「農村たたみ」vs.「田園回帰」 日本の選択
地方消滅論が見逃しているものは何か

第Ⅰ章 
農山村の実態──空洞化と消滅可能性

1 進む農山村の空洞化

三つの空洞化

 確かに、農山村では、地域の空洞化が進んでいる。それを、筆者は「人・土地・むらの三つの空洞化」として繰り返し問題提起している(小田切徳美『農山村再生』岩波書店、二〇〇九年)。そのポイントを、改めてまとめてみよう。

① 人の空洞化

 農山村における過疎化は、高度経済成長期に著しく発現した。最初の過疎法は、一九七〇年に「過疎地域対策緊急措置法」として制定されている。「緊急措置」が必要なほど人口減少の勢いは激しかったのである。この現実は当時の文献が雄弁に語っている。例えば、「過疎」という造語が生まれたとされる中国山地では、地元新聞社が人口流出を次のように活写している。

「この一〇年間に村の人口は三、四割も減ったというところが続出している。それまでが過剰人口だといえばそれまでだが、村に残った人たちの質的エネルギーを換算すれば、村の力は一〇分の一にも減ったといってもいい。しかも残った人たちが隣がいつ町に出るやらわからず、いらいらして仕事が手につかないと話すのを聞いた。集落の生活基盤が、用意のないまま土台から変わっているのだ」

(中國新聞社編『中国山地(下)』未来社、一九六八年)

 民俗学者の宮本常一氏もまた、この時期の急激な変化を記録していた。

「とくに耕地もせまく、労働条件のわるい瀬戸内海の島々などの離村者の数は、目ざましいといえる。広島県江田島のごときは、昭和三六年一月から九月までの間に、一三〇〇人が島外に去ったという。一ヶ月に一四五人ずつが、村をすてたことになる」

「青年団の使命感の中には、郷土をよりよいものにしようとする気持ちがつよかった。そして、農村の未来をになってたつ意気込みがあった。そういうものが、急にうすれてしまってきた。都市の発展のほうが目ざましく、自分たちの少々の力で農村の建て直しなど、ありようもないという絶望感がそうさせてきたのである」

(宮本常一『村の若者たち』家の光協会、一九六三年〈復刻版二〇〇四年〉)

 この文献の中で、宮本氏は氏らしく、「それだけに一方では、村にのこる者に対するいたわりとはげましが必要なのである」と地域から出ない少数の若者の苦悩や孤立感に寄り添おうとしている。

 この二つの記録からも直ちに理解できるように、人口移動はあたかも何もかも飲み込む泥流のようなものであり、それに抗することは不可能であった。再び『中国山地』の言葉を借りれば、「ここ一〇〇年の間、基本的にはほとんど変わらなかった農村の生活が、この一〇年間、いっきょに変容の波にのまれた。その波にのまれながら、流れていく方向がわからない」(前掲『中国山地(下)』)という状況にあったのだ。

 しかし、一九七〇年代の低成長期に入り、都市からの吸引力が衰えたことや政策支援によって農山村の生活条件の整備が進んだこともあり、以前の雪崩のような人口流出は沈静化した。ところが、過疎化はその後、さらに第二幕に突入した。人口の社会移動により、人口ピラミッドは大きくいびつ化し、出生者数よりも死亡者数が多い人口自然減社会が始まったのである。制度上の過疎地域に限定しても、そのような変化が生じたのはそう昔のことではなく一九八八年のことである。

 二〇一一年度の数字で見れば、過疎法指定市町村(七七五団体)合計の人口減少数は一三・七万人であるが、その六二%が自然減(出生─死亡)であるのに対して、社会減(転入─転出)は三八%である。現時点では、過疎地域の人口減少は高齢化による人口自然減が全体をリードし、農山村の「人の空洞化」は続いている。

② 土地の空洞化

 このような高度経済成長期の「人の空洞化」は、その後「土地の空洞化」に連鎖する。しかし、それが顕在化するまでにはタイムラグがあり、約二〇年後の一九八〇年代後半以降のことである。

 その要因は複合的であるが、この時期が農山村に残った親世代の農業からのリタイア期に重なったことが重要である。それは次のように説明されよう。一九六〇~七〇年代の人口流出期にも地域に残った当時の中高年齢層は、その後の農業機械化による省力化によって、後継者世代がいなくとも農業を継続できていたのである。それでも、この時期になると、彼らは七〇~八〇歳代となり、さすがに営農は困難となった。

 このため、一九八〇年代の農山村では農地流動化の機運が高まっていたが、同時に、その時には、全般的な高齢化の進行によって地域内で農地を引き受けられる農家が限られていた。しかし、そのような農家もまた後継ぎが他出した高齢農家であり、年齢が少しだけ若いことが耕作を頼まれる理由であった。こうして、受け手の能力を超えた農地が、次々とあふれ出し、結局は新たな引き受け手が見つからぬまま、荒廃化するという現象が発生していたのである。

 筆者は、このプロセスを山口県東部山間地域の実態調査結果により観察していた。農地を借りた高齢者にとって、それは「無理して借りてあげた」のが現実であり、そのため小作料を支払うどころか多くが無料で、かつ「宜しく頼む」と逆に地主が手土産等を持って来るような実態が見られた。しかし、それでもその農地は、借り手には、あたかも「厄介なモノ」のように扱われ、そのため借り手が短期間でコロコロと変わった。農地貸借自体が「流動化」している状況である。そして最終的に、受け手がどうしても見つからない農地が耕作放棄地化していることから、筆者はそれを「流動的農地貸借現象の農地潰廃への転化」として問題提起した(小田切徳美『日本農業の中山間地帯問題』農林統計協会、一九九四年)。これこそ「土地(利用)の空洞化」に他ならない。

 このような状況が次々と明らかにされる中で、農林水産省により新たに発掘された言葉が、実は「中山間地域(地帯)」である。その初出は一九八七年のことである(米価審議会小委員会報告)。日本農業の宿しゅくは、それまでは「担い手過剰」、そして「農地不足」であった。しかしこれらの地域では、今まで経験したことがない「担い手不足」という状況が生まれていた。そうした現象は、過疎化が進んだ山間地域で顕著であった。山間地域とその周辺部(中間地域)では何が起きているのか。政策サイドがこのような問題意識で地域を特定化するために「中山間」が使われ、新たに定義された。この言葉は、元々は「中ぐらいの山間部」という意味で、中国山地の特定の地域を指す言葉(一九六〇年代から見られる)であったのが、この段階で新たな意味に生まれ変わったのである。

③ むらの空洞化

 一九八〇年代後半に顕在化した「土地の空洞化」に加えて、一九九〇年代初頭には、「むらの空洞化」が新たに生じることになる。ここで「村」ではなく「むら」とするのは、行政村ではなく集落(自然村)を表現するためである。

 その「むら」の変化を、社会学者の大野晃氏は次のように明らかにした。舞台は、一九九一年の高知県の山村である。

「集落にこの世帯(独居老人世帯)が滞留し、(中略)そのため社会的共同生活を維持する機能が低下し、構成員の相互交流が乏しくなり各自の生活が私的に閉ざされたタコツボ的生活に陥り、(中略)以上の結果として集落構成員の社会的生活の維持が困難な状態となる。こうしたプロセスを経て、集落の人びとが社会生活を営む限界状況におかれている集落、それが限界集落である」

(大野晃「山村の高齢化と限界集落」『経済』一九九一年七月号)

 フィールドワーカーの目には、集落内の人口規模縮小と高齢化が進み(人の空洞化)、農林地の荒廃(土地の空洞化)に引き続き、集落機能の著しい停滞(むらの空洞化)が確かに捉えられていたのである。「限界集落」という刺激的なネーミングやその定義、さらに一面的なその展望にかかわる氏の認識は批判せざるを得ないが、集落の実態を農林業の態様だけではなく、生活レベルで明らかにした点は、評価されるべきであろう。

空洞化の広がり

 このように、農山村では、人、土地、むらの三つの空洞化が段階的に、そして折り重なるように進んでいる。11は山口県の中山間地域において、やや長期のトレンドでそのプロセスを確認したものである。「人」(農家世帯員数)の空洞化が一九六〇年代より先行し、それ以降は、ほぼ直線的な減少が見られる。その動きを、おおむね一〇~一五年後れて、やはり直線的に追いかける「土地」(経営耕地面積)の動向が見られる。そして、「むら」(農業集落数)は、先行する二つの要素にもかかわらず、一九九〇年まではほぼ不変数であったのが、九〇年からの一〇年間でわずかながらも、遂に減少局面に入っている。

 なお、この「三つの空洞化」をめぐって興味深いことは、その時々で議論された「過疎」「中山間地域」「限界集落」という言葉が、いずれも造語(ないし新たな意味で使われた言葉)だということである。ジャーナリスト、研究者そして行政は、その新しい現象(「過疎」「限界集落」)やそれが集中的に現れた場所(「中山間地域」)について問題提起するために、新たな言葉をつくらざるを得なかったのであろう。

 そして、この「過疎」という造語が生まれたのは、一九六〇年代前半の島根県石見地方、つまり中国山地の真ん中であったと言われている。これらの現象はそこを起点として始まり、他の地域に急速に広がっていった。その点は、11で確認できる。それは、地域ブロック別・地域類型別の農地面積減少率を示したものであるが(資料の制約で一九九〇年以降二〇〇五年までに限定)、表中で重要な意味があるのが、網掛けをした部分である。これは、農家戸数減少率と農地面積減少率を比較して、後者が前者を上回る状況を示している。別の言葉で言えば、一戸当たりの平均農地面積が減少しつつある地域である。つまり、「土地の空洞化」が激しいために、地域全体として農家の農業経営規模の縮小が進んでいることを意味している。

 一九九〇年代前半では、このような地域は、まず西日本の中国、四国の山間部に出現している。しかし、表中の四二地域(一四地域ブロック×三地域類型区分)の中で網掛けの地域はわずかに八地域に過ぎず、例外としてよい状況であった。それが九〇年代後半には、主に東日本に飛び火して、そして二〇〇〇~〇五年になると、ここにおける広がりは爆発的と言ってよい。二四地域と全体の過半に至っており、むしろ、それに該当しない地域のほうが少数派になっている。

 以上で明らかなように、地域全体としての農家の平均規模縮小という厳しい状況は、主に西日本山間地域から始まり、それが平坦部に広がり(空洞化の里下り現象)、また東日本に広がる(空洞化の東進現象)という二つのベクトルにより進行している。その結果、今や日本列島の北東部を除いたほぼすべての地域が覆い尽くされ、この間、「日本列島の中国山地化」とも言える現象が発現し続けている。

第Ⅰ章 農山村の実態―――空洞化と消滅可能性(2)

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