喜びも悲しみも。戦場カメラマンが見つめた沖縄
沖縄の喜び、怒り、悲しみ……

1章 沖縄に生まれて

饅頭の記憶、両親の思い出

 私の「沖縄への想い」は、確実に両親から受け継いだものだ。沖縄の歴史小説や芝居の脚本を書いていた父・文一(本名・保田)の本籍は旧首里市鳥堀町一ノ一八。母・清(旧姓・安里)は首里市儀保町一ノ一六。父の実家は現在の咲元酒造前にあった饅頭屋「イシチャーマンジュウ」。赤く「の」と書かれた饅頭が評判で、県立一中や一高女などの入学祝いなどいろいろな祝い事によく売れた、と父が話していた。父と那覇商業の同級生で、卒業後ペルーへ行って「リマ日報社」を経営した伊集氏からの「湯気のでているあつい饅頭を一緒に食べたことが忘れられない」という手紙が残っている。

 私も「の」饅頭が並んでいたのを子ども心に覚えている。父は長男だったが、饅頭屋を継がず文筆業となった。私が一時帰郷した一九五七年、次男保盛は今帰仁な き じ んあめそこ小学校の校長、三男保吉は電電公社に勤務し、長女、次女も嫁いでいたので「イシチャーマンジュウ」はなくなっていた。

 一九七三年、私は撮影で、父が親しかったという瑞泉酒造の佐久本政敦さんにお会いしたとき、「君はミンタマー(目玉が大きい)でガッパヤー(おでこが大きく前にとび出している)でハナダヤー(鼻水が垂れている)。ワタブー(腹がふくらんでいる)でウーマクー(きかん坊)だったよ」と言った。私の沖縄での幼い頃を知っている人は少ないので、政敦さんの冗談が温かく心にしみた。

 父は一九二五年(大正一四年)に那覇商業を卒業した。その後、八重山へ行き、炭鉱の事務員となったが、退職し東京の日清生命保険会社に勤めた後、京都の太秦うずまさにあった日活映画脚本部に入った。辻吉朗監督とのコンビで「水戸黄門」「荒木又右衛門」等、時代物の脚本を書いた。

 叔父の保吉は戦前、那覇の平和館で上演された海江田譲二主演の「沓掛時次郎」を父の友人たちと見に行き、クレジットタイトルに「脚本・石川文一」の文字が現れたとき、皆の間から一斉に拍手が沸き起こったと言っていた。

 戦前の母の実家は、私もかすかに記憶がある。廊下に一個のマンゴーが紐で下がっていた光景が目に残っている。戦争で首里も廃墟となり、戦後は、小さな家に祖母と曽祖母が住んでいたので、何回か泊まった。昔は前に登記所があったという。

 祖父安里昌俊は沖縄戦で六一歳で防衛隊員となり、一九四五年五月二〇日、摩文仁で戦死した。

 母・清は首里城内にあった首里工芸(首里高女の前身)を卒業後、父・文一と結婚した。結婚後、二人は一時期、東京へ行ったが帰郷して一九三五年に兄、三八年に私が生まれた。父はその頃、那覇市の安里にあった首里バスの車庫前に住み、小説を書きながら本屋と琉球叢書発行所を営んでいた。

作家だった父

 私のかすかな記憶の中に車庫と本屋が残っている。二〇年以上前に那覇で写真展をしたとき、「沖縄女性史を考える会」の島袋智子さんがみえて、智子さんが書いたエッセイをいただいた。ベトナム戦争を撮るようになった石川カメラマンが子どもの頃、安里の本屋の前で遊んでいる姿を見かけた、父親の文一さんは本の売り場でいつも原稿を書いていた、という内容だった。

 他にも本屋のことを覚えている方には何人かお会いした。当時、父に来た手紙の宛書には「那覇市外安里駅前」又は「那覇市外一高女前」となっている。戦前、那覇から糸満線、与那原線、嘉手納線と軽便鉄道が走っていて安里駅があったとのこと。父の遺品の中に自分の本や作・演出をした芝居の新聞広告やチラシがたくさんあった。新聞、広告、チラシ、手紙などから当時の沖縄の様子が想像される。

 本はいずれも琉球叢書発行で『護佐丸誠忠録』三〇銭とある。『琉球の傳奇小説集』『琉球の武勇傳』『大新城忠勇傳 附属伊江島ハンドー小』『毛氏の系図 忠臣護佐丸とその子孫』など。

 芝居のチラシとしては眞楽座上演、石川文一作・演出による「廃藩」があり、役者は平安山英太郎、宮平壽郎、大見謝恒幸、比嘉良順、知念喜康。「男ぬ心(いきがぬくくる)」には「廃藩」の五人のほかに玉城盛義、儀保松男が出演した。他にも「尚巴志王」「オヤケアカハチ」「北山興亡史」「鬼大城と川平里之子」などがあった。珊瑚座「為朝漂流記」には島袋光裕、眞境名由康、鉢嶺喜次、親泊興照、比嘉正義、宮城能造。南進座「十二月八日」には眞境名由康、島袋光裕、池原清治、鉢嶺喜次。ハナフサ団「赤田御門 怨みの仲風節」のチラシもあった。沖縄戦になる前、沖縄芝居が盛んな頃の一端が現れている。

 大きく新聞の四分の一を使った映画の広告「護佐丸誠忠録」も残っていた。「沖縄で撮影、完成した琉球大史劇で、珊瑚座総出演、ミス沖縄、ホート小まかて(翁長玉枝)、金春樓つる(上間郁子)特別助演活躍。出演者・平良良勝、眞境名由康、島袋光裕、我如古弥栄、親泊興照、宮城能造、比嘉正義。監督・石川文一」と書かれている。

 一九三九年一一月一一日付、『週刊朝日』からの手紙があった。『週刊朝日』募集の「新日本文芸」に父の作品「一升田ト ン グ ダ」が三席で入選したので写真、略歴を至急送るようにと書かれている。

 同年一二月刊行『週刊朝日』の当選発表欄の切り抜きには、一席「国定忠治とはこんな男」(作・霞五郎)賞金三〇〇円。二席は三人で二〇〇円、三席八人一〇〇円。当時の一〇〇円がどれくらいの価値があったのか分からないが、永井荷風『断腸亭日乗』に一九三九年、『濹東綺譚』五〇〇部増刷で岩波書店から一五〇円受領したとある。

 受賞した人たちのなかに、関東軍錦州○○部隊気付や満洲の大連市の住所があり、部隊名を○○としているところに戦中の時代が感じられた。父の住所は那覇市外安里駅前となっている。小説「一升田ト ン グ ダ」は今、私の手元にもあるが、薩摩の侵略による人頭税で苦しんだ琉球国時代、人口の多かった与那国では食料不足のために時間を合図に水田に人を集め、入りきれなかった人を殺害。久部良にある岩礁の割れ目を妊婦に飛びこえさせ、落ちた妊婦は胎児とともに死亡するという悲しく残酷な人減らしの伝説を素材にしている。

 入選を祝う葉書が数通あるが、同じく三席で住所が「関東軍○○部隊気付」とあった高橋正信さんから「草原と砂漠の真ん中でランプ生活をしています」という葉書があった。部隊はモンゴル方面にいたのだろうか。面識はなかったようだが、沖縄生まれという父の経歴に関心を抱いたのかもしれない。「冬でも沖縄は暖かいでしょう」と書かれている。

 那覇局・野球の国場幸輝、という葉書もある。後に沖縄の高校野球、社会人野球の発展に尽力されたあの国場さんだと思う。一九五九年帰郷したとき、当時、栄町に住んでいた父のところに泊まったが、国場さんが迎えにみえて、夜の那覇を案内して下さった。

 奥さんの名が皇太子妃(当時)の美智子さんと同じとPRし、持参のバイオリンの腕を酒場で披露した。そのずっと後、夏の甲子園大会を撮影に行ったとき、ネット裏で国場さん、石川高校の元野球部選手で、石川高校の校長もされた石川力さんほか、沖縄高野連の人々と会ったので記念写真を撮影した。

『週刊朝日』懸賞小説当選のことなどもあって父は、本土で創作活動の場を広げたいと考えて、移住を決意したと母から聞いた。父とは一八歳まで一緒に生活したが、父は沖縄に帰り、私は本土に残ったので、その後は沖縄で会う程度になってしまった。両親とも沖縄で亡くなったが、私が沖縄にいた頃の状況やその前の沖縄について二人からいろいろと聞いておけば良かったと悔いが残る。

あだ名は「オキナワ」

 一九四四年四月、船橋市立八栄国民学校に入学した。私は母の安里家を継ぐことになっていたので、中学卒業まで安里姓だった。石川家を継ぐ兄が病気になったので高校から石川姓になった。

 本土に来ても家庭で両親はウチナーグチ(沖縄語)。入学したとき、共通語が少し怪しかったこと、安里という姓が珍しいこともあって先輩たちから「オキナワ」というあだ名がつけられた。

 沖縄出身ということで小中学時代から差別を受けたことはないし、私自身引け目を感じていなかった。高校に入ってから沖縄戦、沖縄の基地などに関心を持ち、自分からウチナーンチュ(沖縄人)PRした。後に「オキナワ」というあだ名そのものが差別だったのではないか、と沖縄の友人から言われたことがあるが、私は差別とは受け取っていなかった。

 でも、後からあれは差別だったのではないか、と考えられることが一度だけあった。中学校の同級生と森へ栗拾いに行く約束をして、その家に迎えに行ったところ、同級生の父親が、一緒に行ってはいけない、と息子に告げた。

 父親は「あの子は沖縄の子だろう」と言った。それが息子を止めた理由のようだった。そのときの状況はよく覚えている。その父親は有名な国文学者だと担任の先生が言っていたので、その名前は今でも記憶にある。

故郷の「玉砕」

 小学校二年生のとき、学校に配属されていた将校から「オキナワ、お前の故郷は玉砕したぞ」と言われた言葉は今でも忘れられない。当時、小学校高学年生や町の青年が校庭で木の銃や竹槍を手にして軍事訓練をしていた。

 そのときは「玉砕」の意味は分からなかったが軍が全滅したことを父から聞いた。直接、戦争の被害がなかった千葉県船橋市に住んでいた私は戦争の実態は分からず、私の戦争の記憶は戦中、戦後の極端な物資不足だった。継ぎ接ぎだらけの衣類を着て常に腹を空かせていた。

 とくに食料難は酷く、その経験がない今の人たちには想像がつかないだろう。米はごくわずかでサツマ芋、トウモロコシや小麦の粉、大麦などの代用食が配給になった。サツマ芋の芽をとった後、栄養分のなくなった種芋まで食べた。

 兄と一緒に収穫が済んだサツマ芋、ジャガ芋畑へ捨てられた小芋を拾いに何度も行った。戦争は国を貧困にすることを知った。定時制高校を卒業した一九五七年、一五年ぶりに沖縄へ帰り、母の実家に泊まった。祖父は防衛隊員として戦死、祖母と曽祖母が二人だけでバラックのような家で生活していた。砲弾に追われ首里から南部まで逃げた様子、難民収容所での生活を言葉少なく語った祖母の話から戦争の実態を強く感じた。

 自分自身の食料難の体験、戦火を逃れた祖母の話は、後のベトナム戦争取材中に目撃した民衆の悲劇と重なり私の戦争に関する考えの原点となった。その考えとは「戦争は命を奪う。個人、公共の財産、文化財、自然を破壊する。軍隊は民衆を守らない」などである。

空襲体験

 戦争中、私が住んでいた千葉県船橋市は、東京大空襲で被害の多かった墨田区や江東区から一五キロほど離れていた。

 空襲はなかったが、空襲警報で、父が庭につくった防空壕に一回だけ入ったことを覚えている。また、夜間、東京方面空襲の行き帰りのB29が探照灯に捕らえられながらも、高射砲の弾が届かない高度をゆうゆうと飛行している様子がたびたび見られた。

 それでも時々、日本の戦闘機と交戦して機関銃の曳光弾が飛び交っていた。炎上しながらもB29が墜落せずに飛び続けているのを不思議に思ったこともある。

 ある日、東京方面の空が燃えるように明るかった記憶がある。今考えると、一九四五年三月一〇日の東京大空襲の日だったと思う。私の七歳の誕生日だった。

 戦争の恐ろしさを肌で感じたのは学童疎開で本土に来た兄を、一九四五年六月母に連れられて九州まで迎えに行ったときだった。兄は首里の祖母の家に残っていて、師範学校附属小四年生だった。兄が乗った疎開船は一九四四年八月、対馬丸と共に那覇を出港した三隻のうちの一隻だったか、その前後の船だったかは覚えていない。鹿児島に滞在していた母の妹のところにいたので、翌年迎えに行ったのだ。

 空襲の中だったのか、その前後のことだったのか、よく分からない。それでも、兄を迎えに行った幼いときのことは、戦争を考えるうえで、もうひとつの原点にもなっている。それは大勢の命が奪われた対馬丸の沈没をはじめ、沖縄から本土への疎開船、南洋群島からの引揚船の沈没を、疎開してきた兄を通して戦争の犠牲者として身近に感じてきたからだ。

 兄を迎えに行く途中でも空襲を体験した。たとえば静岡の駅周辺は空襲で焼けており建物からは炎と煙が出ていた。負傷者の体中を覆っていた包帯は血や油で滲んでいた。空襲をまぬがれた病院に運ぶためか、次々と負傷者が列車の床に寝かされた。その様子を見ていて、可哀想というより、恐ろしくなったことを覚えている。私が初めて見た戦争の生々しい犠牲者の姿だった。その後、ベトナムやその他の戦場で傷ついた人を見るとき、静岡の光景と重ね合わせることがあった。

 本土の空襲が本格的に開始されたのはサイパン、テニアンの日本軍全滅後の一九四四年一一月下旬から。静岡大空襲は四五年六月一九、二〇日。大空襲で電線が切断されても、石炭機関車だから動いていたのだろう。

 当時、教室には赤い顔で角が生えた鬼のような「鬼畜米英」の兵士のポスターが貼ってあった。授業が始まる前の朝礼では、校庭で「君が代」を合唱し、皇居の方向へ「宮城遥拝」が行われた。「行軍」といって遠くまで歩かされたが、戦後は「遠足」と呼び方が変わって楽しい行事となった。

 八月一五日の敗戦の日はよく覚えている。団地に住んでいたが、ラジオのある家に主婦たちが集まっていた。水曜日の昼だったので男たちは仕事に行っていたと思われる。玉音放送を聞きながら泣いているおばさんたちを見て、何が悲しいのだろう、と思った。七歳の私には戦争の勝ち負けよりは戦中、戦後の貧しい食料事情の方が強く印象に残っている。

第2章 沖縄戦の記憶(1)

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