地方創生は「熱海」に学べ!
団体観光客などが激減し衰退した熱海はなぜ復活を遂げたのか。ゼロから街の再生に取り組み、テレビなどでも注目を集める著者が明かす
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1章 廃墟のようになった熱海

熱海は五〇年後の日本の姿

 今、日本全国に衰退しつつある街があると思いますが、熱海は、日本の将来を先取りしています。人口減少や高齢化率の上昇など熱海は全国平均よりも五〇年は進んでいます。日本は世界の中で課題先進国と言われますが、熱海は日本の中でも特別に課題が深刻化している〝課題先進地〟なのです。

 東京にも近く立地にも恵まれた、しかも有名な温泉観光地であるにもかかわらず、熱海は課題を多く抱えています。熱海で起こることは、将来、他の地域でも起こることです。

 具体的な数字で見てみましょう。

 まず、人口の減少です。日本全体の人口が減少し始めたのは二〇〇〇年代に入ってからですが、熱海の場合、半世紀前に早くも減少に転じています。

 一九六〇年代の熱海の人口は五万四〇〇〇人とされていますが、実際には住民票を熱海に移さないまま暮らしていた人も多かったと、その頃を知る人たちは言いますから、実人口は七万人あるいは八万人を超えていたかもしれません。

 ところが、熱海の人口は、最初の東京オリンピックの翌年である一九六五年をピークにして、五〇年以上にわたり下がり続けます。そして二〇一五年にはピーク時の三分の二である三万八〇〇〇人に減少してしまいました。

 次に、高齢化率の上昇です。現在、日本全国の高齢化率は二七ですが、熱海は既に四五に達していて、さらに毎年、一ずつ上がり続けているのです。熱海市内でもおそらく最も高齢化率が高いと思われる地域では、高齢化率は何と七〇近くあり、住人の四分の三近くが六五歳以上の高齢者です。

 しかも、世代別の人口の増減を見ると、熱海の場合、四〇代以上は増えているけれど、二〇代や三〇代は減っています。

 高齢者が増えて若年層が減っている理由は、高齢者は熱海に引っ越してくるのに、若年層は熱海から出て行っているからです。

 つまり、通常よりも熱海の高齢化は早く進んでいるということなのです。

 続いて、空き家率です。日本全国の平均では一三ですが、熱海では二四です。熱海の人口は現在、三万八〇〇〇人ほどですが、住宅数も三万八〇〇〇戸ですから、数字だけを見れば、熱海で生まれた瞬間、その赤ん坊は自分専用の家を持てることになります。

 実は、この数字には、熱海市内に多く存在している、リゾートマンションの空き部屋や空き別荘がカウントされていません。別荘に毎週末来るという人は少数派で、何ヶ月も来ないという人が普通になっているようです。中には、物件は所有しているものの一度も来たことがないという人も珍しくはない状況なのです。

 もし、人のいない別荘までカウントすれば、熱海の実質の空き家率は五〇を超えています。これは全国の市で最も高い数字です。

 人口減少、高齢化率、空き家率に加え、生活保護率の高さや出生率の低さ、未婚率の高さ、四〇代の死亡率についても、熱海は静岡県内で一位、二位を争う状況です。

 これを見れば、熱海が日本の課題を先取りしていることがわかるのではないでしょうか。実際、こんな数字を知らない方々でさえ、ほんの一〇年前までは地元の人々は暗い未来が避けられないとあきらめていたほどです。

 しかし、これほどに衰退した熱海にも、繁栄の時代はあったのです。

日本一の温泉地としての全盛期

 かつての熱海は日本を代表する温泉観光地として栄えていました。

 一九六〇年代半ばから七〇年代前半には宿泊客数は五〇〇万人を超えていて、日本一の温泉と自他ともに認める時代がありました。

 そんな繁栄の時代から少し後の、まだお客さんが多かった時代に、私は熱海に生まれています。

 私は一九七九年(昭和五四年)の一月に熱海のももやまという地区で生まれました。

 熱海駅の裏の桃山という地区は企業の保養所や別荘がたくさんあるエリアでした。私の両親が管理人を務めていた銀行の保養所もそこにありました。

 私が小学生の頃はちょうどバブル経済の時期に当たり、日本は好景気に沸いていました。幼い頃の保養所はいつもにぎわっていて、活気があったことを覚えています。多くの宴会があって、団体で来たお客さんたちが麻雀をやっているところでお客さんに遊んでもらい、麻雀を教えてもらった記憶もあります。近隣のほかの別荘や企業保養所も同様で、いつも大勢の人が訪れていたものです。

 熱海の企業保養所にとってあの頃は全盛期でした。熱海は大企業の本社が集中する首都圏から見れば慰安旅行や保養のための場所としてほどよい距離にある格好の温泉地ですし、バブル経済期で企業に余裕のあった頃ですから、保養所が数多く設けられましたし、盛んに利用もされていたのです。

 好景気だったのは桃山だけでなく、熱海の中心エリアも同様で、小さい頃に時々遊びに行ったときには、大勢のお客さんが通りを歩いていましたし、大きな温泉ホテルには団体旅行のお客さんが泊まっていました。

 中心街の熱海銀座通りなども非常な賑わいでした。私が生まれる前の昭和三〇年代、四〇年代は毎週末が歩行者天国で、通りでは人が多すぎて、人と肩がぶつからないように歩くのが難しいほどの混雑だったようです。

 幼かった頃の私の記憶にある熱海は、大勢の観光客が集まる、活気のある街だったのです。

見る見る衰退していった九〇年代

 一九九〇年代に入って私が中学生になった頃、バブル経済が崩壊します。ここから街は急速に衰退していくのです。観光客が激減し、街なかを歩く浴衣姿の人々の姿がまばらになりました。誰の目にも、不景気は明らかでした。

 それでもバブルが崩壊した当初は、まだ中学生だった私はもちろん、多分、熱海の大人たちにも危機感はなかったでしょう。バブル最盛期のような好景気とはいかなくとも、まだ団体客は熱海に来ていたからです。

 そこへ、衰退のとどめを刺したのが、地震でした。

 バブル経済崩壊後の一九九〇年代前半には毎年のように伊豆半島の伊東沖で群発地震が発生します。その影響で熱海から観光客の足が遠のいてしまいました。

 一九九四年の春に私は静岡県立にらやま高校へ進学しますが、その後、群発地震が収まっていたにもかかわらず、熱海に観光客は戻ってこなかったのです。当時の私は、人通りがめっきり減って寂しくなった街の風景を目にするたび、不安を感じていました。

 「熱海がどんどん衰退していく。何とかしないと」

 自分では覚えていないのですが、同級生によると、当時の私はそんなことをしつこいほど毎日のように言っていたようです。

 時代はちょうどバブル崩壊後で、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が起きた頃です。そしてその後、山一證券や北海道拓殖銀行の破綻という日本経済の悪化を印象づけるような出来事がありました。

 今までの社会がガタガタと音を立てて崩れていくような感覚を受けていました。それと同じ時期に、この熱海でも、どこどこの旅館が潰れた、誰々さんが夜逃げした、誰々さんが自殺した、というような話を多く聞くようになり、そして、数年で街が廃墟のようになっていく姿を目の当たりにします。

 街から人が減り活気が失われていく様子を肌で感じるうち、高校生ながらに感じるものがあったのだと思うのです。

保養所が閉鎖

 一九九七年に私は韮山高校を卒業し、当時の東京都立大学、今の首都大学東京へ進学します。高校二年まではろくに勉強もせずに成績は下から数えたほうが早いような状態だったのですが、高三になって物理の世界にのめり込みました。アインシュタインのように一〇〇年後の世界を変える発見がしたい。そんな想いで、将来は物理学者になりたいと考えるようになっていました。物理の成績も急上昇し、おかげで二次試験を物理だけで受験できる都立大学に入ることができました。

 都立大学は東京の八王子にあったのですが、一年生のうちは熱海から通っていました。新幹線通学というわけで、東海道新幹線のこだま号(まれに熱海に停まるひかり号もあり)に乗って新横浜に行き、横浜線に乗り換えて、片道の通学時間が一時間半かかりました。かなり長い通学時間ですが、やはり熱海に愛着があったからです。

 大学に通うようになって気づいたのは、熱海という名前を誰もが知っているという事実です。熱海が何県にあるかわからない人でも熱海という名前は知っている。熱海出身というと、それが話題になるのは正直嬉しかったものです。

 その頃から、自分のアイデンティティの一部としての熱海というものを意識するようになったのではないかと思います。

 新幹線通学はこだまの本数が少なくてやはり不便で、二年生からは大学の近くに下宿します。そんな二年生も終わりが近づき始めた頃、実家に帰った際に、衝撃的なニュースを両親から聞かされることになります。

 私が生まれてこの方、二〇年間暮らしてきた熱海の保養所が閉鎖になるというのです。所有者である銀行が、バブル崩壊後の長い不況に苦しみ、合理化のために閉鎖を決定したからです。

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第1章 廃墟のようになった熱海(2)

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