戦後、最大の政治的争点は、憲法改正であった
戦後、最大の政治的争点は、憲法改正であった。その実現可能性が高かったわけではない。憲法改正のためには、衆参両院の三分の二の多数による発議と、国民投票による過半数の賛成が必要であるが、衆参両院による発議は行われたことも、試みられたこともない――

若き日の中曽根康弘

憲法改正論の構造

北岡伸一(国際協力機構理事長)

はじめに

 戦後、最大の政治的争点は、憲法改正であった。その実現可能性が高かったわけではない。憲法改正のためには、衆参両院の三分の二の多数による発議と、国民投票による過半数の賛成が必要であるが、衆参両院による発議は行われたことも、試みられたこともない。一党または複数の連立政党が、両院において三分の二を占めたこともない。そもそも、国民投票に関する手続きが定められたのは、二〇〇七年のことである。それまでは、憲法制定から六一年間、憲法改正の基本的な手続きさえ、準備されていなかったのである。

 しかしながら、戦後政治の背景にあって、憲法改正論は常に政治を切り裂く最大の争点であった。そして憲法改正論議において、中心的位置を占め続けたのは中曽根康弘であった。一九四七年四月、戦後第二回衆議院総選挙に二八歳で初当選して以来、二〇〇三年一〇月、八五歳で衆議院議員を引退するまで五六年あまり、またそれ以後も世界平和研究所会長などの地位からの言論活動によって、中曽根は憲法改正論の中心人物であった(2)。

 ところが、中曽根の憲法改正論の内容については、必ずしも十分知られてはこなかった。なぜ憲法改正が必要なのか、どこを、どのように改正すべきだと言うのか、改正論者の中には多くの議論があったにもかかわらず、その一中心たる中曽根の憲法改正論の特質が論じられてこなかったのは、奇妙なことである。若宮啓文(当時、朝日新聞政治部長)は、自民党内の改憲派と護憲派を代表する存在として、中曽根と宮沢喜一の対談を企画し、司会したが、対談も終わりにさしかかったころ、「話をうかがっていると、中曽根さんはやはり単なる民族主義者でもないし、戦前回帰派とも違うようで……」と述べている(3)。護憲派の若宮が、中曽根について、漠然と復古反動、戦前回帰型のイメージを持っていたところ、現実にはそうでないことを知り、当惑している様子が見て取れる。

 以上のような問題関心から、本稿は、中曽根の憲法改正論の特質を、その成立過程に即して解明することを目的とする。またそれによって、日本の憲法論議について、ある程度光を当てることができるのではないかと考えている。

 ところで、政治家の主張は、必ずしも一貫したものではない。内外の政治情勢に応じて、また政治家自身の政治的な位置や政治的利害によって、政治家の主張は変化することがむしろ常である。中曽根において、一貫した主張が見出せるかどうか、疑問に感じる読者もあるかもしれない。風見鶏というニックネームがあった中曽根において、そのような首尾一貫性があるのだろうか。

 しかし、以下に述べるように、中曽根康弘の場合、長い政治人生において憲法改正を主張し続けたのみならず、改正論の内容においても、驚くほど一貫している。ただ一つ、首相公選論が前面に出たときと、そうでない時があったが、中曽根の経歴の長さと時代背景の変化を考えれば、やはり驚くべき一貫性だと言ってよい。しかも、若宮の予想と異なって、国民主権、象徴天皇、基本的人権、平和主義、国際協調など、いわば進歩的、前向きの思想において、中曽根は完全に一貫しているのである。筆者自身、最近まで、中曽根の膨大な憲法改正論を、時系列にそって真剣に検討したことはなかった。今回そのような作業に従事してもっとも驚いたのは、その一貫性と前向き(ないし非復古的)な性格である。

 中曽根が最初に本格的な憲法改正論を著したのは、『自主憲法の基本的性格─憲法擁護論の誤りを衝く』(一九五五年九月一〇日)においてである。

 一九四七年の初当選以来(それはまた憲法が発布された年でもあった)、一九五四年一二月、鳩山内閣の成立まで、中曽根は保守の中の野党であり、吉田茂と憲法に対する批判の急先鋒であった。一九五一年秋の国会においては、中曽根は講和条約には賛成したが、安保条約の採決には欠席して、批判の姿勢を明らかにした。党の方針に反して独自の行動をとったのである。

 一九五四年一二月、鳩山内閣の成立によって、中曽根は政権党の一員となった。そして一九五五年一一月、保守合同によって自由民主党が成立するが、その際の綱領に自主憲法の制定が盛り込まれた。この保守合同を前に、民主党の中で作られたのが、さきに述べた『自主憲法の基本的性格』であった。このようにして、中曽根は自由民主党の中に、その憲法改正論を持ち込もうとしたのである。

 中曽根はその後、一九五六年、鳩山後の自民党総裁選挙において、河野派の同僚と袂をわかって、石橋湛山を推した。中曽根にとって、岸はやはり戦前派の回帰と思われた。その後、石橋の病気で岸が政権をとると、中曽根はやや岸の政治を理解するようになり、また閣内に地位を得て(一九五九年、科学技術庁長官)、政権に影響を及ぼす位置についた。

 一九六〇年、日米安保条約改定をめぐる混乱の中で、中曽根は内閣の一員として改定を支持した。しかし五月の段階において、早くもアイゼンハウアー大統領の訪日延期を主張し、また自衛隊出動には反対して岸首相と一線を画した。

 その後、岸から池田への政権交代とともに、自民党政権は安定した。そのかわり、結党の理念であった自主憲法制定は、後景に退いていった。自民党は安定を得る代わりに自主憲法制定の主張を封印することになった。憲法制定の主唱者の一人であった中曽根は、自民党内に一定の地歩を確保したものの、その憲法制定論は、しばらく表に出せなくなっていった。そのころから、中曽根は首相公選論を前面に押し出すようになる。五五年から六〇年にかけて、中曽根の憲法論もかなりの変化を示したのである。

 筆者はかつて、戦後政治について、一九五五年の左右社会党合同と保守合同を画期とするよりも、一九六〇年の安保改定を画期とする方が適切ではないかとして、五五年体制論にかえて六〇年体制論を提起したことがある。すなわち、一九五〇年代までは、自社両党は憲法改正、安保改正というハイ・ポリティクスを争点として、政権獲得を目指して本気で競争していたのに比べ、一九六〇年からは、両党が憲法安保を棚上げにし、経済的争点に傾斜し、野党も真剣に政権奪取を考えなくなったからである(4)。中曽根が自民党の中で一定の位置を占め、その憲法改正論の重点を変えていったことも、筆者の論点からしてもまことに興味深い。

 以下、本稿では、まず、中曽根が五五年に『自主憲法の基本的性格』を執筆するまで、いかにしてその憲法改正論を形成していったかを検討する。次いで、この『自主憲法の基本的性格』の内容を考察する。最後に、その後の推移について検討する。

Photo/Getty Images

政治家になるまで

生い立ちと教育

 中曽根は一九一八年(大正七年)五月、群馬県高崎市の材木商の家に生まれ、高崎尋常小学校を卒業し、一九三一年、高崎中学校に入学した。そして同中学校を通常より一年早い四年修了で卒業し、一九三五年、静岡高等学校に入った。もう一年在学して第一高等学校を受験することも可能だったろうが、そうはしなかった。静岡では文科丙類(フランス語)であった。その後、一九三八年、東京帝国大学法学部に入学し、一九四〇年、高等文官試験に八番で合格し、一九四一年に東京帝国大学を卒業して、内務省に入った。

 当時の典型的な官僚コースは、第一高等学校で文乙(ドイツ語)に行くことであったから、中曽根のコースはややリベラルであった。生家が材木商であったことにも、官僚色がやや薄かったことが窺われる。四年で高等学校に進んだことも、また進取の気性の現れのように思われる。

 ちなみに同じ高崎の福田赳夫の場合、一九〇五年の早生まれで、中曽根より一三歳年長であり、第一高等学校卒、東京帝国大学法学部卒、大蔵省に入った。父は地元の名士であり、小学校時代は神童と言われ、高等文官試験は一番だった。入省後まもなくイギリス大使館に勤務し、津島寿一財務官の補佐官をつとめた。戦争中は陸軍の予算を担当したり、汪精衛の国民政府の財政顧問を務めたりしている。

 福田は、一九二〇年代の国際協調と相対的安定の時期を知っていた。また戦争中には、陸軍をコントロールする立場にもいた。要するに財政の専門家としていかなる状況でも必要とされる、典型的なエリート官僚だった。

 さて、中曽根が大学で傾倒したのは矢部貞治の政治学だった。矢部はイギリス留学から帰国したのが一九三七年五月であった。おそらくその翌年、中曽根は矢部の講義を聞き、「留学から帰朝された直後で、新進の教授として、颯爽として政治学を講じられた」と回想している(5)。

 中曽根と矢部との交際は、戦後に深まったように思われるが、戦前にも、全体主義と共産主義を排し、英米流の自由主義とも異なって、日本型の政治と近代政治学を融合させた矢部の政治学に、中曽根は魅力を感じていた。日本はゲゼルシャフトではなく、ゲマインシャフトの性格が強いと、中曽根は後年に至るまで繰り返し主張しているが、これは矢部が強調したところであった。

 なお矢部は、近衛文麿からアプローチを受け、とくに一九四〇年頃から近衛のブレインとして活躍したが、最初から近衛の中国政策に近かったわけではない。

 留学から帰った新進の学者として、中国の視察に誘われた矢部は、むしろ政府のやり方に強い違和感を覚えていた。一九三七年一二月、北支の視察に行ったときには、「民族としての支那を否定し、文化道徳を弱めて、如何にして支那人の魂を掴み得ようぞ。魂を掴まずして如何にして東亜永久の平和が可能であろうぞ」と記し、中国のナショナリズムを尊重しない自民族中心主義を厳しく批判している。そして、同じ旅行中に石原莞爾と会い、石原が北支事変、南京攻略を痛罵するのを聞き、「異常な感銘」を受けたと述べている。そこから矢部は、自ら政治に接近して問題解決に乗り出そうとすることになったのである(6)。

 大学では、その他に、神川彦松の外交史や岡義武のヨーロッパ政治史に惹かれた。国家の興亡、民族の興亡に、中曽根は関心を持ったらしい。他方で、安井郁の国際法に反感を持ち、これと近い「東亜共同体論」に対しては、日本が侵略をしているのに共同体とは何だ、という感じを持っていたという(7)。

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