ギャグvs.劇画 2大マンガ誌の激闘
1959年3月17日に同時創刊された、週刊少年漫画の草分けの両誌。部数や漫画家の確保などをめぐって闘いを繰り広げた時代を、元編集者の証言などから浮き彫りにする。

ラジオから火がついた鬼太郎

 いよいよ、こんどこそ水木作品のほんまる「鬼太郎」を人気作品に押し上げなければならない。しかし、水木の人気は読者アンケートで相変わらずビリ争いだった。かつて牧野編集長時代はビリを3回続けてとると、有無をいわさず打ち切りだったが、内田は水木を信じ、黙って連載を継続させた。そんな内田の気持ちを知ってか知らずか、水木は相変わらずマイペースで創作活動を続けていた。当時マガジンの水木しげる担当であった金沢忠博によれば、

「水木先生の所に朝行くと、仕事場から出て行く先生とすれ違うんだ。先生は調布の深大寺の森で妖怪たちとのミーティングがあるから、12時間は帰って来ないわけ(笑)」

 内田は何とかしてテレビと連動した形で『墓場の鬼太郎』を世の中でメジャーにしたいと、東映の渡邊と再三協議を重ねていたが、いかんせん「墓場」というタイトルが毛嫌いされて、スポンサード作業も、テレビ局の枠取りも、一向に進まなかった。

 そんななか、講談社の関連会社であるキングレコードの長田暁二課長と中島彰ディレクターが内田のところへやって来た。少年マガジンに連載しているマンガ家に作詞してもらって1枚のLPレコードを作りたいという。内田はすぐさまOKを出し、その中の1つとして『墓場の鬼太郎』をテーマに水木しげるに作詞を依頼した。そして、水木から上がってきた歌詞を見て、内田もキングレコードの2人も、ブッ飛んだ。

ゲッ ゲッ ゲゲゲのゲ 朝は寝床でグーグーグー

楽しいな 楽しいな お化けにゃ学校も 試験も何にもない

ゲッ ゲッ ゲゲゲのゲ みんなで歌おう ゲゲゲのゲ

 もうこの歌詞だけで水木という人の才能も、鬼太郎の世界観も、すべてが分かるすごい内容だ。作曲は、CMソングの売れっ子、いずみたくに依頼した。いずみたくは、あの有名なCMソング「伊東に行くならハトヤ、電話は4126」を作曲した人物である。

 1967(昭和42)年8月、LP「少年マガジン主題歌集」がキングレコードからリリースされた。早速このレコードに飛びついたのが、ラジオの深夜放送のDJたちだった。

「ゲッ ゲッ ゲゲゲのゲ……」深夜に、怪しくも、愉快なメロディーが響き渡った。替え歌にしても面白いというので、若者たちの間に鬼太郎ソングはたちまち浸透した。鬼太郎の人気はテレビではなく、ラジオから始まったのである。

 ラジオの深夜放送は、しくもマガジン創刊と同じ1959年から始まっていた。「SFマガジン」に続いて、またもマガジンは同い年のメディアに助けられたことになる。

 ラジオから火がついて後は押せ押せムードである。系列のニッポン放送での評判を聞き、フジテレビがさっそくテレビ化にGOサインを出した。ただし、どうしても作品タイトルの「墓場」をやめて欲しいという。マガジン連載作のネーミング変更となれば一大事である。

 内田とキングレコードの長田・中島は、水木と一緒に新タイトルを考えた。ふと長田が、

「歌い出しのゲゲゲのゲ、あれをそのままもらって、『ゲゲゲの鬼太郎』ってのはどうだ?」と言った。この絶妙のネーミング案に皆が乗った。マガジンもこの名前に変えることにした。

 内田の粘りに粘った努力の結果、1968(昭和43)年13日から「ゲゲゲの鬼太郎」は念願のテレビ放送をすることになった。鬼太郎のマガジン初登場から2年半が経っていた。

「テレビ放送の始まる1週間前の暮れの忘年会で、マガジン編集部全員で肩を組んで歌いましたよ。ゲッ ゲッ ゲゲゲのゲ、ってね」(元マガジン・金沢忠博)

〝劇画〟を唱えるさいとう・たかを

 マガジンでは、水木しげるを先頭に、内田の目指す貸本マンガ系〝劇画路線〟戦略が始まった。内田の構想は、大人向けの劇画を揃えることで、マンガを卒業していく人を何とか捕まえてマガジンにつなぎとめておき、読者数を拡大してゆくというものである。

 次なる狙いは、劇画界のゴッドファーザー・さいとう・たかを(1936年~)である。

 さいとうは、みつな画と、綿密なリサーチに基づいたハードボイルドな作風で、すでに大御所の風格を備えていた。ライバル・サンデーの小西湧之助が、「ボーイズライフ」編集長時代にいち早く起用して、007シリーズを描かせていたが、それ以外は大手出版社との接点は少なかった。

 大阪出身のさいとうは、かつて劇画工房という関西を拠点とする作家グループに所属しており、このグループは1959(昭和34)年ごろ、つまりサンデー・マガジンの創刊と同じころ、日本で最初に「劇画」という言葉を使い始めたと言われている。〝我々の描くものは、もはやマンガと呼ぶには相応しくない、新しい表現だ〟というのがその主張である。

 さいとうは、1960年には早くも「さいとう・プロダクション」を設立し、組織による分業体制で作品を作るということをしていた。脚本だけを書く者、背景担当、武器の担当、建物担当、果ては資料写真だけを分類整理する専門家までスタッフに揃えている。さながら映画製作の「○○組」のようである。マガジンの牧野初代編集長が原作付きマンガを提唱したことは既に述べたが、大手出版社の雑誌とは無縁だった、さいとう・プロはそんなアドバイスを受けることもなく、組織力で作品を量産するシステムを独自に開発していたのである。そして、そんな組織を持っている作家は当時国内には(現在ですらも)、さいとう・たかを以外にいなかった。

 初対面のさいとうは、いきなり、大手出版社のストーリー・マンガ(手塚治虫の流れを汲むもの)主流の現状に対して手厳しい意見を述べはじめた。

「第一次マンガ世代が大人になり、青年向けの作品が必要になってきたのに、マンガの供給側は相も変わらず、お子様ランチ的な内容のマンガばかりだ。これでは業界の発展も何もない。今こそ大衆小説と肩を並べるくらいの、大人向けの作品=劇画を指向すべきだ」

 さいとうは、マンガに慣れ親しんだ団塊の世代、日本で一番頭数の多い世代が青年期に入って来るのを捉えれば、ビッグビジネスにできるチャンスだと、まるで狙撃兵のようにたんたんと狙っていたのである。大手出版社は、なかなかその重要性やマーケットの大きさを分かってくれず、一時は自費出版で青年コミック誌の創刊を考えていたことすらあるという。

 期せずして内田の狙う劇画路線といつにしているではないか。内田は、落ち着き払ってただ一言だけ、

「さいとうさん、志を同じくして、ぜひ一緒にやりましょう」

 これには、ネガティブな先入観で面談に臨んださいとうの側が驚いた。

 しかし、さいとうはひるんだ気配も見せずに、内田に難題をふっかけた。

「私には、1つだけ絶対に譲れない条件があります。それを呑んでくれたらお引き受けしましょう」

「何なりとおっしゃって下さい」

「私の作品をマガジンに掲載する時は、マンガではなく、〝劇画〟と明示してくれますか」

「さいとうさんが説かれていることからして、それは当然です」

 後に、さいとうが内田本人に語ったところによれば、出版最大手の講談社の編集長の来訪だ、どんなエリートが来るのかと、最初はかなり身構えて対応したらしい。

 ところが、現れたのがヨレヨレの背広にドタ靴、手には風呂敷包みの童顔の内田である。何を言っても動じない内田に、すっかりペースを崩されてしまったという。内田のトレードマークの風呂敷包みが効果を発揮した好例であった。

 こうしてマガジン陣営は、さいとう・たかをの作品を手中に収めることになった。

殺し屋が主役の劇画

 1966(昭和41)年中のいくつかの短期連載作品を経て、さいとうは翌1967年いよいよ本格的な長期連載をマガジンで開始する。

 さいとうの提案したのは〝リアルな時代劇〟である。タイトルは『無用ノ介』。

 脚本の担当は、若き日の小池一夫(1936年~)。後に、さいとうと共に『ゴルゴ13』の企画をし、更には、さいとう・プロから独立して『子連れ狼』の原作者となる男である。そのほかにも常時78人のスタッフが関わる共同作業でスタートした。

『無用ノ介』の特徴は映画のようなアングル、コマ割りである。それは映画の絵コンテと通じるものがある。さいとう自身、映画監督のようにカメラをのぞいている気持ちで描いているという。ある時などは、全編25ページを、1枚の扉絵に続いて、後をすべて見開き絵12枚だけで表現したことがあった。もちろん、毎週〝劇画〟のクレジットがきちんと付いた。

 しかし、気になるのはサンデー側の対応である。編集長の小西は、初めてメジャー雑誌に、さいとう・たかをの作品を載せた男である。

 だが、ここではライバルの小西は動かなかった。その理由を小西に問うた。

「僕は、あくまでサンデーの編集コンセプトを〔良質な児童マンガ雑誌〕と捉えていたので、そこに必要だと思ったのは、まるっこい線が特徴の赤塚、藤子、横山、手塚といった作品。「ボーイズライフ」で起用したさいとう・たかをは、サンデーの方針〔中学生中心、ギャグコメディ路線〕には合わないので、あえて引き抜くこともしなかった。ただそれだけ」

 と、きっぷのいい答えが返って来た。一方で、いざとなれば、盟友の間柄ゆえ、

「僕と、たかをちゃんの、あ・うんの呼吸で、彼の作風に適したメディアと、時代のタイミングが合えば、いつでも動き出せる自信があった」

 ということになる。

奇妙な企画会議

 内田の採った劇画路線の3つ目は、マガジンお家芸の「原作付きプロデュースシステム」で作品を作り出すことであった。

 内田は、既存の概念を打ち破るために、ライバル誌をいっさい読まないと決めていたが、あくまでもそれは自分の中でのことであり、部員たちは他誌の動静に気を揉むのが常だった。

 たいていマンガ雑誌の編集会議では、今ウケている作品やジャンルをあれこれ批評し、「じゃぁ、うちの雑誌には、この傾向の作品が抜けているから、そのジャンルに強い○○先生に頼んでみようか」式の話になりやすい。結局、誰かの後追い的な発想しか出てこなくなる。

 そこで、内田は、ある大胆な試みを会議に取り入れることにした。

 部員それぞれが、少年時代から現在までの人生で忘れられない思い出を、勝手に語りあうということにしたのである。貧困、病気、いじめ、失恋、スポーツ、あるいは自分に影響を与えてくれた肉親との思い出……会議の場は、まるで同窓会の懐かしトークの様相を呈した。

 1度や2度なら、こうした毛色の変わった会議も〝あり〟だろうが、内田はこんな昔話会議を毎週毎週、延々と続けたのである。見かねた(優秀な!)部下が内田に進言してきた。

「内田さん、いまのところ怪獣ブームで部数は伸びていますが、油断は禁物です。編集会議が毎回ああいったムダ話に費やされているのは我慢なりません。そんな暇があるなら、うちに必要な作品を確保するために、皆でいろんなマンガ家にあたるべきではないでしょうか?」

 内田は、せつ詰った表情の若手をおしとどめて、こう言った。

「会議のやり方には、僕なりに考えているところがある。しばらくこのまま続けて行きたいので、黙って見ていてくれないか。あのような会議から何が生まれてくるのか、正直に言えば、いまは僕にだってわからない。でも、皆の人生を振り返る会話の中から凝縮してくる何かがきっとあると、僕は信じているんだ」

 実はこうした直訴は1人だけでなかった。何人もの部下から危機感のない会議を続けることへの疑問が噴出した。そのたびに、同じようなことを内田は説き続けるのであった。

 やがて、新しいマンガの探るべき方向性が少しずつ見えてきた。読者である少年たちにとって、もっとも身近で大切なものは何か? それは、母であり、父であり、友であり、師であり、恋人であり……人間関係そのものこそが、人生に大事だということが見えて来た。そんな人間関係を基調にしたマンガ作りは、戦前・戦後を通じて一つもないことに気付いた。それまでの少年マンガは、いってしまえば、善対悪という二極構造の図式でしかなく、人生という普遍的なテーマを題材にしたマンガは存在しないではないか。

(このテーマをマンガが扱うことによって、マンガは表現形式として、文学と同じ土俵に立つことができる。今まで散々、活字文化からおとしめられていたマンガの地位を上げるチャンスだ)

 内田はこれこそが目指すべき道だと思った。

第6章 なぐりこみ劇画野郎(4)

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