そこにしかない風景が語りかけてくるかのような瞬間がある
「空間」こそ、日本の思想を生んでいた――。もう一つの「歴史」が眼前に!

装丁 國枝 達也

地図 オフィス・ストラーダ

写真 編集部

第一景 「岬」とファミリー

 東京からとうかいどうしんかんせんに乗るときには、なるべく右側の席に座るようにしている。さんもさることながら、はままつを過ぎてしばらくすると、えんしゆうなだとつながる汽水湖であるはま湖の広々とした風景が見えるからだ。晴れていると湖面が青々と光っている。並行する東海道本線のまいさかあらまち間でも、同じような風景が眺められる。

 実はもう一つ、浜名湖を眺められる線がある。東海道本線のかけがわしんじよはらを結ぶ第三セクター、てんりゆう浜名湖鉄道天竜浜名湖線(略称てんはま線)である。

 この線はもともと国鉄ふたまた線といい、東海道本線の浜名湖付近が戦争中に敵の攻撃により不通になった場合のバイパス線として建設された。ところが赤字が膨らんで国鉄末期に廃止が承認され、一九八七(昭和六十二)年三月に第三セクターに転換した。

 この年の秋、私は初めて掛川から天浜線に乗った。一両編成のレールバスのようなディーゼルカーであった。いつ浜名湖が見えるのかと車窓に目を凝らしていたが、なかなか現れなかった。ほそちよう(現・浜松市北区)の中心駅であるを出て次の西にし気賀が近づいてきたあたりで、ようやく左手の視界が開け、水のかたまりをとらえることができた。そのときの感動はいまでも忘れがたい。

 ここは『まんようしゆう』で「とおつおうみいな細江のみおつくし我れを頼めてあさましものを」(作者未詳)と詠まれた引佐細江と呼ばれる浜名湖の奥で、湖というよりはむしろ入江のようになっており、漁村の空気が漂っていた。東海道新幹線や東海道本線から見える浜名湖とは印象が異なっていた。

 だがこのときは、西気賀駅のすぐ近くに、湖に突き出た小さな半島があることに気づかなかった。ましてやこの半島が、地元の人々から「プリンス岬」と呼ばれていることなど、当時は知るよしもなかった。

 プリンスは皇太子を意味する。現上皇あきひとが皇太子時代に当たる一九六八(昭和四十三)年から七八年にかけて、皇太子妃(現上皇后)や子供たちひろのみやなるひと〔現天皇〕、あやのみやふみひと〔現あきしののみや〕の両親王、のりのみやさや内親王〔現くろ清子〕)、そして時には実姉で夫を亡くしたたかつかさかずとともに八回も夏に数日滞在し、水泳、和船乗り、定置網漁、ホタル狩り、七夕飾り、花火などを楽しんだ会社の保養所があることから、いつしかこう呼ばれるようになったという。

 なぜ皇太子は、戦後の一時期にこのひなびた湖の岬で妃や育ち盛りの子供たちとともに過ごすことを好んだのか。その謎を解くことは、単にミッチーブーム以降の皇室の歩みを検証するだけでなく、戦後日本の社会や家族のあり方を検証することにもつながるのである。

 大日本帝国憲法の制定に際して、とうひろぶみ(一八四一~一九〇九)は「我国ニ在テ機軸トスヘキハ、独リ皇室アルノミ」と述べた。皇室は国家秩序の中核であるばかりか、精神的機軸でもあるとされたのだ(丸山真男『日本の思想』、岩波新書、一九六一年)。大日本帝国憲法で天皇は「統治権のそうらん者」とされ、「万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」とされた。伊藤に言わせれば、天皇とは国家と完全に一体化した「公」なる存在であり、「私」は原理的にあり得ないことになる。

 確かに明治天皇むつひと。一八五二~一九一二)は、一九一二(明治四十五)年七月十九日に突然倒れるまで、「公」として振る舞おうとした。一八七三年八月、はこみやしたに滞在したのを唯一の例外として、私的な理由で休むことがなかったことからも、それはうかがえる。明治天皇にとっての私的空間は、一般国民が目にすることのない宮殿内の御内儀(オク)だけであった。そこには天皇のほかに一人の正室(皇后はるが住んでいたほか、御内儀とつながるつぼねには側室を含む多くの女官が住んでおり、子供たちは同居していなかった。

 ところが、大正天皇よしひと。一八七九~一九二六)の場合は違った。嘉仁は生まれたときから病弱で、何とか成長して皇太子にはなったものの体調は回復しなかったため、明治中期から栃木県のにつこう、神奈川県のやま、静岡県のぬまなどに御用邸が建てられた。これらの御用邸は、皇太子の静養を第一の目的としていた。

 このため嘉仁は、明治天皇とは異なり、皇太子時代から毎年夏や冬に御用邸にしばしば滞在する生活を送るようになる。一九〇〇(明治三十三)年に結婚してからは、同年夏に新婚旅行を兼ねて日光ざわ御用邸に滞在したのをはじめ、皇太子妃さだ(後のていめい皇后。一八八四~一九五一)と一緒に御用邸に滞在することが多くなる。嘉仁は天皇になってからも、こうした生活を変えようとはしなかった。

 大正期の天皇は、皇后とともに夏は日光や葉山、冬は葉山に滞在した。宮内公文書館所蔵の「大正天皇実録」によると、御用邸に滞在中も首相や閣僚らと面会する一方、日光では乗馬を、葉山ではヨットを楽しんでいる。この点では確かに御用邸が私的な空間になったのだ。だがやはり皇室のしきたりに従って子供たちとは別居しており、年齢の離れたすみのみやたかひとかさのみや。一九一五~二〇一六)を除くみちのみやひろひと(昭和天皇。一九〇一~八九)あつのみややすひとちちぶのみや。一九〇二~五三)てるのみやのぶひとたかまつのみや。一九〇五~八七)の三人の親王が、御用邸で一緒に過ごすことはなかった。

 一九一四(大正三)年八月、日本は第一次世界大戦に参戦し、ドイツに宣戦布告した。同年十一月には早くもチンタオが陥落したのを見届けた天皇は、一五年一月十二日から葉山御用邸に滞在する。皇后も一月二十二日に葉山に移り、三月十九日まで天皇とともに滞在するが、宮内公文書館所蔵の「貞明皇后実録」によると、この間に戦地から帰還した軍人が戦況の報告に訪れ、天皇ではなく皇后に面会している。

 昭和天皇もまた御用邸に滞在しながら首相や閣僚らに面会したのに加えて、戦中期には葉山や日光田母沢の御用邸で戦地から帰還した軍人に会って戦況を聴取したり、首相や参謀総長らの奏上を受けたりしている。それだけではない。日本国憲法のもとで「国民統合の象徴」へと変わった戦後も、首相や閣僚らが御用邸に赴いて内奏をしたり、御用邸で天皇が会見を開いたりしていたことが、東京書籍から刊行された『昭和天皇実録』から読み取れるのだ。この点で御用邸は、皇居と同じ性格を一貫して兼ね備えていた。

 昭和天皇は一九二四(大正十三)年ににのみやながこうじゆん皇后。一九〇三~二〇〇〇)と結婚している。二人の間には二人の親王と五人の内親王(うち一人は早世)が生まれたが、やはり子供たちと本格的に同居することはなかった。

 正確に言えば、第一子に当たるてるのみやしげ内親王(一九二五~六一)は女子学習院に入学するまで両親と同居していた。だが貞明皇后や高松宮から、手元で育てたから甘やかしたと激しく批判されたこともあり、一九三三(昭和八)年に生まれたつぐのみや明仁(現上皇)を含め、幼少期を除いて再び別居になった。しかも戦争末期から敗戦直後にかけての時期には、継宮明仁とよしのみやまさひと常陸ひたちのみやの両親王が日光に、三人の内親王が日光に近い栃木県のしおばらに疎開するなど、子供たちもバラバラになった。

 皇太子明仁は敗戦直後に奥日光のもと温泉から帰京してからも、しばらく東京都下のがねぐうしよ(現・江戸東京たてもの園)に住んでいた。戦後も天皇は皇后とのみ栃木県のや葉山の御用邸に滞在したのであり、たとえ御用邸に子供たちがやって来ることはあっても、一緒に滞在することはなかった。御用邸というのは、夫婦が過ごす場所ではあっても、家族が過ごす場所ではなかったのである。

第一景 「岬」とファミリー(2)

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