ギャグvs.劇画 2大マンガ誌の激闘
1959年3月17日に同時創刊された、週刊少年漫画の草分けの両誌。部数や漫画家の確保などをめぐって闘いを繰り広げた時代を、元編集者の証言などから浮き彫りにする。

長者番付にマンガ家が

 終戦から9年、まだ戦争の傷跡が、街のそこかしこに残されていた1954(昭和29)年の2月。前の年に始まったテレビジョン放送を一目見ようと、寒空の下でも人々は街頭テレビの前に群がり、初めて見る力道山の空手チョップに声援を送ったかと思えば、ジョー・ディマジオとの新婚旅行で来日したマリリン・モンローの美しさにため息をついたりしていた。

 その年の3月のこと。サラリーマンの大卒初任給が13千円、年収が20万以下の時代である。関西の長者番付が発表され、画家の部でトップの横山大観に続いて、上位になった奇妙な人物の名に、世間の者はみな首をひねった。

【画家の部 第2位 手塚治虫 年収217万円】

 大人は誰も知らなくても、子どもはみんな知っている。

『リボンの騎士』(「少女クラブ」講談社)や『鉄腕アトム』(「月刊 少年」光文社)をはじめ10本以上の月刊誌の連載を抱える手塚治虫(192889年)は、すでに時代の寵児となりつつあった。

 ほどなく、「週刊朝日」411日号が「知られざる二百万長者、児童マンガ家 手塚治虫」という見出しでこれを大々的に報じた。世の〝良識ある大人〟と称される人々が、マンガ家という職業に注目した最初の例である。だが、その記事の内容といえば、四畳半の木造モルタルアパートに住み、部屋には机と布団のほかにはカーテンすらない、高額納税者とは思えぬ質素な暮らしぶりの手塚を面白おかしく紹介したものだった。豊島区椎名町(現・豊島区南長崎)にあったそのアパートは、大阪出身の手塚が、東京で仕事をする際に仮住まいとしていた場所である。もともと裕福な医者の家系に生まれ、自らも医師免許を持ち、「本業は医者で、副業はマンガ」と公言していた手塚にとって、自分を茶化す「週刊朝日」の記事はプライドを傷つけられるものだったのだろう。手塚は、自分を慕って上京してきた後輩のマンガ家志望の青年2人組に、その部屋を敷金つきで譲り渡し引越すことにした。

 2人組の青年の名は、藤子不二雄。アパートの看板には「トキワ荘」と書かれていた。

 いつの時代も、新参者はされる立場にある。

 当時、子どもたちへのマンガの主要な供給源は、大手出版社から月に1回発行される月刊誌か、貸本屋(今のレンタルビデオ店のようなもので、1955年頃には東京に3000軒、全国では2万軒を数えた)から1210円ほどで借りてくる貸本マンガのどちらかだった。

 マンガの単行本もあったが、こうした本を買えるのは裕福な家庭の子どもに限られ、まだ大半の家庭が貧しかったゆえに、貸本屋で借りて読むのが一般的な子どもの置かれた状況といえた。

 赤本と呼ばれる、正規の出版物の配給ルートを通さずに駄菓子屋や縁日で売られるマンガ本も粗製濫造され、業界はこんとん、カオスの様相を呈していた。そのなかで、手塚治虫は、月刊誌を主戦場に、Gペン一本を武器に、真っ白なマンガの原野を切り拓いてゆく。王道を走り続ける手塚の後を、横山光輝が『鉄人28号』(「月刊 少年」光文社)で猛追していた。

マンガ版「ふんしよ

 ところが、マンガの神様であった手塚の前に、意外な強敵が立ちふさがることになった。各地のPTAや日本子どもを守る会、母の会連合会などによる「悪書追放運動」である。

 説明しよう。

 これは、教育上の観点から、親やPTAが子どもに読ませたくない本を排斥しようとする運動で、教科書とごく一部の純文学作品を除くすべてが、その追放の対象となった。この運動を推進した人々は、悪書を追放することによって、子どもが勉強の邪魔になる本から遠ざかり、真面目で立派な人になると信じていた。

 特に批判の矢面に立たされたのはマンガだった。ほとんどのマンガは、内容に関係なく〝マンガである〟というだけで、悪書のレッテルを貼られた。唯一の例外とされたのは学習マンガだった。「活字と違い、マンガは子どもの思考力を阻害する」、「マンガを読むとバカになる」という俗説が大手を振ってまかり通って行くようになる。

 非難の火の手があがったのは、1955121日。第四回青少年問題全国協議会で「青少年に有害な文化財に対する決議」がおこなわれる。それを受けて、翌22日、時の内閣総理大臣・鳩山一郎が、衆議院本会議の施政方針演説で、以下のような発言をしたのである。

(前略)覚醒剤、不良出版物等のはんらんはまことに嘆かわしき事態でありますが、特にわが国の将来をになうべき青少年に対し悪影響を与えていることは、まことに憂慮すべきことであります。政府としては、広く民間諸団体の協力を得まして、早急にこれが絶滅のため適切有効な対策を講じ、もって明朗な社会の建設にまいしんいたしたいと存ずるのであります。(後略)

 鳩山は不良出版物が具体的に何であるかには言及していない。しかし、この鳩山発言をすぐに新聞が取り上げ、「悪書追放運動」は各地に飛び火し、燃え広がることになってしまう。運動が全国に広がる過程で、抗議行動は次第に過激さを増し、ある小学校ではマンガを校庭で焚書するなどの行為にまでエスカレートしてしまう。実際に火をつけて燃やされた本のなかには、手塚治虫の代表作である『鉄腕アトム』までもが含まれていた。

「俗悪なマンガから子どもたちを守らなければならないっ!」

 と声高に叫ぶ教育ママたちに対し手塚は、

「活字文化が、子どもたちの精神的成長の上で主食としての役割を果たすことは当然としても、子どもたちにはオヤツも必要だ。マンガは、そのオヤツとして認められてもいいのではないか」と反論を繰り返した。

 手塚の反論むなしく、悪書追放運動の勢いはとどまるところを知らず、ついに運動家たちは、図書選定制度や青少年保護育成法案を提唱、実質的な検閲を要求するようにまでなる。さすがにこれには、出版社側が連名で反対声明を出したが、「大手資本の商業主義だ」と運動家たちにいつしゆうされ、火に油を注ぐだけだった。

 このときのマンガ排斥運動は、裏を返せば、マンガと児童文学のせめぎ合いだったと見る識者もいる。その当時、子どもたちの世界におけるマンガの広がり方の、そのあまりのすさまじさに恐怖心を抱いた児童文学者や評論家たちが、出版界における自分たちの領域を侵されないよう、保身のために、図書館と結託して悪書追放運動を仕掛けたのだともいう。真相は定かでない。

 いずれにしても、この悪書追放運動の余波は、十数年にわたって続き、マンガの神様を苦しめ、そして、このあと誕生する週刊少年誌の歴史にも少なからず影を落とすことになる。

 マンガを取り巻く環境がこのような中で、時代は、週刊少年誌の登場のタイミングをうかがっていた。手塚が「マンガ=オヤツ」論を唱えてから3年、日本は、高度経済成長の入り口にさしかかり、子どもたちは好きなマンガの続きを読むのに1か月も待つことにしびれを切らすようになっていた。

 1958(昭和33)年、1万円札が発行されるこの年の4月、巨人軍の大型ルーキー・長島茂雄(現表記は長嶋〈1936~〉)が国鉄(現・東京ヤクルトスワローズ)戦で金田正一投手を相手に、4打席4三振でデビュー。プロ野球の新時代の始まりである。

 5月にはNHKのテレビ契約数が100万を突破。年末には155万までふくれ上がる。翌年に控えた皇太子(現・天皇)のご成婚パレードを見るためで、「遠くのものを見てみたい」という人類の夢が生んだテレビジョンにふさわしい理由である。

 そして1223日、東京タワーが完成する。放送用の電波を一つに集めて発射する333mの巨大な鉄塔は、テレビ時代の到来を告げるかのごとく、そそり立つ。その下を、発売されたばかりの富士重工「スバル360」やホンダの原動機付二輪「スーパーカブ」が走り抜けてゆく。

 一方で映画館の入場者数は、この年の112745万人をピークに急速に落ち込んでゆく。

 関西では、ダイエーのチェーン展開第一歩となる店舗が神戸の三宮にオープン。これを機に増えるスーパーマーケットの店頭には、元祖インスタント食品「日清のチキンラーメン」の袋が山積みされていた。

 世の中のすべての物事が、新しい秩序へ「チェンジ」しようとしていた。

 いよいよ、機は熟した。

 マンガは悪書だと騒がれていたその時から半世紀ほど前、今からさかのぼること100年ちょっと前、明治末期の新聞にこんな記事が載せられていたという。

 近年の子供は、夏目漱石などの小説ばかりを読んで漢文を読まない。これは子供の危機である。

 歴史は繰り返される。文豪の作品もまた、悪書だったのである。

第2章 先陣争い(1)

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