歴史的判決で辿る、最高裁長官列伝
最高裁は違憲審査権を適切に行使してきたのか? 司法の存在意義を問い直す
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1章 政治からの「逃避」

19471969──政治に踏み込まず、の〝家訓〟を宣言

1)「長官不在」の3か月

焼け野原からの出発

 最高裁は、戦後まもない194784日に「発足」した。

 東京は空襲による焼け野原で、最高裁の建物もレンガの外壁を残してほぼ焼失していた。皇居で長官の親任式と判事の認証式が行われたあと、初めての会合が皇居にあるすうみついん(明治憲法下で重要な国務を審議した天皇の最高もん機関)の旧建物で開かれた。ここに最高裁の仮庁舎が置かれることになったからである。

 なぜ、真夏の8月に「発足」したのか。

 日本国憲法は、その年の53日に施行(法令の効力を発生させること)された。第76条以下の「司法」の章で最高裁などについて定められ、裁判所法も施行されていた。

 しかし、法律はできたものの、現実には3か月間、長官や判事などはいなかったのである。

決まっていた裁判官候補

 実は、憲法施行に間に合うよう準備は進んでいた。

 19474月に設けられた裁判官任命諮問委員会が同月23日、最高裁判事の候補30人(うち3人は長官候補)を時の吉田茂首相に答申していた。だが、日本国憲法の施行を控え、GHQの指令によって衆議院が解散され、425日に総選挙が予定されていたことから、投票前日、マッカーサーが「最高裁判事は総選挙後の新内閣によって任命されるべきである」と吉田首相に指示してきた。吉田は、この指示に従って任命を見送った。

 総選挙の結果、社会党(現・社民党)が第一党になり、片山てつ内閣が発足した。そして、片山内閣は、吉田内閣での人選を白紙に戻し、新たな裁判官任命諮問委員会を設けた。この委員会では、各委員が選んだ裁判官候補139人の中から、投票で30人にしぼり、728日に答申した。これを受け、内閣は、4日後の81日に15人の顔ぶれを内定したのである。

 最高裁のホームページには、53日の憲法施行と同時に最高裁が発足した、との説明がある。しかし、「発足」とは組織などがつくられて活動を始めることをいう。最高裁の発足は、やはり84日とするべきだろう。

2)理想を高くかかげた

初代 ぶちただひこ長官 194784195032在任

長官はどう選ばれたか

 片山内閣は、答申された人の中から、初めての最高裁長官と最高裁判事計15人を選んだ(最高裁判事の人数は、憲法に規定がなく、裁判所法で14人と定められた)。その出身別の内訳は、裁判官7人、弁護士5人、裁判官・検察官1人、外交官1人、大学教授1人となっている(『憲法判例百選』の裁判官一覧表による)。

 初代の長官には、三淵忠彦が指名された。

 三淵は、就任時に67歳で、初めての最高裁裁判官の中では最高齢だった。

 京都帝大を卒業したあと、裁判官になり、大審院などで主に民事畑をあゆんだ。45歳で退官し、三井信託の法律顧問に就く。慶應義塾大学などの講師も兼ね、信託法や民法を教えたが、60歳で三井信託の顧問を辞め、自適の生活を送っていた。公平無私で、裁判官としての信望も厚い、と評された。マルクス主義に比較的理解があり、思想的にリベラルな人とみられていた。首相になる前、弁護士をしていた片山と面識があり、定期的に会っていたという。

 また、三淵長官誕生には、裁判官任命諮問委員会の委員だった松平恒雄・参議院議長の存在が大きかったと言われている。松平の父は、最後の京都守護職で会津藩主の松平かたもりである。三淵の父は会津藩士でしん戦争にも従軍し、叔父は会津藩の家老だった。こうしたことから、松平恒雄の強い推薦があったのではないか、というのである。

急転直下の指名

 とはいえ、三淵が初めから最高裁長官になると決まっていたわけではない。

 3か月あまり前には、当時の吉田首相に対し、金森徳次郎・国務大臣、木村とくろう・司法大臣(現・法務大臣)、霜山精一・前大審院長の3人が答申されていた。このうち、憲法改正の議会審議で政府答弁をした金森が最も有力とみられていた。だが、GHQの指示で任命が先送りされ、総選挙後の新内閣によって白紙に戻された。そして、一般にはほとんど知られていなかった三淵が急転直下で決まったのである。

 長官内定を報じる新聞は、三淵について、東京・渋谷で戦災にって神奈川・小田原に移り、〝晴耕雨読〟の生活と伝えている。肩書を元大審院判事としながらも、「学識経験者」枠で最高裁裁判官に選ばれたとし、長年、大学で講師をしただけに、「裁判官というよりは先生といった感じ」と紹介している(朝日新聞194782日付)。

長官から「国民諸君への挨拶」

 三淵長官は84日、親任式のあと、記者団に抱負を語った。

「最高裁判所は、従来の事件を取り扱うほかに、国会、政府の法律、命令、処分が憲法に違反した場合には、断固としてその憲法違反たることを宣言して、いわゆる憲法の番人たる役目を尽くさねばならない」

「国民諸君への挨拶」と題し、持論を説いた。

「裁判所は、真実に国民の裁判所になりきらねばならぬ。国民各自が、裁判所は国民の裁判所であると信じて、裁判所を信用し、信頼するのでなければ、裁判所の使命の達成は到底望み得ないのであります。……裁判官たるものは、法律の一隅にうずくまっていてはならず、眼界を広くし、視野を遠くし、政治のあり方、社会の動き、世態の変遷、人心の向き様に、深甚の注意を払って、これに応ずるだけの識見、力量を養わねばなりませぬ」

 高い理想をかかげた発言だった。

 だが、戦後まもなくの厳しい世相を反映するかのように、空襲で家を焼かれた三淵長官のモーニングは、借り物だった(山本祐司『最高裁物語』)。

「三淵コート」の憲法判断

 本書では、各長官の時代を「○○コート(法廷)」と呼ぶことにする。三淵長官の時代ならば、「三淵コート」となる。

 これは、アメリカ連邦最高裁で、首席裁判官の名前をつけて呼ぶことにならったものである。近時では、「ウォーレン・コート」がよく知られている。

 日本では、最高裁長官の在職期間が短く、憲法裁判に特色ある傾向が認められない、などとして、この区分方式を適当でない、とする見解(たとえば、戸松秀典『憲法訴訟』)もある。だが、長官によっては、はっきりとした特徴がみられることから、適宜、この区分を取り入れることにしたい。

 ただし、「三淵コート」には、特に記されるべき憲法判断はあまりない。在任は2年半ほど(最高裁の裁判官は長官をふくめ「70歳定年」が法律で定められている)だったが、発足直後ということもあり、最高裁で審理された事件がきわめて少なかったためである。

 その中で、刑事訴訟において適用違憲の判決を下したことが目につく。

 19487月の大法廷判決は、単純な窃盗事件で身柄拘束の必要性が低いのに、被告人を109日間拘禁したことは「不当に長いこうきん」にあたる、と認定したうえで、〈不当に長い拘禁後の自白を証拠とすることは憲法382項が禁じている。したがって、本件で不当に長い拘禁後の自白を証拠とした原判決などは同条項に違反している〉と断じた(最大判1948719日)。

 また、死刑が憲法36条で禁止された「残虐な刑罰」にあたるかどうかが争われた事件で、〈死刑は違憲ではない〉とした初判断も注目される。

 483月の大法廷判決では、「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い」としながらも、〈憲法31条には、法律の定める適理の手続によって、生命を奪う刑罰を科せられることが明定されている。憲法は、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したと解すべきである〉と述べた。そして、〈刑罰としての死刑そのものが、直ちに憲法36条の残虐な刑罰に該当するとは考えられない〉と結論づけたのである(最大判1948312日)。

 三淵コートでは、「公共の福祉」を重視する立場を明確にし、これが次第に最高裁判例の基調になっていったとされている。

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第1章 政治からの「逃避」 1947~1969――政治に踏み込まず、の〝家訓〟を宣言(2)

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