が入り込んでいったわけですから。日本も軍部やら外務省やら、それぞれに思惑があって、相手とどのような交渉をするにせよ、大変だったと思います。

 祖父は、戦後、公職追放になりましたが、解除されたあと、講和条約後に台湾の中華民国に大使として赴任しました。それが外交官としては最後の仕事だったと思います。

第1章 子どもの頃(2)

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