陰鬱で貧相で個性のない町は「売り物」にできるか?
グローバル化で、国家、都市はカネ・ヒト・エネルギーを呼び込むために、あたかも企業のような売り込みが必要になった。中でもロンドンにある「INSTID」は、売り込みにくい旧ソ連の都市をブランド化する組織。モスクワのはるか南、知名度もない、貧相で個性のないリペツクを活性化させることはできるのか? 英ガーディアンによるレポート。

「国家の宣伝、承ります!」

急成長する「ネーション・ブランディング」ビジネス

 世界中の国や都市が自分たちの魅力を売り込もうとする昨今、それを請け負ってくれる業界が登場している

取材・執筆 サマント・スブラマニアン

リペツクの正教会 Photo/Getty Images

 リペツク(Lipetsk)という地名は地図に掲載されている。『コリンズ・ワールド・アトラス』の23ページだ。モスクワのはるか南方、ウクライナとの国境からさほど離れていない場所に位置し、人口120万の州(地方)だ。しかし、実質的な意味でリペツクが地図に「掲載」されているかというと、そうではない。わたしたちが頭の中で思い描く漠然とした地図には見当たらない——周りでわざわざそこまで観光に行く人などいないし、外国の新聞に登場する地名というわけでもない。ロシア人ですら、どこにあるか知らないこともある。9月にナターシャ・グランドはリペツク訪問の帰途にモスクワを経由した際、ロシア人の知人に自分の訪問先について話した。すると彼は、冗談気味にではあったがこう答えた。「リペツクがどこにあるのかすらわからないなあ」。ロシア人の中には「ヴィーツェプスク(Vitebsk)」と混同する者もいるが、こちらはベラルーシの街だ。

 しかし、実はこれこそがナターシャ・グランドがリペツクを訪問した目的だった。リペツクのブランドを明確にし、イメージを構築し、人びとが想像する地図のなかに「掲載」させるという仕事だったのである。ナターシャと夫のアレックスは、ロンドンにある「アイデンティティ研究所(略称「インスティッド(INSTID)」)という組織の創設者だ。インスティッドは世界の国や地域、都市の当局と連携し、ブランド力を高めるための戦略を構築している。業務の中には観光プロモーション的なもの——キャッチフレーズや旅行記事向けのロゴマーク一式を考案するといった類いのことだ——も含まれるが、グランド夫妻の活動はそれよりも深いところに関わるものだ。対象となる場所のアイデンティティそのものを発掘し、形を整えることができると夫妻は考えているのである。「アイデンティティ」とは言っても、あくまで「一側面」ではある。近隣地域についてさまざまな評価があるなかで自分たちが目立つ方法やリソースの配分、世界に対してアピールする際のイメージ形成に各地の政府が取り組むに当たって、拠り所となるようなアイデンティティというわけだ。

「ネーション・ブランディング」

 21世紀になって、「ネーション・ブランディング」ビジネスは活況を呈している。このビジネスに携わる者は、自分たちの仕事はそれ以前に展開されていた、よりストレートな形のマーケティングや宣伝活動とは違うということをなんとかして強調しようとしている。ずば抜けて優秀なコピーライターはイスラエルのモーゼを「約束の地(に導く者)」として売り出したし、「赤毛のエイリーク」は巨大な氷で覆われた地に入植者を呼び込もうと、そこを「グリーンランド」と名付けた。ミルトン・グレイザーがデザインした「I♥︎NY」は数え切れないほどのTシャツにプリントされたし、ラスヴェガスの広告会社は「ここでのことは、ここだけのこと」という、魅惑的な背徳感を包み込んだコピーを作り出した。しかしグランド夫妻に言わせれば、これらはいずれも単なるキャッチフレーズにすぎない。夫妻は自分たちの仕事を一種の心理学、すなわち国に対するカウンセリング、街に対するセラピーと位置づけている。自らを見つめ直し、自己を探求し、世界の中での居場所を見つけてみましょう、というわけだ。

 グランド夫妻が得意とするのは、一般的にはハードルが高いとされるケースだ。旧ソ連の都市や地方である。リペツク州でのクライアント、観光文化局は同地域の行政面での中核市——その名前も「リペツク」だ——にある地味なビルの5階に置かれている。局のトップはワジム・ヴォルコフという名の、四角い顔に寸胴型の体型をした男性だ。彼はグランド夫妻に対し、リペツクには複雑な思いがあるのだと打ち明けた。彼は地元の人間で、グリヤジ——直訳すれば「泥」を意味する——という町の出身だ。リペツク州には愛着があるが、グリヤジは好きではないという。アメリカに住んだことが一度あり、そのときはミネソタでレストランのシェフとして働いていた。しかしそこで暮らした2年間で時差に適応することがどうしてもできず、帰国することにしたという。他の土地を訪ねるのは気が乗らないタイプで、妻に11日間の日程でロドス島でのバカンスに連れ出されたときには、4日で切り上げてしまった。「何をして過ごせば良いかわからなかったんですよ!」と彼は言う。それほどに彼はリペツクにとどまっていたかったのだ。

 同時に、リペツクは変わらなくてはいけないともヴォルコフは考えていた。その年の初めに、観光局のスタッフが地元を代表するような土産物のラインナップを検討したことがあったが、そこで彼らが気づかされたのは、地域の明確なイメージが欠如していることだった。リペツクには方向性、つまり目的意識が必要なのです——グランド夫妻にヴォルコフはそう訴えた。隣接する州にヴォロネジという都市があり、ここは誰でも知っているような地名だ。彼はリペツクがヴォロネジ以上に有名になってほしいと心から願っていた。ヴォルコフは同郷の人間が海外に出たらこんな会話を交わすのではないかと、英語で説明した。

「ご出身は?」

「リペツクです」

「ええと、どちら?」

「ヴォロネジの近くの都市ですね」

「ああ、はいはい。ヴォロネジなら知っていますよ!」

 グランド夫妻はメモを取った。

グローバル化で、国家は自国を売り出す必要が出てきた

 各地の政府はインスティッドのような組織に熱心にアドバイスを求めるようになっている。国を国たらしめるのは何なのかという疑問は、永遠に答えの出ない問題でありつづけている。しかしだからといって、その問いから逃げることはできない。現代の国民国家はいずれも、特質として認識されたもの、固有と考えられるなんらかのアイデンティティを基盤として国を造ってきた——たとえそれが真実と嘘、省略と誇張が混じり合ったものであろうとも、だ。

 ところが、1990年代以降、とりわけダボス会議が注目を集めていった頃、グローバリゼーションの大合唱によってそれまでの考えは影が薄くなっていった。国家は地球単位のマーケットの露店にすぎず、替えのきかない国民精神のロマンチックな結晶なのではない、と。国家は企業のように扱われるようになり、それに沿う形で振る舞うべきと考えられるようになった。カネや影響力、ヒトが自由に往来できる時代にあって、そうしたエネルギーを呼び込もうと欲する国家は自国を懸命に売り出す必要が出てきた。おそらく史上初めて、国家のアイデンティティは世界に対して国民を結びつけるものではなく、世界を引き込むためのものになったのである。

 より最近では、グローバリゼーションによってヒトの移動や資本の流動化などがもたらされたことで、国が長年抱いていた自分たちが何者かをめぐる常識が根底から揺らぎ、国民国家の存在意義が再考を迫られることとなった。新しい学校に入ったティーンエイジャーのように、地方にせよ国にせよ——リペツクでもアメリカでも、ということだ——、自らのアイデンティティに分析を加え、中身を入れ替えた上で新たに造り上げていかなければと感じている。ブレグジットを例に挙げてみよう。煎じ詰めて言えば、イギリスの真のアイデンティティ——正しく認識されたものであれ間違って認識されたものであれ——が欧州連合(EU)という浅瀬のなかに埋没していることへの怒り以外に、ほかに何が要因として考えられるだろうか?

 こうしたアイデンティティ・クライシスは、一方で「血と土」式のポピュリズムが反動的に拡大する結果をもたらし、他方で「ネーション・ブランディング」の台頭をもたらした。両者はある種の鏡像だと言える。民族アイデンティティについて、片方はそれを不変なものとして捉え、その再発見を新たな偉大さの序曲と認識するのに対し、もう片方は洗練させて市場で売り出していくべき商品と見なしている。しかし、双方ともに——方法は異なるが——国の本質を取り戻すか、構築しようとしているという点では共通している。国のアイデンティティを管理したりアピールしたりするべく専門家に協力を仰ごうというニーズは高まる一方だ。この分野のパイオニア的存在のサイモン・アンホルトは、この20年で50以上の政府をクライアントにしてきた。アンホルトが立ち上げた学術誌『プレイス・ブランディングとパブリック・ディプロマシー』は、創刊から13年にもなる。2015年には「国際プレイス・ブランディング協会」という組織が結成され、今年(訳注:2017年。以下同)12月にスウォンジー(訳注:イギリス南部の都市)で第2回年次総会が3日間にわたり開かれる予定だ。

 Photo/Getty Images

 旧ソ連でグランド夫妻は、ソビエト時代の過去を捨て去りたいが将来に向けて自分たちをどう位置づければ良いか確信が持てない都市や地域、各共和国に対しコンサルティングを行ってきた。そうした理由もあって、グランド夫妻——ベラルーシ出身のナターシャとロシア出身のアレックスがそれぞれロンドンに出てきた一因はそうしたニーズに応えようとしたからだった——はモスクワやミンスク、エレヴァン、バシコルスタン共和国や沿海地方(訳注:ウラジオストクを含む地方。「沿海州」とも)などの活動に取り組んできた。リペツクの観光局長、ワジム・ヴォルコフは、インスティッドがバシコルトスタン共和国のすぐ隣に位置するタタールスタン共和国で見せた成果に強い興味を抱いていた。彼はリペツクについても同じことができないかと考え、企画入札を実施することにした。6社が応札し、インスティッドが落札した。今年9月、グランド夫妻はリサーチャーとグラフィックデザイナーを伴って、リペツクに初出張した。地域の特徴を見きわめ、それをいかにして現地の人びとに説明していくかというプロセスに着手することが目的だった。

クロアチアをブランディングする

「ネーション・ブランディング」という言葉が初めて登場したのは、1998年にサイモン・アンホルトが書いた論文だった。アンホルトはマッキャンエリクソンで広告の仕事に携わり、その後自ら広告会社を起業した。彼の当初の関心は、知名度を上げていた企業ブランドを各社の発祥国と関連づけることに向けられていた。大半のケースで、成功したブランドを生み出した国自体もブランドとして成功していることを彼は見出していった。1998年には『ジャーナル・オブ・ブランド・マネジメント』で、イギリスの家電小売大手、ディクソンズについて「1982年に消費者向け自社ブランドの展開を始めたときに『サイショウ(Saisho)』という日本製のような名前を付けて売り出した。なぜなら、イギリスの家電ブランドが信頼されるわけがないとの確信があったからだ」と指摘した。アンホルトには、企業と同じように国も自分たちに対するイメージ向上ができない理由はないと考えた。彼はこうも記している。「ブラジルのような国は、21世紀においてグローバルなブランド供給国という世界の先進『クラブ』のメンバーになれる絶好のチャンスを手にしているのである」

 アンホルトが最初に「ネーション・ブランディング」プロジェクトを手がけたのは2000年前後のことで、欧州連合加盟に向けた準備に着手したクロアチア政府の要請を受けてだった。その頃、クロアチアは世界が自分たちをいまだに1990年代に起きた凄惨なバルカン紛争と結びつけている状況を憂慮していた。クロアチアはエレガントな地中海のイメージがある、民主主義と市場経済の国として認知されたいと考えていたのだ。

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