「よし、焼き芋を超えた!」 野菜てんぷらのパイオニア一代記
いままでにない、てんぷらを次々に考案する「てんぷら近藤」主人・近藤文夫。池波正太郎に愛された職人の飽くなき、てんぷらへの情熱

第一章 二人の恩人

七歳で任された「仕事」

 てんぷらを揚げる近藤を一枚の絵が見つめている。一九七〇年代の映画に登場するようなヨーロッパの街角の風景だ。中央に「CINEMA」と書かれた二階建ての西洋建築が描かれている。

 作者は池波正太郎。「鬼平犯科帳」「仕掛人・藤枝梅安」「剣客商売」「真田太平記」など、日本を代表する時代小説、歴史小説の大家であり、近藤が恩師と仰ぐ人物である。

 稀代の食通として数多の食に関するエッセイや作品を残した池波だったが、てんぷらは大好物のひとつだった。自著『男の作法』(一九八四年・新潮社刊)の中で、てんぷらに関してこんな記述を残している。

〈「揚げるそばから食べる……」

 のでなかったら、てんぷら屋なんかに行かないほうがいい。そうでないと職人が困っちゃうんだよ。

 だから、てんぷら屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでも会ったように揚げるそばからかぶりつくようにして食べていかなきゃ、てんぷら屋のおやじは喜ばないんだよ〉

 近藤が池波と知り合ったのは、神田・駿河台にある「山の上ホテル」である。高校卒業後、近藤がこのホテルの和食部門に就職したのが昭和四十一年(一九六六年)。近藤十八歳の時だった。近藤の記憶では、池波とカウンター越しに親しく会話を交わせるようになったのは三十代後半だから、二人が出会ったのは昭和五十年代後半ということになる。

 昭和二十二年(一九四七年)、近藤文夫は終戦直後の東京都足立区とうに生まれた。

 古くからこの一帯は、利根川と荒川という二つの巨大河川に挟まれた水郷地帯。家の前には河川の氾濫を防ぐ目的で掘削された幅三メートル、深さ五十センチの用水路があり、梅雨の長雨で増水すると、荒川本流から野生のこいふなが紛れ込んだ。それを見つけた近藤は増水した用水路に飛び込み、手にしたよつあみを器用に操って格闘したという。捕まえた大鯉は幼き日の近藤少年にとって大勲章だったにちがいない。

 太平洋戦争当時、東和周辺には軍事工場が乱立していた。中でも昭和十三年(一九三八年)に建設された「日立製作所・亀有工場」はB29の標的となり、繰り返し爆撃が行われた。国土地理院に保存されている当時の航空写真には、紙一重で空襲を逃れた近藤の生家がはっきりと写り込んでいる。

 近藤が物心ついた頃、自宅周辺には「亀有ハウス」と呼ばれる、中庭のあるモダンな三階建てアパートがいくつも建設された。その多くが工場で働く人々の寮として使われており、終戦後、大陸からの引揚者のために開放されたという話も残る。炭鉱町で見かけるハーモニカ長屋と呼ばれるトタン屋根の住宅群もあって、界隈には芋の子を洗うように児童らの姿があった。

 近藤の家は、トタン屋根でこそなかったが、瓦屋根と板張りの質素な賃貸しの民家だった。玄関を入ると三畳ほどの部屋の奥に土間。続けて四畳半の部屋が二間。用水路に沿って同じ格好の民家が三軒並んでいて、その一軒に両親と兄、近藤の四人が暮らしていた。

 近藤家の生活が一変するのは昭和二十九年(一九五四年)、近藤七歳の時である。一家の大黒柱である父・よねきちが胃癌で急逝したのだ。定収入を失った近藤一家は、その日食べるものにも苦労する困窮した生活に追いやられる。母・コマは働きに出ようと職を探すが方々探しても見つからない。仕方なくコマは、家の軒先で地元の子ども相手に駄菓子屋を始めるが、それだけでは食べていけないので夜は和裁などの内職を手掛けて一家の生活を支えた。

 朝から晩まで働き通しの母を楽にしようと、近藤が志願したのが朝夕の飯炊きだった。ご飯を炊くといっても電気釜ではない。井戸水で白米を洗い、土間で薪を使って火を起こしかまどでご飯を炊く。これが、近藤にとって初めての料理とのかいこうである。近藤家にとって「銀シャリ」は大変貴重なものだった。

 一九六〇年代後半に自主流通米制度が確立されるまで、一世帯あたりの米の消費量はお上によって厳格に管理され、白米を購入するには「米穀配給通帳」が必要だった。当時の消費者米価(精米された白米十キロの値段)は千百円。サラリーマンの初任給が二万五千円という時代である。近藤家では「一升」の米を一度に買うお金がなかったので、方々の米屋をめぐっては少しずつ白米を調達した。市場には出回らない闇米に手を出したこともある。

 母が苦労して手に入れた白米を一粒たりとも無駄にできない。近藤は、洗米、吸水時間、薪のべ方、火力調整、蒸らし時間を独自に研究し工夫した。毎日が真剣勝負だった。

「ご飯炊きを成功させることは、外で友だちと遊ぶこととは、また別の楽しみがありました」

 飯炊きは近藤が人生で最初に任された「仕事」だった。白米を上手に炊き上げ、母と兄が「おいしい」といって口元をゆるめる瞬間が近藤少年にとっては無上の喜びだったという。一方、お米を通じて、「食材」はそれを扱う「人間」によって、おいしくもくもなるという料理の「理」を知ったのもこの頃だった。

 銀座の一等地に自身の城を築き、誰もが認める料理人になった現在も、近藤が店で出す白米の一切を人任せにしないのは、白米に対する格別の思いがあるからである。

 足立区内にあるひがしふち小学校、ばら中学校を卒業した近藤は、小松製作所に就職した兄・武の援助を受け足立高等学校商業科(現・足立学園高等学校)に進学する。近藤の飯炊きは、山の上ホテルに就職する十八歳まで毎日、欠かさず続いた。

トマトの記憶

 昭和三十年代。日本は「敗戦国」という烙印を押され、国民は等しく困窮した生活を強いられていた。それでもこの時代には、金銭では計ることができない「幸福」が確かに存在した。当時、近藤の生活圏の大半は畑と田んぼだったが、四季を通じて色とりどりの野菜や果物と遭遇した。きゅう、大根、とうもろこし西すい……。同じ形のものはひとつもなく、全て形は不恰好だったが、今日の野菜と比べると強烈な野性味を感じた。

 近藤は友だちと連れ立って、大人に内緒でよく「味見」に出かけた。

 中でも印象に残っているのがトマトだ。南米原産のトマトが観賞用として日本にもたらされたのは十七世紀後半。トマトが食用として栽培されるようになったのは明治時代に入ってからである。

 近藤少年が口にしたのは、たけひごつるを這わせて栽培する吊るしトマトだった。当時はハウス栽培などあるはずもなく、夏の燦々たる日差しを浴びて育つ露地栽培。もいだばかりのトマトを夏でも冷たい井戸水で冷やして食べるのがおやつの定番だった。

「最近のトマトは『甘い』と言いますが、当時はそんな表現はどこにも見当たりませんでした。蔓からもいだばかりのトマトは青臭くて形もいびつ、かぶりついたら種の部分がブシュッと飛び出して、顔や手をベチャベチャにして食べていましたね。少しでもおいしいトマトはどれだろうか。子どもながらに自然と目利きすることを覚えました」

 あの夏の日の思い出が、トマトの青臭い香りと共に今も甦る。休日には日本全国の生産者の元を巡り、自ら納得のいく野菜を探し求める近藤の好奇心のルーツは、こうした少年時代の原体験が関わっている。

 近藤が幼年期を過ごした一九五〇年代後半~六〇年代初頭は、急速な食の欧米化と、国民の「所得倍増計画」が進んだ時代だ。農業従事者の所得拡大をうたい文句に農業の機械化、効率化が急速に推進された時期とも重なる。

 近藤曰く、一九七〇年を境にして野菜の味は大きく変わったという。「昔の味」とひとくくりにしてはいけないが、トマトの味ひとつをとっても現代のものとは比べものにならない。近藤が現在も追い求める「本物の味」の原点がここにある。

 二〇一〇年十一月、ケニアのナイロビで開催されたユネスコ政府間委員会において、「世界無形文化遺産」に「メキシコ伝統料理」「地中海料理(スペイン・ギリシャ・モロッコ・イタリアの共同提案)」と並んでフランスの「美食術」が新たに登録された。ここで注目すべきことは、フランスの「料理」そのものではなく「美食術」が世界遺産登録の決め手だったということである。「美食術」とは、出産、結婚、誕生日などの社会的慣習と共に伝えられてきたフランスの食事であり、ナイフとフォークの扱い方やテーブルマナーなど食卓に付随するあらゆる専門的な慣習も含まれている。

 現在、フランスでは「フランスの美食術」を確実に保護し、次世代に継承することを目的に国を挙げた取り組みが始まっている。中でも、年に一度、フランス国内の全ての小学校、中学校で行われる「味覚の一週間」という「食育」の授業がユネスコに高く評価された。

 人間の舌には「らい」と呼ばれる味覚を司る器官がある。味覚とは「甘い(甘味)」「すっぱい(酸味)」「苦い(苦味)」「しょっぱい(塩味)」の「四味」から形成されるが、その「四味」を感知する「味蕾」は、幼年期(十~十二歳)に最も発達する。つまり、幼年期に味覚を鍛えると同時に、自国の食材や料理に興味を持つことで、成長してからも食に携わる料理人や生産者に対する尊敬の念を失わないというのだ。味覚は人間の知性と感性を育てるとフランス人は言う。

 フランス政府が子どもの味覚に着目した背景には、食のグローバル化、ファストフードの台頭などによる子どもたちを取り巻く食文化の乱れがあったという。次世代を担う子どもたちにフランスの食文化を正しく継承させたい。この取り組みを先導したのは、世界的な料理ジャーナリストで料理評論家のジャンリュック・プティルノーと、食の都・パリで腕を振るう街場の料理人たちだった。

 人間の舌は幼年期に最も発達する──。

 これを近藤にあてはめてみるとなるほど合点がいく。幼年期に口にした「本物の味」の体験が、料理人・近藤文夫を誕生させたのだ。

 それを確信したのは『食楽』(徳間書店刊)という雑誌の企画で作ったある創作料理を味わった時のことである。このコーナーは、近藤が編集部から与えられた季節の食材を使って即興で料理を作るという人気連載だった。

 その月のテーマは「トマト」。近藤が考えた料理は「冷製スープ」だった。湯剝きしたトマトを鰹と昆布の出汁で形が崩れる寸前まで煮含め、冷蔵庫でしっかり冷やす。それに合わせるのはすり流しにした「枝豆」である。涼を誘うガラスの器の中で、トマトの赤と枝豆の緑が見事なコントラストを見せる。

 連載を担当した『食楽』編集部の中川節子は、近藤の「舌力」に驚いたという。

「トマトの旨味は、出汁と合う、とおっしゃるんです。早速、調べてみたところ、トマトに含まれる旨味成分は、出汁昆布に含まれる旨味成分『グルタミン酸』と同様のものだと分かりました。もちろん近藤さんはそんな事実はご存じない。自身の舌だけを頼りにその成分まで見極めておられたのです」

 日本には「五味」(前出の「四味」に「辛い(辛味)」を加えたもの)に加えて、昆布や鰹などに含まれる「旨味」という六番目の味が存在すると言われている。この「旨味」こそ日本料理の神髄なのだが、現代人はこの六番目の味を感知する舌力が衰えているという調査結果もある。一九五〇年代に登場した、現代の食生活には欠かせない「化学調味料」「食品添加物」の蔓延が関係しているのは想像に難くない。

第一章 二人の恩人(2)

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