東スポ名物記者による馬場、鶴田、デストロイヤー
「馬場夫妻のキューピッドは巨人の名選手」「元妻と同じ名前の女性と再婚したデストロイヤー」「鶴田のお手製ラーメンが好物だったハンセン」……など、とっておきの15人の秘話を初公開! 初めて明かされる超人たちの素顔とは。他にも「岐阜の病院に極秘入院した鶴田」「乱闘で警察沙汰となったブッチャー」「猪木の米国進出を阻止した馬場」などなど、プロレス秘話が盛りだくさんの1冊!
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19748月、NWA年次総会

 居並ぶメンバーの顔触れに身震いした。全米のマーケットを仕切るボスたちの集い。壮観だ。まるで、映画「ゴッドファーザー」のワンシーンのようである。プロレス経営者・馬場正平の凄味に初めて触れた。

 197483日、4日(現地時間)の2日間、米国ネバダ州ラスベガスのデューンズ・ホテルで開かれたカナダ、メキシコ、豪州、ニュージーランド、日本を含むプロレス・プロモーター組織、NWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)の年次総会における昼食会でのことだ。

 NWAの会員は、すべて個人名義。全日本の旗揚げは7210月。馬場はその翌7323日、セントルイス(NWAの本部所在地)の緊急役員会ですでに加盟認可されている。その役員会の招集は馬場加盟のためだったといわれる。

 会場のデューンズ・ホテル入口には、総会の前日から「『コンベンション・ナショナル・レスリング・アライアンス』ウエルカム」のアーチがあった。

 取材者である私がボスたちの集う昼食会に……場違いだ。「(1人では)退屈するだろう」という馬場流の配慮だった。

 馬場ファミリーのテーブルは馬場夫妻にジョー樋口レフェリー、日本テレビの原章プロデューサー(後に日テレ系福岡放送会長)と私である。

 ホールはやたらと広い。両端がよく見渡せない。中央のテーブルには、セントルイスのサム・マソニック会長、豪州のプロモート権を売却し米国に戻ってきたばかりのジム・バーネット(前NWA書記)、カンザスシティのボブ・ガイゲル。これを取り巻くように、ジョージア州アトランタのジム・クロケット・ジュニア、テキサス州ダラスのフリッツ・フォン・エリック、同州ヒューストンのポール・ボーシュ、馬場。前年、父親(ドリー・ファンク・シニア)を亡くしたばかりのファンク兄弟、オレゴン州ポートランドのドン・オーエン、テネシー州のニック・グラス、カナダ・バンクーバーのジン・キニスキーら主流派の面々が一堂に会した。

 南部フロリダ州タンパの大物プロモーター、エディ・グラハムは欠席、その代理として息子のマイク・グラハム、バディ・フラーが出席。元NWA世界ヘビー級王者パット・オコーナー、ジャック・ブリスコがいる。

 一方、反主流派のグループはホールの片隅だ。東部一帯を仕切るワシントンDC&ニューヨークのビンス・マクマホーン、バッファローのフランク・タニー、ロサンゼルスのマイク・ラベール、カナダ・モントリオールのジャック・ルージョーらだ。オブザーバーとしてAWA(アメリカン・レスリング・アソシエイション)のボス、バーン・ガニア(ミネアポリス)の姿があった。

 いずれ劣らぬ〝ドン・コルレオーネ〟ばかりだ。これがプロレス興行の実態か、全米マーケットの80強のシェアを占めるNWAの勢力図がいっぺんに俯瞰できた。名前と顔が一致しない大物はジョー(樋口)さんに教えて貰った。この経験が後の取材活動の糧となり、テレビ東京「世界のプロレス」や格闘技専門局サムライTV「プロレス名画座」で生かされてくる。

猪木もラスベガス入り

 実は、この時、アントニオ猪木もNET(テレビ朝日)の泉専務を伴ってラスベガス入りしていた。新日本は全日本より半年以上前に旗揚げしながら、NWAへの加盟申請は、願いむなしく却下されている。NWA幹部に強い発言力を持つ馬場の妨害によるものだ。猪木の一行は「ことしこそ加盟を!」の意気込みでアウェーのベガスに乗り込んできたのだ。

 年次総会が開かれた1974年といえば、国際プロレスのエースだったストロング小林がフリー宣言、猪木との日本人同士の大物対決が実現。そこに韓国の大木金太郎(キム・イル)も絡み、俄かに日本マット統一戦開催の気運が高まり、業界がもっともキナ臭かった時期だ。

 ホテルの2階ラウンジに猪木と泉専務の姿。避けて通れない。俺は、いま両雄がリング外で張り合うヤバイ現場に立ち会っている。プロレス経営の起業家同士、これは企業戦争だ──身が引き締まった。私が所属する東京スポーツ(東スポ)の見出しなら、不夜城ラスベガスで馬場猪木の暗闘、となる。

「下手な言葉はかけられないな……」急に怖くなった。

 一緒のテーブルにつくなり、なぜか、ビールと冷ややっこをオーダーしてしまった。緊張しているためだ。NWAのミーティングは長引いている。非会員の猪木は会議場に入れない。

「ラスベガスで冷ややっこかよ」と猪木は笑っている。彼との会話は他愛のない世間話。待つ身は辛い。隣りの催し物、フランク・シナトラのショーが気になって落ち着かない。

 かなりの時間が過ぎた。周辺のネオンが灯り始めたころ、NWAのメンバーが1階ロビーに降りてきた。ミーティングが終わったらしい。立ち話の輪の中心にいたのは〝鉄の爪〟フリッツ・フォン・エリックだった。後ろからポンと肩を叩かれた。

 振り向けば、人なつこいヒゲの巨漢ゴリラ・モンスーンの笑顔が──。

「いやあー、しばらく……」

「元気そうだね」

 馬場と猪木が互いに姿を認め、白い歯をのぞかせながら、挨拶を交わしている。私のホテルにおける情景描写はそこまで……。それ以後の2人の立ち振舞いはまったく記憶にない。

猪木と馬場の会話

 そこで東京スポーツの縮刷版より、74816日付からの短期連載(3日間)、「ドキュメントNWA ラスベガスの総会で何が起こった!」の紙面を元に振り返る。

 猪木のNWA加盟はまたも却下された。

 猪木「なんだかさっぱりしたような気がする。完敗だね。でも、この加盟にはそれほどこだわらないよ」

 馬場「ウチの信用が勝ったのだと思う。勝ったという表現はよくないが、やはり自分は猪木に投票できない立場だからね。一度、ゆっくり話し合いをしなければならないな」

 猪木「そうだね、あとで連絡するよ」

 総会のあとの2人の表情は周囲が騒ぐほどとげとげしいものではなかった。

 この記事は筆者が帰国後にまとめ、デスクの山田隆記者(日本テレビ解説者)が手を入れたNWAの内情を伝えるレポートだった。

 猪木のコメントは「この加盟にはそれほどこだわらない」とさりげないが、明らかに負け惜しみのセリフ。心中にくすぶる怒りは半端でなかった筈だ。馬場のオーナーとしての立場を理解しつつも「いつかやっつけてやる」と切歯扼腕していたのが痛いほどわかる。

 猪木のNWA加盟が認められるのは、それから1年後の759月のことだ。足かけ3年を要した末の加入だった。とは言っても、アントニオ猪木の名義はない。新日本で新メンバーとして加盟を認められたのは、副社長の坂口征二、専務の新間寿の2人であった。馬場はNWAの組織から猪木の名を徹底排除したのである。

 新日本がせっかくNWAのメンバーになっても、肝心の世界チャンピオンは呼べなかった。お客の呼べる強豪、人気選手は、馬場の手でコントロールされていたのだ。NWA中枢と結びついた馬場の「猪木包囲網」は磐石だった。

 まだ、日本のプロレスが発展途上のころで、外国人選手のネームバリューとパワーに頼らざるを得ないのが現状だった。これでは商売にならない。

 猪木・新日本がNWAの反体制派、ビンス・マクマホーンのWWF(ワールド・レスリング・フェデレーション)に接触、高額なギャランティー提示を承知で業務提携を結んだのも当然の成り行きだった。

「馬場さんがいたからこそ、アリと戦った」

 馬場と猪木が並走する双頭のプロレス、この企業戦争から、後の新しいジャンル、総合格闘技が発生する。猪木はテレビ朝日の資金力をバックに、新日本の知恵袋といわれた新間寿の企画力とアイディアによって、窮鼠猫を噛む想いで思い切ったギャンブルに出た。762月のウィレム・ルスカ戦、同年6月のモハメド・アリ戦である。

 センセーショナルな2つの興行の成功によって異種格闘技路線が確立され、猪木・新日本は馬場・全日本を1馬身引き離したことになる。

 アントニオ猪木は075月、筆者のインタビューで自らの格闘技人生を振り返り、「感謝しているよ。馬場さんがいたから、ここまでやれた部分がある」とジャイアント馬場の存在がいかに大きかったかを素直に認めている。

 馬場に喧嘩を吹っ掛けた参謀・新間寿はこう述懐する。

「馬場さんのアメリカにおける人脈には、なかなか勝てないという現実的な問題(NWA加盟問題)があった。外国人レスラーの質や知名度で新日本は全日本に勝てない。どうしたら海外に認められるか、当然考えますよ。ある意味アントニオ猪木は馬場さんがいたからこそ、格闘技世界一決定シリーズを始めて、モハメド・アリと戦ったんですよ」

「仮定の話になってしまうけど、馬場さんという存在がなければ、猪木はもっとオーソドックスなプロレスをやって、あんな危険な試合を何度もやらずに済んだかも知れないね」

 国内のマーケットを二分したプロモーターの争い。序盤戦で、台頭してきたライバル猪木を政治力・外交力でねじ伏せた馬場は、NWA(全米)のマーケットでも、日本のボスとして確固たる地位を築く。

 そのベースとなったのは、ほかならぬ23歳から26歳にかけての米国武者修行における輝かしい実績である。日系の〝大悪党〟グレート東郷がマネージャーとしてつき、〝鬼コーチ〟フレッド・アトキンスのもとで修行した馬場は、ニューヨーク、ワシントンDCなど東部一帯をサーキット、五大湖周辺、NWA本部のあるセントルイス地区でも大暴れした。

「ビッグ・ババの試合は儲かる」

 その馬場の米国武者修行時代の後半のことである。19631215日、師匠・力道山の急死によって事態が急変、日本プロレスから帰国命令が下る。644月開催の「第6回ワールド・リーグ戦」への出場要請だった。

 64年といえば、東京オリンピック初開催で日本列島が熱気に包まれていた時だ。馬場はこの年、米国内で予定されていた試合スケジュールをキャンセルせず、各都市を転戦。25日、デトロイトでルー・テーズの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦、217日、ニューヨークのMSGでブルーノ・サンマルチノの持つWWWF(後WWF)世界ヘビー級王座に挑戦、そして320日には、ロサンゼルスでフレッド・ブラッシーの持つWWA世界ヘビー級王座挑戦と、1ヵ月半の短期間で世界3大タイトル挑戦という驚異的な暴れっぷりをやってのけた。

 惜しくもベルトは逃したものの、これだけの大仕事を短期間でやった選手は、全米マットでは前例がなく、伝説的記録として語り継がれている。いずれのビッグ・マッチも会場はフルハウスで、「ビッグ・ババ・ショウヘイの試合は儲かる」と。全米各地のプロモーターの懐を潤したのだ。

 ジャイアント馬場の歩んだコースは、プロレス興行におけるアメリカのメーン・ストリートのようなもの。一方のアントニオ猪木のコースは、ロサンゼルスを拠点にテキサス、ルイジアナ、テネシー、フロリダとローカルばかり、従って知名度が低い。NWAのマーケットにおける貢献度と信頼度は、馬場と比べようもなかった。スターと無名選手、月とスッポンの差である。

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第1章 ジャイアント馬場 王道プロレスの牽引者(2)

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