設立者のジャイアント馬場没して14年、全日本プロレスは2013年10月、ライバル団体新日本プロレスに7ヵ月半遅れて、創立41周年を迎えた。アントニオ猪木の新日本とせめぎ合い、常に比較対照されてきた一方の盟主である。
力道山にはじまった〝昭和プロレス〟は、その直弟子ジャイアント馬場とアントニオ猪木が競り合うことによって完熟、第二期黄金時代を構築したといえる。日本プロレスの内紛、崩壊から、袂を分かち、馬場は全日本(日本テレビが放映)、猪木は新日本(NET=テレビ朝日が放映)とそれぞれ独立。興行戦で激しくぶつかり合った。1972年から80年代にかけての全盛期だ。
この間、全日本新日本の苛烈な興行戦争から弾き出されたのが、吉原功代表の国際プロレスと韓国の猛虎、大木金太郎(キム・イル道場)だった。〝金網の鬼〟ラッシャー木村(国際プロレス)も〝原爆頭突き〟の大木も所詮、全日本と新日本の台所を潤す引き立て役でしかなかった。
馬場と猪木のレスリング・ウォーを「双頭のプロレス」と呼びたい。闘魂を標榜し強さを追求した猪木に対し、馬場は「明るく、楽しく、激しい」のキャッチコピーを売りに、プロレスの総合力で勝負したのである。
「信用」と「信頼」をプロレス・ビジネスの理念とした馬場のもとには、いい外国人レスラーが集まった。約束事をしっかり守ったからだ。
悪の権化のような〝黒い呪術師〟アブドーラ・ザ・ブッチャー、火を噴く〝アラビアの怪人〟ザ・シークから、〝不沈艦〟スタン・ハンセン、〝暴走コング〟ブルーザー・ブロディのミラクルパワー・コンビまで、世界のトップが屯した特別なリングだった。
これを迎え撃ったのは、209センチのジャイアント馬場、196センチのジャンボ鶴田、189センチの天龍源一郎。彼らが大型の外国人選手に体力負けせず、互角に渡り合い、スケールの大きなファイトを展開したことで、会場が異様に燃え上がった。
そんなプロレス万華鏡を彩った怪豪、傑物は数えきれない。いずれも劣らぬ個性派、鬼才ばかり。御大・馬場に可愛がられた大仁田厚、〝毒霧〟とペインティングで観客を魔界に引きこんだザ・グレート・カブキがいた。馬場的プロレスの流れを汲んだ三沢光晴、小橋建太もいた。限られた紙数では書き尽くせないほどだ。
時代が21世紀に移行しても、全日本の団体カラー「赤」は、いまなお色褪せていない。本書は、拙著『新日本プロレス12人の怪人』に続く第2弾、馬場べったりの記者が綴る「全日本プロレス紳士録」である。
全日本の創生期に貢献したブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキー、ハーリー・レイスは外させてもらった。ファンの方には謝らなければならない。昭和プロレスを真っ当に伝えるアンカーとして、フィクションなし、この目に触れた事実だけを書いたつもりである。ビデオやDVDで見る「プロレス観賞」の手引きになれば幸いです。
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