1979年刊。「非合理」を哲学、神話からアプローチする経済学の新古典
経済活動の人類史的意味を原始社会にさかのぼって明らかにし、広大な時間的空間的視野の中で、“経済的営為”の本質を考察する新しい学問、経済人類学の初めての体系的入門書。

部 深層への回帰

1 経済人類学とは何か

 人類のもつ観念や表象のうち、もっとも強力なものはすべて、神話類型にさかのぼる。これが、とくにはっきりとうかがえるのは、宗教的表象の場合である。しかし、経済・哲学・道徳の中心概念もその例外ではない。

カール・グスタフ・ユング『心の構造』

■なぜ「経済人類学」なのか

 私は、この書を普通の入門書や解説書のように、分野の学説史や沿革から書き始めることをしなかった。それにはそれなりの理由がある。経済人類学は、もしも本格的に構築されるならば、これまでの市場社会(現代資本主義)を対象としてきた経済学をその一部門として包摂する可能性があるものなのであって、けっして、逆に、これまでの経済学の下位部門の新顔の一つにとどまるものではないのである。経済学だけの問題ではない。文化人類学の内部においても、単なる部分領域にとどまらず、その学問的全体系の軸になる可能性を経済人類学は持っている。このことは、本書を全体として読み通していただければ、ある程度理解していただけるであろう。そうした超領野性と根源性こそが、私が現代の学問にとって枢要なものとして経済人類学の研究を選びとった理由である。しかし、欧米で既に半世紀の歴史を持ち、日本でも一九七〇年代初頭以来論及されるようになったこの分野の一部には、自ら対象を狭く限定し、認識論的には旧来ととくに変わらない主張を持つ潮流もある。これの紹介と批判から始めるなら、かえって、経済人類学の意義や可能性を理解させるのに妨げとなろう。だからここでは、現代経済学および学問全体の抱えている本質的課題と、我々の経済人類学との接点を示しつつ分野の展開を展望する形をとった。

 しかし、これは既にある程度社会科学に問題意識を持つ読者に向けられたものといえるから、場合によっては、本書の方法の基礎を論じている最終章から入り再び本章に戻ってくることも可能であろう。それでもこの構成を崩さなかったのは、我々の経済人類学の提起するものが、単なるディシプリンの部分的改革や視点の若干の修正ではないことをどうしてもわかっていただきたかったからである。

 当然のことながら、経済人類学はその名称の故に、あたかも経済学と文化人類学の間を単純に架橋するもののように思われやすい。けれどもこの学問は、単に二つの体系の混淆によるものではない。実は、既存の両体系は、ともに深刻な問題を抱えているのであって、それを無批判に混淆しても、ただちに素晴らしい結果が生まれることにはとてもならないのである★1

 そもそも我々の思想にコペルニクス的転換を与えた、ユダヤ系ハンガリー人の学者カール・ポランニー(一八八六─一九六四)は、自らを経済人類学者と限定したわけではなかった。けれども、彼が社会における「経済」の位置を論じ、非市場経済社会の諸制度に新たな説明の光を当てたとき、まず論争が引き起こされたのはアメリカの文化人類学界であった。彼の提起は、当然、市場社会の説明原理たる形式的経済学(フォーマルエコノミクス)への痛烈な批判となってはいたのだが、他方で文化人類学内部に大きな力を持っていた機能主義(ファンクショナリズム)と対立するものであった。機能主義とは、未開社会の儀礼や慣習がいかなる社会的機能を有しているかという点に、分析、説明の主眼点をおく認識法である。もしもこの手法で、ただ対象だけを「経済」とすれば、見たところかなり〈異様な〉制度や行為が、実は、社会における財の分配であったり、宗教的〈粉飾〉を取り払えば交換のための市場として機能しているというような説明となる。つまり、ある制度は、儀礼や慣習の中にとりこまれてはいるが、それなりに社会に物理的に資する合目的的な側面、役割を持っているとみるわけである。これは、経済学の中にも大きな力を持っている。つまり、手段─目的関係として経済活動をみるもので、これが先の形式的経済学とよばれるものだから、実は機能主義と形式主義とは同じものだといえる。

 ポランニーは、この形式主義を一九五七年に公刊した編著『古代帝国の商業と市場』[93]で厳しく批判した。というより、方法論的論争は原理についてだけにとどめて、いきなり具体的な研究を示して、非市場社会にはけっして商業や市場が当然のものとしては存在しないこと、存在しても、まったくばらばらの関係にあったりして社会に「埋め込」(embed)まれていることを明らかにしたのである。機能主義および形式主義では、市場、貨幣、商業は相互に深く関係しあう、いわば「みつぐみ元素」のようなものとして論じられてきたが、それらはまったく独立の起源と社会的関係を持つことを具体的に示しつつ、過去の方法を批判した(本書、第34章参照)。

 この編著を中心とした彼の提起にまず応えたのが、スコット・クック[12]、P・エドワード・レクレア★2らの人類学者の反論であった。こうして一九六〇年代初頭に実在主義者(サブスタンティビスト、substantivist)と形式主義者(フォーマリスト、formalist)の論争が開始されたのである。「実在」主義者とは、ポランニーが、経済制度の機能主義的、形式主義的規定に代わるものとして、社会および自然環境と人間との間の交換・代謝インターチェンジ関係として経済を考えるという視点を主張したことに基づくポランニー派への呼称である。

 この論争は当初は人類学内部に循環していたが、しだいに、社会における財の収取関係と搾取の問題、社会にとって余剰とは何かという問題に展開し★3、経済学や社会学にも拡がりをみせるようになった。ところがそうなっても、非市場社会における儀礼や慣習の意味、現代の市場経済社会にも残存する伝統の諸問題などをどう考えるのかという課題は引きつがれていったのである。そこに、論争が当初人類学内部に惹起されたこととあいまって「人類学」の呼称が当然のごとく残り、受け容れられていく要因があったのである。

 こうして、ポランニーの提起は、たしかに「経済の人類学的」研究という形での受けとられ方はしたのだが、それはきわめて歴史的な経過の問題であったといえる。実際には、実在主義者の経済人類学とは、「実在」(サブスタンス)の意味とか、社会に埋め込まれた経済の認識、またその経済をひじょうに広義かつ根源的に考える提起などを見ればわかるように、広く社会科学全体への問題提起としてとらえるべきものなのである。

 本章では、きわめて簡単にそれらの提起の基礎を説明しておこう。これらの認識論のより深い展開は、物理学の相対論の基盤とも係わるものなのであって、最終部で行われる。ここでは、本書中に基軸的認識法として頻出する経済の実在的意味づけの土台を簡単に述べるものである。

■社会における「経済」の位置

 ポランニーは、非市場経済では「経済が社会に埋め込まれている」という。これが意味するものは、単に人間の社会生活における諸要素の複雑な絡み合いというようなことではない。親族関係、宗教、贈与儀礼などの社会慣習によって規定される行為そのものの中に、表層には意識されない機能として、結果的に財の生産、配分などの経済的機能があるということなのである。

 これについてポランニー派は、一歩進んで、社会における「経済」について次のごとく主張をした。「それら(社会)は、ともに長いあいだ暮らす人々とグループの間の、構造化されたモードを持っているという理由で、〈経済〉を持つ。(中略)個々人の物理的生存のためには、物質財やサービスの継続的で反復的な(そしてそれゆえに構造化された)供給(structured provisioning)が必要である。これが、アメリカ合衆国も、ソ連も、トロブリアンド諸島もそれぞれ、〈経済〉を持っている第一の理由である。」(ドルトン[18, p.4])

 そして、その第二の理由は、社会あるいは共同体も、財・サービスの構造化された供給がなければ、生存していけないことである。構造化された供給が、社会成員によって表層的に意識されていたり、いかにもわざとらしく供給のための儀式であったりする必要はない。それは、マルセル・モースの検討する贈与慣習であり、ポランニーの分析したダホメ王国の貢租大祭★4などを形成する社会的行為の〝結果〟として表われる。有名なインドのサッグ団の女神カーリーへの信仰に基づく、宗教的旅人殺戮および略奪慣習も、たいへん印象的なかたちで、見事に財を確保する方法になっている。また、マーシャル・サーリンズは、未開社会の首長制一般が、財の再配分(分配)(redistribution)の機能を有するものだと指摘している★5

 けれども、これらはすべて結果として付随する機能なのであり、サッグの女神カーリー信仰が、はじめから財の確保のためであるとか、ダホメの貢租大祭が財の再配分のためにだけ存在する儀式であると考えることはできないであろう。

 当然のことながら、未開社会において、宗教は宗教そのものであり、呪術は呪術そのものである。気のきいた規定を持ってきて、外在的に定義しようとしてはならない。たとえば、この呪術が科学なのだと社会学者マルセル・モースがいう場合、合目的的に呪術がその役割を果たすというようなことをいっているのではない。それは一つの結果的機能として、(多くの場合、まったくの付随的結果として)けっきょく一種の科学なのだなということなのである。その場合、呪術も社会に「埋め込」まれていて、合目的的にではなく、結果的に科学たりうることもあるということでしかない。

 また、先のドルトンの規定から敷衍して、それならばけっして人間の社会にとどまらず、サルにもチョウにも、つまり生物一般の〝社会〟にも同じ構造化された財とサービスの供給があると敷衍していくことは不可能ではない。むしろそれは〈必要〉な将来的展望の中にある。後にも時折触れるように私自身は既に、「経済」の研究を人間の共同体だけを対象にすべきものだと考えてはいない。けれども、この方向は、本書では最終部を読んでいただいた後、全体として示唆されていたことに気付いていただければよいのであって、一応は直接的議論の範囲内にはない。

 ここでの問題の鍵は、後述するように、交換や貨幣の本質が、あくまでも合目的性のようなものから説明できるようなものではなく、人間社会の原初性に基づく行為であるという視点から理解されねばならないところにある。そして学問発展の方向が、もしも、人間社会の原初性が、サルやチョウの〝社会〟の原初性とも別して変わるところがないということを示すなら、経済人類学は生物の比較行動学(エソロジー)から学ぶところも大きくなるだろうというわけなのである。

1 経済人類学とは何か(2)

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