日本ほど短期間で激甚な公害を引き起こし、短期間でそれを回復させた国はなかった
「世界最悪の汚染」からいかによみがえったのか

第一章 鳥たちが戻ってきた

1.千羽鶴になったタンチョウ

朝の饗宴

 くし市郊外の「かん国際ツルセンター分館」。2階の展望台に上がると、眼前には大きな雪原が開ける。ここは11月から3月にかけて餌やり場になる。目の前で50羽ほどのタンチョウが、まかれた餌をせわしげについばんでいる。

 そこにオオハクチョウの一群が舞い降りた。10頭ほどのエゾシカも姿を現した。100羽を超えるマガモが群れに加わった。タンチョウの餌を狙って集まってきたのだ。朝のきようえんのはじまりだ(写真11〔*1)。

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 雪原の上でタンチョウが優雅に舞う。オスが「クォーッ」と鳴くと、すぐにメスが「カッカ」とこたえる。くちばしから白い息が立ち上る。2羽が同時に雪をって大きく飛び上がった。そろそろ、カップルをつくる準備だ。

 1950年にこの場所で、はじめてタンチョウの人工きゆうに成功した。ある吹雪の朝、ここの地主が、大きくて白い数羽の鳥がトウモロコシの茎をつついているのに気づいた。絶滅したと思われていたタンチョウだった。これをきっかけにづけがはじまった。

 その後、調査研究や教育活動のために、このセンターが建てられた。給餌場に300羽を超えるタンチョウが集まる光景は壮観だ。観光の人気スポットになり、外国人も含めて多くの観光客でにぎわう。今や「ハクチョウ」「流氷」とともに「道東三白」、つまり北海道東部の「白い観光の目玉」である。

 分館前の展望台では、数人が双眼鏡をのぞきながらカウンターを手にタンチョウを数えている。毎年1月から2月にかけて、釧路湿原周辺では恒例の「NPO法人タンチョウ保護研究グループ」によるタンチョウの総数調査がつづけられてきた。これまでに30回を超えた。北海道がもっとも寒い時期だ。外気温が氷点下20℃を下回ることも珍しくない。にもかかわらず、この時期に調査が行われるのは、タンチョウが餌場に集まってきてもっとも数えやすいからだ。

 研究グループの理事長・ももくにかずのもとに集まったのべ148人のボランティアが、調査にあたる。学生、社会人、獣医師、研究者、動物園職員、翻訳家ら19歳から85歳までのタンチョウが好きでたまらない人たちだ。東京や兵庫からも参加する。第1回目から参加している人もいる。

 防寒服や防寒靴で身を固め、携帯カイロをいくつも服に貼り付けて、餌場、飛行ルート、ねぐらなどに分かれて待機、二重三重にチェックして数えていく。2019年の調査の最終集計は約1650羽。3年前に記録した過去最高の約1850羽には届かなかった。

 厳冬期の生息数調査の次は、45月の産卵期に軽飛行機をチャーターして、空から営巣場所やつがいの成否や環境の変化などをつかむ。初夏には生まれたヒナのリング(足環)の装着だ。トランシーバで連絡を取り合いながら人海作戦でヒナを捕獲。血液を採取しリングをつけて放す。寒さに代わって、蚊やアブやダニとの戦いでもある。

 リングから個体を識別することで、生存率や繁殖成功率、つがいの入れ替わりなど、タンチョウの行動や生態が解き明かされつつある。血液で血縁関係も調べられる。

 これだけ長期にわたる野鳥の調査は世界的にも珍しく、調査にはタンチョウが生息する中国、韓国、ロシアの研究者が参加することもある。極寒のなかの熱心な調査に、外国勢は「日本人はすごい」と驚きの声を上げる。タンチョウ保護研究グループは、2016年「日韓(韓日)国際環境賞」を受賞した。東アジア地域の環境保全に貢献した団体・個人に贈られる賞だ。

愛されてきたタンチョウ

 優雅で気品あふれるタンチョウは、古くから日本や中国で愛されてきた。弥生やよい時代のどうたくの線画にはカメとともに描かれ、『まんようしゆう』では46首の「たづ」を詠んだ歌がある。「たづ」はハクチョウなどの白い大きな水鳥の総称だが、その多くはツルとみられる。

 大和やまと絵にはタンチョウの傑作がある。仏教画、墨絵、ふすま絵、版画などでも人気のあるモチーフになった。江戸の絵師、とうじやくちゆうは花鳥画に好んでタンチョウを取り上げた。

「ツルほど広範囲にさまざまな意匠に用いられているモチーフは他に例がない」といわれるほど身辺にあふれている。縁起のいい鳥として、のし紙や水引、紙幣、家紋、和服の柄、漆器や陶磁器や武具などさまざまな工芸品の意匠に使われてきた。

 さらに民話に登場する「鶴の恩返し」は、全国各地に伝わっている。戯曲やオペラにもなった。「ツルは千年、亀は万年」といわれる長寿の代名詞でもある。

 江戸末期の浮世絵師、うたがわひろしげは「名所江戸百景」の中で江戸に飛来していたタンチョウを描いている。絵の上の方から、タンチョウの上半身が覆いかぶさるようなざんしんな構図だ。この絵が描かれたのは185658年、場所はあらかわ南岸の湿地帯とみられる。このあたりは、将軍家の御狩場だった。

 ツルを食べる習慣は古くからあった。各地の遺跡や貝塚からはタンチョウの骨が出土する。平安時代には食べられた記録があり、鎌倉時代の『新古今和歌集』の選者のひとり、ふじわらのていの日記『明月記』(1227年)にはツルを食べたことが記されている。

 江戸時代にはツルの肉は高貴なものとされて、庶民には手の届かない存在になった。捕獲は厳重に管理されていた。つるなりは、将軍がたか狩りでツルを捕らえる特別なイベントだった。そのために、タンチョウは手厚く保護されていた。生息地の一帯は竹矢来で囲まれ、管理責任者の「鳥見名主」、給餌係、野犬を見張る「犬番」などが常駐していた。鳥を驚かさないようにタコ揚げも禁止されていた。

 とくがわいえやすはひんぱんに鷹狩りに出かけた。「生類あわれみの令」を定めて生き物の殺生を禁じた五代将軍つなよしでさえ、鷹狩りをした。ツルを捕らえて肉として天皇家に献上することは徳川家のつとめだった。献上した残りは宴を開いて大名たちにふるまった。他方、大名からも将軍にツルが献上された。

 ツルを捕獲した場所は、西さいふかがわせんじゆしながわあざしたおおもりなかなど、東京湾の沿岸から荒川の流域、さらに内陸の湿地帯にまで広がっている。捕獲されたツルの数は、1611年から1790年までの179年間に183羽、年平均1羽だった。

 明治維新をきっかけに江戸時代の禁鳥制度が廃止され、銃猟の解禁とともに乱獲された。1892年になってツル類の狩猟が禁止されたが、そのときはすでに各地で姿を消し、本州では大正時代には絶滅したとみられる。

33羽から千羽鶴へ

 1924年に釧路湿原で十数羽の姿が目撃された。1935年に繁殖地も含めて国の天然記念物に指定されたものの、タンチョウの消息は途絶えた。「日本野鳥の会」を創設したなか西にしどうが、1939年に北海道を訪ねたときにタンチョウを探したが、「一日探しまわってえなかった」と書き残している。

 195253年に小中学生や社会人ら一万数千人が参加して探したが、確認できたのは33羽だけだった。あわてて国は特別天然記念物に格上げした。国や自治体が保護に乗り出し、すこしずつ回復して62年には178羽、88年に424羽、2000年になって740羽に増えてやっと保護の手応えが出てきた。

 2004年には待望の1000羽を超えて、「千羽鶴」を達成した。そして15年度には1800羽の大台に乗った(図11〔*2)。この回復にもっとも貢献したのは、冬季の餌やりだった。それまでは、冬季の食糧不足から生息数は思うように伸びなかった。

 しかし、1950年にはじまった餌づけの成功で、各地に給餌場が設けられるようになった。現在では、環境省が管理する3ヵ所と、北海道庁が管理する中小規模の20ヵ所の計23ヵ所がある。

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 ツルの仲間はタンチョウ以外にも、鹿児島県いず市のあらさき田んぼや山口県しゆうなん市などに冬鳥として渡来するナベヅルをはじめ、マナヅル、クロヅル、アネハヅル、ソデグロヅル、カナダヅルなど7種が飛来する。世界で15種類いるツル類の約半分が日本で見られる。

 そのなかでも、飛来数のもっとも多いナベヅルは12000羽前後にもなり、世界の総生息数の約9割が日本で越冬している。万が一伝染病などが発生すると、種の維持にも影響が出かねないと、関係機関は気が気ではない。

 ツル類のなかでタンチョウはスターだ。体長は125152センチ、翼を広げると240センチもある。からだは白いが、眼先からノドと首にかけて黒い。頭頂には羽毛がなく赤い皮膚が裸出する。鶏のトサカと同じものだ。漢字のたんちようの「丹」は「赤い」という意味だ。この白と黒と赤の配色が、何ともいえない気品を演出する。

 雑食性で昆虫やその幼虫、エビやカニなどの甲殻類、カタツムリ、タニシなどの貝類、ドジョウ、コイ、ウグイなどの魚類、カエル、鳥類のヒナ、野ネズミなどのにゆう類、セリ、ハコベ、ミズナラなど植物の葉や芽や実などを食べる。湿地の浅瀬に枯れたヨシなど草や木の枝などを積み上げて、直径150センチほどの皿状の巣をつくり、35月に12個の卵を産む。雌雄が交替で卵を抱き、3136日でし、約100日で飛べるようになる。

第一章 鳥たちが戻ってきた(2)

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