どうして過疎の町は世界の憧れになったのか?
過疎の町が世界の憧れの的に!「どこに行っても同じ風景」にならないためにイタリアの小さな町が取り組んできたこと。
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*世界が憧れる豊かな田舎は、かつて過疎に喘いでいた

 私が大学を卒業し、雑誌の取材などで生計を立て始めた90年代、日本の雑誌は、これでもかというほどトスカーナ特集に明け暮れた。フィレンツェやシエナという珠玉の宝石を支えた豊かな田舎としてのトスカーナ州。

 これに先駆けて、文化の香り漂う美しい田舎、トスカーナを印象づけたのは、たとえば、亡命ロシア人、A・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』(83年)やJ・アイヴォリー監督のイギリス映画『眺めのいい部屋』(86年)といったスクリーンの世界だった。

 また、ロケ地の美しい田園風景は、新しい心の旅を予感させた。

 それらにかれて足しげく通ったトスカーナの田舎町は、どこをとっても期待を裏切ることはなかった。あちらこちらに残る歴史の断片は、どんな小さなかけさえ、この上なく大切にされ、どんなへんな場所にも地元の素材を使ったおいしい店があった。素朴な農家民宿があり、修道院や貴族の邸宅を活かした贅沢なホテルがあった。広場のベンチやバールにたむろする老人たちも、満足げに見えた。

 どんな小さな町にも、地元の誇りと郷土愛を感じた。誰もが地元の美しさをたたえ、教会や名物料理の自慢は尽きることがなかった。

 それは、ソクラテスやアリストテレスが、大きくなり過ぎないことを願った国家、ポリスの伝統を受け継ぐ感性であり、19世紀末まで都市国家の集合体だったイタリアの自治力のたまものだと考えていた。そしてイタリアの田舎は、日本のような劇的な過疎化などついぞ経験することもなかったかのように錯覚していた。

 ところが、それはとんだ思い違いだった。

 2008年の夏、トスカーナ州グレーヴェ・イン・キアンティの元町長、パオロ・サトゥルニーニは、こう言った。

「今や、世界中から観光客がやってくるトスカーナ州の田舎も、5070年代には劇的な過疎化にあえいでいたんだ」

 グレーヴェ・イン・キアンティは、三角形の美しいマテオッティ広場で知られるキアンティ地方の小さな町だ。広場の回廊には、食堂や個人店やホテルが並んでいる。

 その中の一軒のバールで、パオロは熱心に話し始めた。彼はその苦しい時代を、身をもって経験していた。

「僕は農家の次男坊でね。ちょうどグレーヴェとパンツァーノの間に実家があった。60年代の子供の楽しみといえば、休日に町でアイスクリームを買ってもらうか、数カ月に一度、映画に連れていってもらうくらいだった。その頃は観光客なんて、ぜんぜんいなかった。今もよく覚えているけど、5歳くらいの私と祖母がよくやった日曜日の遊びは、国道をフィレンツェへ行く車と、シエナへ向かう車の数を競うことだった。ところが、1時間ずっと見守っていても車はせいぜい56台しか通らない。私は退屈で死にそうだし、祖母もうとうとし始める。その遊びも日曜だから成立するが、平日では無理だった。そのくらい人が来なかった。この辺は80年代まで、ちっとも観光地なんかじゃなかった。当時は田舎に遊びに行くという発想さえなかったんだよ」

 耳を疑うとはこのことだ。現在のトスカーナからは想像もつかない。

「昔はトスカーナ人も、ここが何もない田舎だと思っていたんですか?」

 確認せずにいられなかった。

 パオロはきっぱりと答えた。

「ああ、そうだ。何もない、世界から忘れられていくばかりの田舎、そう感じていた。フィレンツェやシエナは芸術品もある古都だ。常に観光客もいた。しかし、キアンティ地方は、その頃、砂漠地帯なんて言われていた。美術品もない、娯楽もない、海もない、おまけに高速道路も通らない」

 まるで日本の田舎ではないか。年寄りばかりで、若者たちが残らない、仕事がない、病院がない、映画館がない、新幹線も通らない。

 これはごとではないと、私は身を乗り出した。

*トスカーナを変えたものとは?

 冷静になってみれば、イタリアに過疎化がなかったなどと考える方に無理があった。イタリアは、日本と同じように第二次世界大戦の敗戦国だ。しばらく食料不足の苦しい時代が続き、50年代からは日本と同様に工業化社会への転換が起こる。

 遅れているというレッテルを貼られた南部の沿岸部を中心に、大がかりな工業地帯が次々と出現する。都市化も進み、トリノ、ミラノ、ジェノヴァ、ローマ、フィレンツェといった主要都市に、農村の人口は吸い込まれていく。トスカーナの田舎も例外ではなかった。50年代、約15000人だったグレーヴェ・イン・キアンティの人口は、70年代には約1万人にまで減少。失ったのは、これから町を支えていくはずの若者ばかりだった。

 現在、人口は、約15000人にまで回復した。

 劇的な過疎化に歯止めをかけたものは、いったい何だったのだろう。

 その答えは、意外なものだった。

「何より大きな要因は、70年代後半からキアンティという土地の潜在力に目をつけた外からの移住者たちの流れだ。トリノやミラノといった大都市からの移住者ばかりではない。イギリス人、ドイツ人、スイス人、オーストリア人といった外国人もたくさんいた。

 彼らがまず、おいしいワインとオリーブオイルの里、風光明媚な丘の土地としての価値に気づき、点在する打ち捨てられた農家や屋敷を買い始めた。この土地に投資し始めた。

 あの時代、農家の若者たちは、テレビの普及によって別の生活があることを知った。女の子が、農家の息子と結婚したがらないことも社会問題になった。当時の農家は休みもなければ、トイレは外、充分な暖房もない、となれば、そう考えるだろう。そして農家の息子も、日曜は休めてヴァカンスに行ける工場や町の暮らしに憧れた。僕の2人の兄も町に出て左官屋になり、農業を継ぐことはなかった。

 しかし、この地に投資した人たちは、もっと先を見ていたんだと思う。キアンティ地方は鉄道や道路といったインフラ整備の面から見た場合、お世辞にも恵まれた地ではなかった。高速道路からもれていた。ところが不幸中の幸いというべきか、そこに風景を整えていける資質があった。彼らはそこに気づいていた」

*誇りを取り戻していく地元の人たち

 トスカーナの田舎が変わるもう一つの起爆剤は、農における量から質への転換だったという。

「その時期、僕らは、ようやく質の高いワインと出合うことができたんだ。先駆けは、アンティノーリ侯爵家のティニャネッロだろうね。あれを皮切りにスーパー・タスカンと呼ばれる名ワインが競うようにして生まれた。外からの投資が、ワインという足元の文化に地元の目を開かせてくれた。やがて80年代、ワインの生産者たちの中から起こった大量生産を見直そうという動きが大きなうねりになっていく」

 スーパー・タスカンとは、イタリアの法律で定められた地域の品種だけを使うのではなく、あえて外国種などをブレンドした新しい高級ボトルの総称だ。ティニャネッロは、アンティノーリ家が71年に発表したボトルで、湿った森のような芳醇な香りを持つ在来種サン・ジョヴェーゼに、あえてボルドー地方のカベルネ・ソーヴィニヨンをブレンドし、フレンチオークのバリック(樽)で醸成した赤である。

 かつてのキアンティのワインといえば、庶民的なワインの代名詞だった。わらに包まれた丸いおなかのボトルが特徴的で、アメリカなどに大量に輸出されていた。質の向上と個性化に成功して久しいフランスワインに比べ、イタリアのワインの評価はまだまだ低かった。

 そこにトスカーナワイン多様化のビッグバンが起こる。

 パオロは感慨深げに言った。

「まず、大都市や外国からの投資や移住者が増え、質の高いワインやオリーブオイルが生まれる。それに刺激を受けて観光の質も上がっていく。それらがきっかけとなって何が変わったか、わかるかい? キアンティ人は初めて、自分たちが生まれ育った地元に誇りを持てるようになったんだ」

 学生の頃から見せつけられてきた郷土への誇りと愛情は、イタリア人の専売特許だと思い込んできた。だが、それも一度打ちのめされたからこそ、手に入れたものだった。

 ならば、「ここには何もない」と思い込んでいる日本の田舎にもできるはずだ。トスカーナに負けない誇りと愛情を取り戻し、世界もうらやむ豊かな田舎を育てていくことが。

*郊外になり下がらないために、町を大きくしない

 どうも日本人は、人口が増えることが町の幸いだと思い込んでいるふしがある。観光地が成功している指標としても、よく年間に訪れる人の総数を発表する。はたして、人口が増えることはいいことなのだろうか?

 70年代から役場の職員として町の回復期を見守ってきたパオロは、90年から2004年まで町長を務めた。

 まず心がけたのは、町の肥大化を防ぐことだった。

「当時、町の人口は13000人にまで回復していた。だが、決して3万人にはしたくなかったんだ」

 その理由が穿うがっていた。

「フィレンツェの郊外には、成り下がりたくなかったんだよ」

 東京の典型的な郊外の住人としては、き返さずにはいられない。

 その郊外とは、どんな意味なのか?

「フィレンツェほど美しくもない、ついでに立ち寄るくらいの町。いや、それならまだましだ。下手をすれば、フィレンツェのベッドタウンだ。ただ眠りに帰るだけの町、働く場もなく、人が集まる広場や市街地のような中心もない。福祉もなく、農業のようなものづくりさえ失われた町。そんな町には決してしたくなかった。そんな町では、人は年をとりにくいからね」

 郊外とは、アイデンティティを失った町と同義だと言う。

 東京の周りに、他県にまで際限なく増殖する住宅群が頭に浮かんだ。それこそが自分が帰属する生活圏だった。

「これまで発展といえば、とかく道路や大型店舗を増やしたり、宅地化を進めて住民を増やしたりすることばかり考えてきた。しかし、そんなことが、本当に田舎の住人たちを幸せにしただろうか。僕らは地元に誇りを持てるようになって、やっと持続可能な発展という概念に行き着くことができたんだ」

 たとえば、アルノ川沿岸の平地に、住宅地や工場を建設するという計画が持ち上がるたびに、パオロたちはこれを阻止した。

「大型ホテルを誘致する代わりに、ほとんどなかった1015室くらいのプチホテルやアグリトゥリズモ(農家民宿)を育てることにした。ミラノやローマの郊外にあるような大型ショッピングセンターも要らない。地元の個人店を潰すからね。町の顔を作るのは、多種多様な個人店だ。今も町中にあるのは、生協と小ぶりな地元のスーパーくらいだよ。ハリウッド映画ばかり上映するシネコンも要らない。代わりに小さな名画座があればいい」

 アグリトゥリズモは、60年代に北部の農家の女性が農閑期の副業として始めたのが、その起源だという。85年には、農業収入が全収入の7割以上を占めていることや、建物の修復などに厳しい条件を定めた法律も生まれた。2010年時点で、アグリトゥリズモは12500軒に増え、トスカーナ州やウンブリア州に特に多い。

 そこで、地元のスーパーを覗いてみると、商品の6割近くがトスカーナ産だった。そして小さな名画座が一軒、何とか生き残っていた。

 町が息を吹き返すのに大切なものは、法の規制より、まずは市民の意識が変わることだとパオロは力説した。

「少しずつ市民を巻き込みながら、意識を共有していくこと。別に美意識やロマンチックな意味ではなく、たとえば古い建築の隣に不粋な建築を建てることは、長い目で見た場合、経済的な利益を損なうとわかってもらうことなんだ」

*厳しい法的規制、細部にわたる町の風景条例

 民意が大切とパオロは言うものの、やはり法的規制は重要だ。トスカーナが美しいのは、景観法による規制が徹底していた地域の一つだからだと言われる。

 そこで、国土の美しさを守るためのイタリアの法律をざっと見ていこう。

 イタリアには、1939年のファシズム政権下、文化財保護法と自然美保護法からなる景観保護法が作られた。ところが5863年、〝奇跡の経済〟と呼ばれた経済復興を果たし、さらに80年代初頭にはバブルを経験、この右肩上がりの時代にイタリアの景観は壊れていく。

 これに待ったをかけたのが、85年のガラッソ法だった。これは元ナポリ大学教授で、文化・環境財省の政務次官だったジュゼッペ・ガラッソが発案した、各地に横行する乱開発に歯止めをかけるための法律だった。

 ガラッソ法は、環境の上で特に重要な価値を持つ地域の保護を目的としていた。具体的には、海岸線や湖岸から300m以内、河川から150m以内、アルプス山系の標高1600m以上、アペニン山系と島の標高1200m以上、国定公園・州立公園、森林、湿地、火山、考古学地区などの地域を建築禁止区域としたのだ。そして政府は、各州に、翌年末までにこれらの地区を定める「風景計画」の策定を義務づけた。

 ガラッソ法が画期的だったのは、次の2つの点である。

 まず、それまで文化・環境財省、つまり国が持っていた、建築禁止区域の決定権や風景計画を策定する権限を州に移したこと。もう一つは、景観と環境の保護の一体化だった。

 その反応は、州によって大いに温度差があり、腰の重たい州も多々あった。しかし、この時、どこよりもさくさく仕事を進めた州の一つが、トスカーナ州やリグーリア州だった。

 それまでも、世界遺産が最も多い国イタリアでは、文化財保護法の規制はとても厳しかった。古い屋敷や旧市街のアパートに暮らす人たちは、壁のしみ一つ直すのにも許可がいる、許可なしにれん一つ動かせないと、よくこぼしていた。

 また、ガラッソ法以前にも、77年のプロカッシ法によって、土地所有者から建築の自由権が切り離された。つまり、〝俺さまの土地なんだから、どんなものを建てようが俺さまの勝手だ〟という私的所有権が著しく制限された。これによって、新築する場合、誰もが必ずその内容を詳細にわたって自治体に届け出なければならなくなった。そして、それが自治体の都市計画にのつとったものでなければ、建築許可は下りない。

 さぞ、国民の美意識が高いであろうイタリアでさえ、そうでもしない限り、中世やルネサンスの面影を残す町や村の景観は、とても守りきれなかったのである。

 ガラッソ法は、99年、文化財と環境財のテスト・ウニコと呼ばれる統一法典に吸収されるが、こうした景観をめぐる法的規制によって、州は今でも、それが環境や景観にとって破壊的な開発行為であると見なされた場合、町や村の役場などの開発・建築許可さえ無効にする権限を持ち、違反行為には刑事罰も適用される。

 法的規制よりも市民の意識の共有、と豪語したパオロだが、グレーヴェ・イン・キアンティの町の景観条例は、恐ろしく長たらしい。

 その内容は、家屋の外壁は淡い色彩で、その厚さは3060cmにすべし、外壁の塗装は石灰モルタル、セメントやプラスチックは不可。窓枠や扉は木製にすべし、フェンスは鉄棒にすべし、雨どいは銅製、プラスチックは不可。床と天井は22m以上とすべし、さらにパラボーラアンテナは煉瓦色にすべし、バールのけ布はグリーン、あるいは茶とすべし、看板に赤色は不可、また市街地で光る看板も不可、民家や幼稚園の50m内に携帯電話基地局設置の禁止……と、詳細にわたる規制が延々と続く。

 確かに市民の意識が熟していなければ、こりゃ暴動が起きるだろう。

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1章 人が生きていく上で必要なもの、それは人間サイズの町だ(2)

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