名勝負の羅列だけがサッカー史ではない
「日本社会」において「サッカー」とはいったい何だったのか。日本サッカーの100年を貴重な文献で振り返る。

一九二〇‐一九六〇年代

第一章 戦争から東京オリンピック前夜

第一節   消えたFA

東京しゆうきゆう団のスター選手

 まりについての原稿を何度か寄稿したことがある。〈日本人のリフティング好きは蹴鞠文化と分かちがたい。冗談抜きにシュートより好きなのではないか〉。そんな疑念が発端だった。

 蹴鞠研究で名高い渡辺とおる東京大学名誉教授の都内のご自宅では、聴講生さながらのインタビューをした。賭博研究の第一人者である増川宏一さんからは、関西のご自宅で民衆史の視点であれこれうかがうことができた。どれも二〇〇〇年代に入ってからのことである。

 その増川さんによると、想像以上に激しいスポーツである蹴鞠では、衣服を賭けることがあったという。蹴鞠=神事の条件反射はやはりおかしいとの思いを強くするきっかけを得られ、貴重な取材体験になった。

 鞠には鹿革が使われる。廃れた原因に五代将軍徳川綱吉の制定した「しようるいあわれみの令」を挙げる大胆仮説を目にしたこともある。しかし忘れられないのは、渡辺氏に東大野球部の監督歴があることだ。学問領域でサッカー関係者は何をしてきたのだと人材難に憂いを抱いた。

 蹴鞠に限った話ではない。近代以降の日本サッカー史を掘り下げる人もごくわずかでしかなかった。一九六四(昭和三九)年の東京オリンピックや一九九三(平成四)年のJリーグ開幕を起点にすることで葬り去られてしまう歴史的事実が多過ぎる。

 この基礎的史料がなかったら、それこそサッカー界の「全記憶喪失」だったと『日本サッカーのあゆみ』(日本蹴球協会編、講談社、一九七四年)を手にとるたびに薄ら寒いものを感じる。副題には「THE PROGRESS OF SOCCER IN JAPAN 日本蹴球協会創立50年記念出版」とある。

50年史』と通称されるはこ入りの同書は、七四年刊行のこうかんな歴史書でマニアックな存在感を放つ。その『50年史』では、公式国際試合の戦績中心で編まれなかったことが吐露されている。たしかに四半世紀に一度の刊行であれば、一九四九(昭和二四)年あたりで最初のパブリックヒストリーを残せたことになる。だが、いきなり半世紀分となれば、優先すべき事柄が多過ぎて試合の記録にまでページを割けない。

『天皇杯六十五年史 全日本サッカー選手権全記録』(日本サッカー協会発行、一九八七年)もまた、なくてはならない一級史料だ。『50年史』のときと同じように五年がかりであったという。

 第一部「終戦まで(第1回~第25回)」に収録された座談会が、まず目に留まった。『天皇杯六十五年史』は、一九二一(大正一〇)年一一月の第一回大会(東京日比谷公園グラウンド)から筆を起こしている。

小野卓爾 最初に全日本の優勝杯、FAカップを大会名誉会長エリオット駐日英国大使から授与された山田午郎主将(東京蹴球団)は、講談社の少年雑誌の人気投票で1等になったことがあるんです。

鈴木武士 少年たちのヒーローだったわけですね。それはサッカーの、ですか。

小野 そう。サッカーの選手で1等をとった。その午郎さんたちは(普及、技術向上のために)自費で北海道などを回ったんですよ。

鈴木 ところが、その東京蹴球団が大正121922年)の第2回大会に出場していない。なぜですか。

宮本能冬 予選で負けたんですよ。

(同書第一部より)

 座談会出席者のプロフィールは以下のようになる。

 山田午郎(一八九四‐一九五八)福島県出身。青山師範卒。小学校教員中の日本代表監督を経て一九二六年、朝日新聞入社。サッカー記者の草分け的存在。

 小野卓爾(一九〇六‐一九九一)北海道出身。札幌一中を経て中大サッカー部を創部し四二回大会では監督として優勝。一九三五年から一九七六年まで協会の要職を歴任。

 鈴木武士(奈良原武士)(一九三七‐二〇〇七)東京市出身。早大露文科卒業後、共同通信入社。九七年退社後フリー。

 宮本能冬(一九〇七‐一九九四)。青山師範卒。東京蹴球団(東蹴)第四代団長。JFA常務理事などを歴任。

 座談会で小野が挙げている「講談社の少年雑誌」とは、往年の人気雑誌「少年俱楽部」のことだろう。日本一を決める最初のカップ戦が行なわれた大正一一年は壊滅的打撃を及ぼした関東大震災の前年にあたる。江戸川乱歩がデビュー作『二銭銅貨』を書き上げた前年でもある。

 好意的に見れば、サッカー・ブームの萌芽のようなものが大正時代の後期にあったと言えなくもない。無理にこじつければ、一四年後の一九三六(昭和一一)年、ベルリン五輪でスウェーデンを破った日本チームは、山田の牽引したブームらしきものの落とし子ということにもなる。むろん、山田午郎の教え子たちの組織票によるつくりごとの一等であった可能性も否定できないが……。

「銀器献納」という歴史的転換点

 しかしここで目を向けて欲しいのはブームの萌芽についてではない。FA(イングランド・フットボール協会)からの大銀杯寄贈をきっかけに慌てて大日本蹴球協會(日本サッカー協会/JFAの前身)とア式蹴球全國優勝大會(天皇杯の前身)を創設したにもかかわらず、そのカップがどこにも残っていないのだ。

 消えたFA杯の話を更に続けよう。

 イングランド協会からカップを寄贈された一九一九(大正八)年は第一次大戦終結の翌年である。日英同盟(一九〇二~二三年)はなんとか効力を保ち(郵便物をイギリスから日本へ送る際の「植民地扱い=国内郵便と同額」は依然続いていたと思われるが)、大日本帝國は同年一月のパリ講和会議で列強の一つに数えられるようにまでなる。一九一九年は米騒動が各地で起き、原たかし首相の本格的政党(政友会)内閣が生まれた年でもある。

 事の顛末が『日本サッカーのあゆみ』に示されている。

今、50年記念誌の作製上、調査ができなくて困ると嘆いてはいるが、このころの毎日は『命懸け』だったのである。若い人にはわかってもらえないかもしれないが、国とともに死ぬ覚悟の毎日であった。

 1945(昭和20)年119日、スポーツ関係の銀器献納で、イギリスから贈られた意義深いFA杯など純銀製のもの5点は、ほかの競技団体のものと一括して姿を消した。今考えてみれば、遺憾にたえぬ次第である。

(第5章「世界の孤児」より)

 金曜日だったその〈一・一九〉を「スポーツじゆうりんの日」として記憶し続けた日本人は恐らく一人もいないだろう。文学者や画家の戦争賛美を問うた人はいても、スポーツ関係者の責任論を展開する者はなく、ひたすらスポーツ受難史観に守られるばかりなのである。だが、戦後その歴史的事実をどう考えてきたかについては、やはり問われるべきだろう。純銀製FA杯にまつわる苦いエピソードが今なお続く政治とスポーツとの隠微な関係性をあぶり出す。

 もっとも、戦時下の蹴球界は想像以上の圧力を受けていたようだ。皮革を用いる用具の制限が、日中戦争の勃発した一九三七(昭和一二)年の年末に始まっている。ボールは切符制となり、各地域協会に以下の括弧内の数で割り当てられたという(関東七四三、関西五六、中国一六八、東海一六五、東北八四、北海道八二、北陸六八、九州四八、朝鮮三八、台湾一二)。軍国主義が深刻化する中、〈鬼畜米英・英国発祥の競技〉という理由だけで補助金が出されないこともあったらしい。校庭の鉄棒までもが供出された時代である。しかしそれでもなお大日本蹴球協會が〈日本精神〉を鼓舞した事実は残る。

 決定的な記述が、この髙嶋こう(京大准教授)の労作『帝国日本とスポーツ』(塙書房、二〇一二年)の中にある。

蹴球界は外来スポーツ排撃の風潮にいちはやく対応した。一九三七年から「蹴球の鍛錬を通じて優秀な成果をもった日本国民を練成するのだといふ精神主義」を盛り込み、明治神宮大会前には参加者全員が芝の増上寺で錬成合宿を敢行した。その目的は「役員選士一団となって全生活を投じて神事奉仕の誠を致し、敬神崇祖の観念を強固たらしめ、滅私奉公を以て新東亜建設の礎たらんとする心身と健全有為の臣民中核分子の完成に寄与せんとする」ことにあった。翌年の明治神宮大会では錬成合宿を無断で欠席した盛岡中学が棄権に追い込まれている。

明治神宮大会の系譜 二「戦時下の明治神宮大会」より)

 先に引いた『天皇杯六十五年史』の座談会をさらに読み込むことで、一九三五(昭和一〇)年〈第一五回全日本選手権大会〉の優勝チームにFA杯が授与されていないことが分かってくる。次年に迫るベルリン五輪に向けての強化策として〈明治神宮体育大会〉(前名称・明治神宮競技大会/隔年開催)との切り離しがその年行なわれ、全日本選手権は学生、クラブも参加できる最高の大会としての〈全日本総合選手権〉に名称を変えている。

 FA杯は現在の国民体育大会の前身ともいえる〈明治神宮体育大会(兼全国地方対抗)〉の優勝チームに渡すことにして、〈全日本〉には代わりに日本蹴球協會杯を贈ることになった。それによりFA杯の授与は一九三七(昭和一二)年の〈第九回明治神宮体育大会〉優勝チーム(早大WMW)が最後となった。

 日本一を決めるこの大会で、従来通りの授与がなかった一九三五(昭和一〇)年の優勝チームは外地(植民地)・朝鮮予選で全平壌を破って初参加した全京城だった。二日間で三試合をこなしたクジ運の悪い東京文理科大学(現・筑波大学)との決勝戦を、一日二試合だけで済んだ全京城が六‐一で制し日本蹴球協會杯を授与されている。

 FA杯を外地に持って行かれそうになる事態と、てきがいしんを煽る〈鬼畜米英・英国発祥の競技〉──との関連性については不明である。この一九三五(昭和一〇)年時点ではまだ〈鬼畜米英〉のスローガンはなく、バイアスはかかっていなかったと考えたいが、一九三一(昭和六)年九月の満州事変(中国側呼称は九・一八事変)と一九三二(昭和七)年一月の第一次上海事変勃発以後は、軍事的成功により世論の空気が好戦ムードに一変している。一九三四(昭和九)年頃からは陸軍将校がそれまでの洋刀を日本刀に変え、「皇軍」という呼称が使われるようになっていた。

 一九三六(昭和一一)年の二・二六事件は、「小憎らしいまでに粒を揃えていた京城軍」(山田午郎)による「日本一」翌年のことである。全京城には三六年八月のベルリン五輪日本代表チームで活躍し、今も韓国内で伝説的存在のMミツドFフイールダーキムヨンシク(一九一〇‐一九八五)がいた。パクキヨンキムドツ著『日本は敵・JAPANは友』(オークラ出版、二〇〇二年)によると併合植民地からの日本代表候補は、天才スタープレーヤーキムヨングンはじめ七人に達したという。全日本選手権における(朝鮮)半島勢のその後の優勝はないが、ソン専門(高麗大学の前身)、ヨン専門(延世大学の前身)、全普成、全延禧などのチームが毎年優勝候補の一角を占めて行く。

 わかりづらい帝国日本のサッカー史をたどり始めると際限がない。だが、これだけは言える。四四年から敗戦(終戦)までの一年半で全体の九割もの戦死者を出し、そんもう率が通常戦争の限度を遥かに超えてもなお止められない異常さを象徴しているのが、敗戦数カ月前のFA杯供出なのである。近現代日本サッカーの起源ともいえるFA杯の真の価値を知る誰かが、フットボーラーのフットボール的責任において保存していたという至上の美談を諦めきれない私がいる。

「銀器献納」の事実は、重要な歴史的転換点の一つである。〈歴史は作り出すものではない。勿論、作り出したものではない。歴史が吾々を作り出したのである〉(福田つねあり「私の歴史教室」)──のひそみにならえば、サッカー界特有の不安定さもこの上なく当然なことのように思える。大会名称、日程、開催地の頻繁な変更は、草創期から続く負の伝統といえる。

 戦争によるサッカー界の損耗のひどさについては、日本選手権の第二一回(一九四一〈昭和一六〉年度)から第二八回(一九四八〈昭和二三〉年度)までの経過を次掲することで、より一層鮮明になるはずだ。

第二一回  中止

第二二回  中止

第二三回  中止

第二四回  中止

第二五回  中止

──―(敗戦)──―

第二六回  決勝 東大LB 六‐二 神戸経大(※LBはスクールカラー Light Blue より)

第二七回  中止

第二八回  中止

 伝統を誇る「天皇杯サッカー」も、そのはいは戦後の「東西対抗」勝者に授与されるものに過ぎなかった。竣工間もない仙台市・宮城野サッカー場で行なわれた一九五一(昭和二六)年五月の第三一回大会が、「天皇杯」と全日本選手権大会の結合した最初の大会なのである。

第一章 戦争から東京オリンピック前夜 一九二〇‐一九六〇年代(2)

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